江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2010年6月27日説教(マタイ26:36-46、心は燃えても肉は弱い)

投稿日:2010年6月27日 更新日:

1.ゲッセマネにて

・4月から3ヶ月間、聖書教育に基づいて、マタイ福音書を読んできました。朝10時からの教会学校で聖書教育に基づく聖書箇所をみんなで読んで話し合い、その後、同じ個所を説教で聞くという形をとってきました。今日がマタイ福音書の学びの最終回ですが、このマタイ26章はある意味でこの福音書のハイライトです。26章を最初から読んでいきますと、まず気がつくのは、イスカリオテのユダが既にイエスを裏切る行動を始めていることです(26:16)。木曜日にイエスは弟子たちと過ぎ越しの食事を持たれますが、この最後の晩餐においても、ユダの裏切りが暗い影を及ぼしています(26:26-29)。食事を終えた一行は祈るためにオリーブ山に向かいますが、その途上でイエスは弟子たちに「今夜、あなたがたは私につまずく」と預言されます(26:31)。その時、ユダはすでに一行から離脱しています。イエスはユダの行動を見て、今夜にも捕り手たちが来て、その時に他の弟子たちも逃げ出すであろうと予期されています。そのような重苦しさの中で、一行はオリーブ山に到着しました。
・オリーブ山はエルサレム郊外の小高い丘で、そのふもとにゲッセマネ(油絞り)の園がありました。オリーブの油を絞る設備があったところからその名がつけられましたが、イエスたちは以前にもよくこの場所に来ておられました。イエスは三人の弟子を連れて、園の奥深くに進んで行かれます。マタイはその時の情況を「イエスは弟子たちと一緒にゲッセマネという所に来て、『私が向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい』と言われた。ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた」。(26:36-37)。これから起こるであろう受難を前に、「イエスは悲しみもだえ始められた」とマタイは記します。
・私たちが驚くのは、イエスが自分の弱さを弟子たちにお隠しにならなかったことです。私たちが苦しみの中にある時、普通はその苦しみを人から隠し、自分の力で何とかしようと思います。人は他者に対して弱さを見せることを嫌がり、自分を閉じるのです。しかしイエスは自分のもだえ苦しむさまをありのままに弟子たちに示され、共に祈ってほしいと言われます「私は死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、私と共に目を覚ましていなさい」(26:38)。目を覚まして共に祈ってほしい、祈りを通して私を支えてほしいとイエスは言われたのです。
・「私は死ぬばかりに悲しい」、この言葉を弟子たちも聞き、彼らも祈り始めます。イエスは祈られます「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください」(26:39)。「死の杯を取り去って下さい、十字架で死にたくありません」とイエスは祈られたのです。しかし、父なる神は何の応答もされません。イエスは神の沈黙の中に、その御心を見られました。だから彼は続けて祈られます「しかし、私の願いどおりではなく、御心のままに」、「どうしても飲むことが必要であれば、その杯を飲みます」とイエスは言われたのです。ここに偉大な信仰があります。自分に理解できないことであっても、御心であれば受け入れていくという信仰です。
・イエスは死を受け入れる決心をされると弟子たちの所に戻られます。しかし、イエスと祈りを共にするはずだった弟子たちは、睡魔に負けて眠り込んでいます。人は自分のためであれば、徹夜で祈ることができます。しかし他者の苦しみや悲しみのためには徹夜できない。イエスはその人間の弱さ、限界を知っておられるゆえに、ペテロを叱責されません。イエスはペテロに言われます「あなたがたはこのように、わずか一時も私と共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」(26:40-41)。
・「心は燃えても、肉体は弱い」、ここに既にイエスの赦しがあります。イエスは再び奥の方に進み、祈られます「父よ、私が飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように」(26:42)。ここではもう「この杯を私から過ぎ去らせてください」という祈りはありません。イエスは苦闘の末、十字架を受け入れられたのです。見ると、弟子たちはまた眠り込んでいます。イエスは弟子たちを起こさないように、祈りを続けられます。三度目の祈りを終えて帰ってきても、弟子たちはまだ眠り込んだままです。イエスは弟子たちを起こして言われます「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、私を裏切る者が来た」(26:45-46)。山の下の方から、ユダに率いられた捕り手が来るのが見えたのでしょう。もうイエスには迷いはありません。三度の祈りを通してイエスは神の御心を受け入れられた、誰かが苦しまなければ人々の救いはないのであれば、私が苦しんでいこう。その決意が「立て、行こう」という言葉の中に現れています。

2.私たちを赦される主

・この物語を通して私たちは人間の弱さを見ます。最初の弱さはイエスの弱さです。イエスは「死を前におののかれた」、ある人は言うでしょう「ソクラテスは不当な判決であるのにそれを受け入れ、毒薬を飲んで死んでいった。それなのにイエスは何だ。死を前におののくとは」。しかし私たちはイエスの弱さを恥じるのではなく、慰めを覚えます。私たちもまた、苦しみの杯を飲まなければいけない時があります。重い病に冒された、生涯をかけた事業が破産に追い込まれた、愛する人が亡くなった、人生には多くの波風があります。その中で私たちは必死に祈りますが、神が答えて下さらない時があります。どうして良いのか分からず、私たちは「もだえ苦しみます」。その時、私たちはイエスさえおののかれたことを知り、慰められます。へブル書は言います「大祭司(イエス)は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです」(へブル5:2)。私たちのために弱さを隠されなかったからこそ、この人は私たちの友となられるのです。
・私たちはどうしようもない肉の弱さを持っています。ペテロはイエスが「今夜、あなたがたは皆私につまずく」(26:31)と言われた時に言いました「たとえ、みんながあなたにつまずいても、私は決してつまずきません」。そのペテロはイエスが血の汗を流して祈っておられた時、目を覚ましていることができずに眠りこけ、捕り手たちが来た時は恐ろしくなって逃げ出しました。イエスが大祭司の屋敷に連行された時、ペテロは後を追いますが、屋敷の人々に「おまえもイエスの仲間だ」と問い詰められると、「そんな人は知らない」と三度否認します(26:74)。イエスが十字架につかれた時も、ペテロはそこにはいませんでした。イエスを裏切ったのはイスカリオテのユダだけでなく、ペテロも同罪だったのです。
・ヨハネ福音書に依れば、イエスが十字架で死なれた後、弟子たちは故郷ガリラヤに帰り、元の漁師に戻ったとあります。そこに復活のイエスが現れます。イエスはペテロが裏切ったことを一言も責められず、ただペテロに「私を愛するか」と三度聞かれます。三度目の時にペテロは悲しんで言います「主よ、あなたは全てをご存知です。あなたは私の弱さを知っておられます。私はかつてあなたを裏切ったし、これからも裏切るかも知れません。しかし、私がどんなにあなたを愛しているかをあなたはご存知です」。そのペテロにイエスは「私の羊を飼いなさい」と命じられます(ヨハネ20:17)。復活のイエスから、かつてイエスを裏切った自分に教会が委ねられた事を知った時、ペテロは生れ変りました。ペテロは弱い人間でした。しかし、自らの弱さを知り、祈り求め、主によって強くされた人間です。私たちもこのペテロにならうことができると希望を持ちます。

3.私たちにとってのゲッセマネ

・今日の招詞にローマ5:6-8を選びました「実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました」。キリストを信じる前のパウロは、「神の怒り」の前に恐れおののいていました。彼は熱心なパリサイ派であり、律法を守ることによって救われようと努力していましたが、心に平和はありませんでした。彼は告白します「私は、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです」(ローマ7:18-19)。「善をなそうという意志はあるが、それを実行できない」、それを妨げているのは彼の中にある罪です。この罪のために、「自分は神の怒りの下にある、自分は滅ぼされるに違いない」との恐れをパウロは抱き、その恐れがパウロを「律法を守ろうとしない」、邪教徒としか思えないキリスト教徒への迫害に走らせます。
・しかし、ダマスコ郊外で復活のイエスと出会い、パウロの恐れは一撃の下に葬り去られました。パウロは死を覚悟しましたが、そのパウロを待っていたのは死の宣告ではなく、キリストの赦しでした。恐ろしい神との敵対は一瞬のうちに終結し、反逆者パウロに神との平和が与えられました。キリストが命を捨ててまで救おうとされたのは、善人でもなく義人でもない、むしろキリストの迫害者として憎んでも余りある自分のためであった。ダマスコで復活の主イエスにまみえた時、パウロはこの驚くべき真理によって打ちのめされ、キリストの愛が彼の敵意を溶かしました。こうして彼はキリストの迫害者からキリストの伝道者に変えられていきます。しかし、そのことによって、彼はユダヤ人からは「裏切り者」として命を狙われるようになります。苦難が彼を訪れたのです。しかし彼はその苦難を喜ぶことができる者に変えられました。神との平和をいただいたからです。
・ペテロや他の弟子たちが経験したのも、同じ回心です。私たちは、何か危機があれば、主を裏切り、見捨てて逃げかねない存在です。私たちがユダであり、ペテロなのです。イエスへの裏切りはその後の時代においても繰り返し起こっています。初代教会はやがてローマ帝国の各地に広がって行きますが、時々のローマ皇帝の宗教政策により、ある時は迫害され、ある時は容認されました。キリスト教に寛容な皇帝の下では信徒は増え、否定的な皇帝の下では信徒は散らされていきました。迫害があると多くの信徒が棄教し、迫害が止むと教会に戻ってくるという出来事が歴史上繰り返し起こっています。目を覚ましていることができない私たちがそこにいます。心は燃えても肉体は弱い存在の私たちです。「その我々のためにキリストは弱くなられた」、イエスは苦しみの中でも自分を閉じられず、弟子たちに弱さを見せて下さった。そのことによって私たちは救われた。だから私たちも教会の中で、お互いの弱さを隠さず、祈ってほしいと言うことができるのです。教会はお互いの弱さを受け入れ、赦すことのできる唯一の場所なのです。教会にあって、私たちは神の赦しを受け、神との平和をいただいています。神は弱い私たちを招き、神の業に参加することを許されています。その幸いに感謝したいと思います。

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