江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2010年3月21日礼拝説教「罪の悔い改めと赦し」(ヨハネ8:1-11)

投稿日:2010年3月21日 更新日:

1、犯罪と神に対する罪の相違(CrimeとSin) 

今日は受難節第五主日です。エルサレムに入られたイエスは、夜はオリブ山で祈り、朝は神殿に帰り民衆に教えておられました。そんなある日のこと、律法学者とファリサイ派の人々が姦淫の現場で捕えた女を連れてきて、真ん中に立たせて言いました。「先生、この女は姦通をしている時に捕まりました。こういう女は石で打ち殺せとモーセは律法の中で命じています。ところであなたはどうお考えになりますか。」モーセの律法は姦通に対して死刑を定めています(レビ20:10)。特に申命記22:20の規定は姦通の現場で捕えられた者の処刑を求めています。死刑の方法は、罪の種類によって異なっていました。律法に明文はありませんが、ラビたちの伝統では、姦通は石打ち刑でした。ファリサイ派では、口伝律法も成文律法と同じく、モーセの命令とされていたので、律法学者たちは「モーセは律法の中で、このような女たちは石打ちにするようにと、私たちに命じました。」と、言ったのです。 
 しかし、律法学者とファリサイ派の狙いは別のところにありました。彼らは自分たち教師を差し置いて、民衆の間に徳望の高いイエスを試して、この際、陥れようとしていたのです。もし、イエスが「女を殺すな」と言えば、モーセの律法に違反していると告発しようとしていました。実際、律法に背くように、民衆を扇動する異端教師は処刑される危険性がありました。また、「女を殺せ」と言えば、イエス自身が教えている愛の教えに背くと非難しようと企んでいたのです。彼らはイエスがどちらの答えを選んだとしても、罠にかけられるはずだと、周到に計画し、勝算を立てていたのです。
 しかし、イエスは彼らの罠にはかかりませんでした。彼らが問い続けている間、地面に書き続けておられました。これを見たファリサイ人や律法学者らは、イエスは答えに困って、黙っていることしかできない、自分たちの勝ちは間違いないと思いこみ、嵩にかかってイエスに答えを迫りました。「彼らがなおもしつこく問い続けるので、イエスは身を起して言われた。『あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、石を投げなさい。』そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。」(8:7-8)とヨハネは記します。そのイエスの答えを聞いた者は、「年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。」(8:9)
 イエスが彼らに求めたのは、自らを振り返り、自らも女と同じ罪人であることを、知ることでした。彼らが女にばかり非難の目を向けている間は、彼らの内に罪の自覚はおこりません。しかし、イエスはそれを言葉で求めようとはせず、静かに沈黙をもって考えさせたのです。石を女に投げようとした人々の目を内なる自分の良心に向けさせたのです。良心に誓って、自らを「罪なし」と言えるなら「石を投げよ」と言うイエスの言葉は、彼らの心を揺り動かし良心を目覚めさせたのです。                 
 英語では法秩序を犯す罪、つまり犯罪をCrime、内なる心で犯す罪、本来の意味は神のおきてに背くことをSinと言い、はっきり言い分けています。そしてこの内なる罪Sinこそが外に現れ出て、Crimeとなるのです。イエスが「あなたたちの中で罪のない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と言われた後、ファリサイ人も律法学者も群衆も立ち去ったのは、自分たちは神の前でSinなる罪を犯していないと、誰も言い切れなかったからです。残念ながら日本語は罪をCrimeやSinのように、使い分けることができません。だから、もし日本でこのような事が起こったら、人々は石を投げるのではないかと言う人がいます。言葉の無いのは、神にたいする罪の思想が無いからだと考えられます。
イエスは身を起して女に言われました。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」イエスはそれ以上、咎めようとせず女を赦されました。

2、イエスが身をもって示された神の憐れみ              

 この姦淫の女を赦す行為は危険を伴っています。石打ちの刑については、申命記17:7に「まず証人が手を下し、次に民が全員手を下す」とあり、律法の規定では律法違反のない者は石を投げる資格がありました。これによると石を投げるのは誰でもよいということなるので、大勢の群衆からの石打ちから女を救うことは、とても危険な行為なのです。イエスはここで、神の救いを、言葉ではなく身をもって示しておられます。イエスは女のそばで身をかがめて、地面に何かを書き続けておられました。そのとき群衆が女に石を投げれば、当然イエスにも当たります。だから女に石を投げることは、イエスに石を投げることになります。イエスは女の盾となり女をかばっておられたのです。イエスはここで神の憐れみを言葉だけではなく、身をもって示されたのです。  
 この女はマグダラのマリアではないかと言われています。イエスが十字架にかけられた時、ゴルゴタの丘まで付き従い、イエスが葬られた後は、その墓に行き、復活のイエスに最初に出会った女性が、このマグダラのマリアです。マグダラのマリアは、その後イエスの憐れみと、赦しにより新しく生まれ変わったのです。女を石打ちから守った温かい抱擁力や、悔い改めを待つ忍耐や、おおらかな罪の赦し、これらは全て神の愛から生まれたのです。「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子」を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネ3:16-17)と、ヨハネが述べている、その神の愛がここに示されているのです。                                        

3、人の罪を赦す権能
 
今日の招詞にヨハネ20:23を選びました。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。あなたがたが赦さなければ、赦さないまま残る」。これは復活されたイエスが弟子たちに、罪の赦しの権能を与えられた言葉です。イエスは姦淫の女に「私もあなたを罪に定めない」と言われ、ここでは弟子たちに「罪の赦しの権能をあたえる」と言われました。どうしてイエスは人の罪を赦す権能をもっておられるのでしょうか。
 罪を赦すことのできる方は神おひとりであるはずなのに、なぜ、イエスは神から罪を赦す権能を与えられたのでしょうか。それは、イエスは神の命に従い、十字架上で苦い盃を飲み干して、人々の罪をあがなう決断をされたからです。ドイツの神学者ボンへッファーは恵みには、「安価な恵みと高価な恵みがある」と言っています。「安価な恵み」は「罪はそのままでいい」と言う恵みです。しかしここでは何も解決されていません。罪は罪のままで残るからです。それに対して、イエスの罪の赦しは「高価な恵み」です。なぜならそこには、イエスの血を通しての罪の購いがあるからです。イエスはこれから向かう十字架への道を見据えて、「その裁きは、私が引きうける。あなたの罪は私があがなう。」と決意されました。それゆえに「私もあなたを罪に定めない。」と、女に宣言されているのです。そしてイエスは復活という事実をもって、世の罪に勝利されたのです。その罪の赦しの権能が今、私たちに委ねられていると聖書は語ります。
 ヨハネ8章の「姦淫の女の赦しの物語」が、私たちに教えているのは、ほんとうに裁かれなければならないのは、女ではなく、女を責めて恥じない律法学者やファリサイ人だということです。そして、その律法学者やファリサイ人は、実は私たち自身のことではないかと気付かされるのです。実際、赦しの教えを聞くと自分が恥ずかしいのです。だから「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」その私たちに罪の赦しの権能が与えられています。責めるよりも赦す者になることを求められているのです。
マザー・テレサは、こう言っています。「人を責めることは簡単にできます。人を恨むことも、憎むことも簡単です。そして、怒ることも、赦さないことも、感情的に人を裁くことも、簡単にできます。しかし、人を赦すことは簡単ではありません。だから、人は気付く、気付かないに関わらず、何らかの罪を犯しています。だから、人はお互いに赦し合わなければ、平和に暮らすことはできないのです。」 
罪を赦された者は新しく生まれ変わります。そして教会は新しく生まれ変わった者へ、イエスの名において、バプテスマ(洗礼)を施します。今日の応答賛美として、新生讃美歌401番「わが君イエスよ、罪の身は」を讃美します。赦しと悔い改め、そしてバプテスマを歌った歌です。マグダラのマリアは、この日赦され、悔い改め、そして霊のバプテスマを受けました。だから彼女は最初に、罪びとの自分を赦してくれたイエスの恵みを歌います。「わが君イエスよ、罪の身は、暗き旅路に迷いしを、くまなく照らす御恵みの、光をうくるうれしさよ」。次に彼女はその赦しがイエスの血による購いであることを知り、イエスの跡に従いますと歌います「君の血潮に救われし、われが今より一筋に、御足の跡を慕いつつ、御国の道を進みゆかん」。そのしるしとして彼女はバプテスマを受けます「罪のこの身は今死にて、君のいさおによみがえり、神のしもべの数にいる、清きしるしのバプテスマ」。まさに今日の物語にふさわしい讃美だと思います。

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