江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2010年1月10日説教(ルカ3:21-22、洗礼、新しい人生への出発)

投稿日:2010年1月10日 更新日:

1.イエスのバプテスマ、公生涯の初め
・クリスマスも終わり、お正月も終わった今、私たちは改めて、これからの1年の時を思います。今の時は、今年がどのような年になるのか、どのような年になってほしいのかを考える時、出発の時です。この出発の時に当たり、イエスの出発点である洗礼の出来事を見ていきます。今日与えられたテキストは2節だけですが、この短い言葉の中に、多くのメッセージが秘められています。
・イエスは洗礼をバプテスマのヨハネからお受けになりました。ヨハネはヨルダン川流域の荒野に現れ、人々に悔改めの洗礼を勧めました。当時、ユダの荒野にはエッセネ派と呼ばれる修道僧たちが住み、祈りと断食の生活をしていました。彼等は罪を清めるために毎日水に入りましたが、ヨハネは体をいくら洗っても人間に内在する罪は洗えないことを啓示され、人々に悔改めを促す預言者として立てられます。ヨハネは叫びます「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(3:9)。終末の裁きの時が近づいているとして、彼は人々に悔改めを迫ったのです。当時の人々も、世の終わりは近いと感じていました。イスラエルはヘロデ王の死後、三人の子供たちが領土を争い、混乱の中で首都エルサレムを含むユダ地方はローマ直轄領とされ、異邦人であるローマ総督が治めていました。しかし、ローマ支配に反対する人々はたびたび反乱を起こし、世情は騒然としていました。その不安の中で、人々はこの乱れた世を救うメシヤの到来を待ち望んでいました。人々はヨハネこそメシヤかも知れないと期待しましたが、ヨハネは「自分はメシヤではない、メシヤはやがて来られる方だ」と述べます(3:16)。
・イエスはヨハネが「世の終わりが来た」として宣教を始めたのを聞かれ、故郷のガリラヤを出てユダに来られ、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられました。イエスがバプテスマを受けられた時、天が開き、声が聞こえたとルカは記します「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたは私の愛する子、私の心に適う者』という声が、天から聞こえた」(3:21-22)。
・イエスが洗礼を受けられた時、「天が開いた」とルカは記します。天が開くということは、そこに神の介入があった、神自らが行為されたことを表す表現です。かつてイザヤは絶望的な状況の中で神に嘆願しました「 どうか、天を裂いて降ってください。御前に山々が揺れ動くように」(イザヤ63:19)。「なぜ沈黙されているのですか、なぜ行為されないのですか、お願いですから助けて下さい」とイザヤは祈りました。イザヤの時代も、イエスの時代も、世情は騒然とし、人々は救い主、メシアを求めて、祈っていました。その祈りに応えて神が今まさに行為されたとルカは記しています。
・またルカは、イエスが洗礼を受けられた時、「聖霊がイエスの上に降った」と記します。イエスの働きは聖霊、神の霊を受けることから始まりました。ヨハネは洗礼について「私はあなたたちに水で洗礼を授けるが、私よりも優れた方が来られる・・・その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と言いました(3:16)。聖書が私たちに示すことは、私たちが悔改めて水の洗礼を受けることが救いの初めであり、その後の歩みの中で聖霊の洗礼を受けて、救いが完成するということです。私たちは自分の罪を認め、先ず水に入ります。そして信仰の歩みの中で、旧い自分が火によって焼き尽くされ、聖霊に満たされて新しくされる時を迎えます。これが火と聖霊による洗礼であり、その時、私たちは新しく生まれ変わります。
・最後にルカは記します「あなたは私の愛する子、私の心に適う者という声が、天から聞こえた」と。この天からの声をイエスが聞かれたということは、イエスが神の子として召命されたことを示します。「あなたは私の愛する子」、父なる神が、ご自分とイエスとの間に父と子という深い愛の関係があることを明らかにして、イエスがこれから歩もうとしている道を支えて下さるとの宣告です。「私の心に適う者」、神の御心を行う者としてイエスが立てられたことを示します。イエスはこのバプテスマを通して、神の子としての使命が自分に与えられていることを自覚されたのです。

2.イエスなしには贖えない私たちの罪

・イエスはバプテスマを受けられた後も、ヨハネの弟子として荒野におられました。その後、ヨハネはガリラヤの領主であったヘロデ・アンテイパスを批判したため、捕えられ、死海の近くにあるマケロスの要塞に幽閉されます。イエスがヨハネ共同体から独立して宣教を始められたのは、その後です。マルコは記します「ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣伝えて言われた、『時は満ちた、神の国は近づいた。悔改めて福音を信ぜよ』」(マルコ1:14-15)。
・やがてイエスの評判が獄中のヨハネに届きます。ヨハネの使信は「審きの時は近づいた、悔改めなければおまえたちは滅ぼされるだろう」というものでした。「良い行いをしない者は集められて火に燃やされる」というのがヨハネの考える審判であり、メシヤとはその裁き主でした。しかし、聞こえてくるイエスの行為は罪人の裁きではなく、罪人の赦しでした。ここにおいてヨハネはイエスが本当にメシヤかどうか疑問を感じ、イエスに使いを送ります。その使いにイエスは答えられます「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。私につまずかない人は幸いである」(7:22-23)。ヨハネは預言者でした。預言者は人々の罪を告発し、悔改めを促し、神に相応しく生きることを求めます。ルカの伝えるヨハネの言葉もそれを示します「二枚の下着を持っている者は一枚を隣人に分けよ、不正をするな、人々からむさぼるな」(3:11-14)。しかし、このような道徳的行為では人は救われません。何故ならば、人間の罪は、自己を救うにはあまりにも重いからです。
・「人間の罪は自己では贖い得ない」、その人間の罪、原罪を示すものが、ローマ3章にあるパウロの言葉です。彼は言います「正しい者はいない。一人もいない・・・彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。口は、呪いと苦味で満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある」(ローマ3:10-16)。私たちはこのパウロの言葉を聞くとき、自分はそんなに罪人ではないと思うかも知れません。しかし、冷静に自分を含めた人間存在を見つめた時、このパウロの言葉が誇張ではないことを知ります。小さな実験をしてみるとすぐにわかります。今、私が言葉で皆さんを喜ばせることは至難の業ですが、傷つけるのは簡単です。皆さんが知られたくないこと、言われたくないことをここで述べるだけで皆さんは傷つく。正に「(私たちの)のどは開いた墓であり、(私たち)は舌で人を欺き、(私たち)の唇にはまむしの毒があり、(私たち)の口はのろいと苦い言葉とで満ちている」のです。これが私たちの本性、私たちの罪の姿です。私たちは自分の力ではこの罪の縄目から解放され、神にふさわしい者としての人生を歩めない存在なのです。だからパウロは嘆きます「私は、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」(ローマ7:18-19)。

3.私たちの洗礼、新しい人生の出発

・今日の招詞にイザヤ42:1-3を選びました。次のような言葉です「見よ、私の僕、私が支える者を。私が選び、喜び迎える者を。彼の上に私の霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする」。イエスの受洗時に天から響いた声、「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」の言葉は、この「見よ、私の僕、私が支える者を。私が選び、喜び迎える者」というイザヤの言葉を、イエスがご自分への言葉として、聞かれたものです。イエスは受洗を通して、自分が神の子であることを自覚されたのです。
・イザヤは、神の御心に適う僕が選ばれ、立てられ、遣わされると語ります。その僕は「叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない」僕です。そして彼は「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする」人です。ヨハネは来るべきメシアこそ裁き主と言いましたが、そのメシアとはこの僕のような裁き主です。僕によって、救われる者と滅びる者とが分けられていきます。しかしその裁きは、「叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない」仕方で、つまり力づくで人々を支配し裁くという方法ではなく行われます。そしてその裁きは、「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく」、成し遂げられます。傷ついている者、弱っている者が、この裁きにおいて断罪され、滅ぼされてしまうのではなく、むしろ赦され、救われていくのです。
・どうしてそのような裁きが可能なのでしょうか。イザヤは言います「彼が刺し貫かれたのは私たちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは私たちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、私たちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私たちはいやされた」(53:5)。主の僕は、自らが罪人のために身代わりとして死ぬことによって罪の赦しを人々にもたらすのです。それゆえに、この僕による裁きは、「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すこと」のない裁き、罪人に滅びではなく救いをもたらす裁きなのです。
・「私の心に適う者」という天からの声は、イエスがイザヤの預言した「主の僕」として、救いの業を行うことを告げています。それはイエスが十字架の死への道を歩むということです。そのように歩むイエスこそ、父なる神の「御心に適う者」であり、またそれ故に、父はイエスを「愛する子」と呼んでおられるのです。このようなイエスに私たちは出会い、新しい者となりました。その新しい者として生き方はイエスに従う生き方、つまり、「叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない」、そして「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく」生きる生き方です。具体的にはどのような生き方になるのでしょうか。
・マザー・テレサは言います「人々は、理性を失い、非論理的で自己中心的です。それでも彼らを愛しなさい。もし、良いことをすれば、人々は自分勝手だとか、何か隠された動機があるはずだ、と非難します。それでも良い行いをしなさい。もし、あなたが成功すれば、不実な友と、ほんとうの敵を得てしまうことでしょう。それでも成功しなさい。あなたがした良い行いは、明日には忘れられます。それでも良い行いをしなさい。誠実さと親しみやすさは、あなたを容易に傷つけます。それでも誠実で親しみやすくありなさい。あなたが歳月を費やして建てた物が、一晩で壊されてしまうことになるかもしれません。それでも建てなさい。ほんとうに助けが必要な人々を助けたら、彼らに襲われてしまうかもしれません。それでも彼らを助けなさい。持っている一番良いものを分け与えると、自分はひどい目にあうかもしれません。それでも一番良いものを分け与えなさい」。聖書の勧める生き方はこのような生き方です。これこそが「叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない」、そして「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すこと」のない生き方です。
・それは非常に難しい、しかしチャレンジする価値のある生き方です。その生き方は決して快適なものではありませんが、満たされた生き方です。へブル書は言います「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです・・・だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです」(へブル11:13-16)。天の国を求めた旅が始まります。その旅の始まりが水の洗礼なのです。

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