1.最も大事な戒め
・今日、私たちの教会は創立40周年の記念日を迎えました。ただ特に40周年記念の式典を行うわけではありませんし、記念文集も出しません。40周年は教会にとって一つの通過点に過ぎず、過去を振り返るよりも、将来に目を向けることがより大事だと思うからです。ただ、40周年を記念する礼拝の聖書箇所として、「最も大事な戒め」の箇所が与えられたことを、特別なことと考えています。「これからの教会形成の指針として覚えなさい」と示されているような気がするからです。
・マルコ12章「最も大事な戒め」は受難週に話されたイエスの教えです。イエスは日曜日にエルサレムに入城されました。民衆はイエスを「メシア」として歓迎しましたが、イエスに敵対する人々も多く、ユダヤ教指導者、祭司やパリサイ人、サドカイ人たちは次々に論争を挑んで来ました。イエスは度重なる論争に鮮やかに答えられ、それに感心した一人の律法学者がイエスに尋ねます「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」(12:28)。
・ユダヤ人は神から与えられた戒め、律法を守ることで救われると考えてきました。律法とは例えば安息日を守るとか、割礼を受けるとかの戒めで、聖書に書かれた戒めはもちろん、ラビたちの解釈した戒めも加えられ、イエスの時代には614もの戒めがあり、どれを最も大事なものとして守ればよいのかが、ユダヤ人にさえ解らなくなっていました。それに対してイエスはただ二つのことを言われます。最初に言われたのが「イスラエルよ、聞け、私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(12:29-30)。これは申命記6:4-5の引用で、ユダヤ人はこの御言葉を最も大事な教えの一つとして朝晩唱えます。イエスが言われた第一の戒めはユダヤ人にとっては納得できるものでした。
・イエスは続けて言われます「第二の掟は、これである『隣人を自分のように愛しなさい』。この二つにまさる掟はほかにない」(12:31)。これはレビ記19:18からの引用ですが、ユダヤ人には驚くべき内容を持っていました。隣人を愛することは大事なこととして教えられましたが、それが神を愛することと同じくらいに大事な戒めとは考えてもいなかったのです。「神を愛する」とは、神のために犠牲の動物を捧げたり、礼拝を守ることだと人々は考え、まさか「人を愛することだ」とは思いもしませんでした。
・ここで私たちは、律法とは何かを改めて考える必要があります。代表的な律法であります十戒は出エジプト記にありますが、その第一戒は「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、私をおいてほかに神があってはならない」(出エジプト記20:2-3)となっています。原文のヘブル語は禁止命令ではなく、断言命令で書かれています。「してはならない」ではなく、「するはずがない」と書かれているのです。「私はあなたを愛してエジプトから救い出した。だからあなたが私以外の者を救い主として拝むはずがない」。「姦淫するな」と戒めも同じです。「私の愛したあなたが、婚姻を破ることによってあなたの妻を悲しませることをするはずはないではないか」。律法とは神からの祝福に対する人の側からの応答なのです。その祝福の応答を人々は、「しなさい」、「してはいけない」と言う命令に、束縛に変えてしまった、そこに問題があるとイエスは言われているのです。律法は神の愛に対する応答、福音であることを忘れると、人間を縛る呪いになってしまうのです。
2.神を愛することは人を愛すること
・律法学者はイエスの教えに驚いて言います「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています」(12:33)。焼き尽くす献げもの=犠牲の動物を祭壇で火に焼き、神に捧げる。そういう献げものよりも、人を憐れみ、人に仕えることを神はお喜びになるとイエスは教えられ、律法学者もそれは正しいと言ったのです。だからイエスは言われます「あなたは神の国から遠くない」と(12:34)。「あなたは神の国から遠くない、しかし、あなたは聞くだけで実行しようとしない。だから、あなたはまだ神の国に入ってはいないのだ」。
・並行記事のルカ10章ではこの問答に続いて「良きサマリヤ人の例え」が語られています。隣人とは誰かと言う話です。「ある人が強盗に襲われて倒れている。そこに祭司が通った、彼は関わりあいになることを恐れて避けて行った。次にレビ人が通った、彼も避けて通った。次にサマリヤ人が通る。彼は倒れている人を見て気の毒に思い、介抱して宿屋まで連れて行った。誰があなたの隣人になったのか」。
・私たちも良い隣人になりたいという願いはあります。しかし、道端にホームレスの人が酔って寝込んでいるとき、私たちは自分に無関係の出来事としてその横を通ります。誰かが、警察か福祉の人が何とかするだろうとごまかしながら、私たちは関わろうとしません。私たちも祭司やレビ人と同じ行動をとり、サマリヤ人になれないのです。何故ならば、サマリヤ人になるには払う犠牲が多すぎるのです。暗く、さびしい道、強盗がまだそこにいるかもしれない。ここで時間をとれば自分も襲われるかもしれない。隣人になるとは自分も危険に巻き込まれかねない行為を含みます。
・私たちは傍観者の立場からこの物語を聞いていますが、仮に私たちが当事者、強盗に襲われ、傷ついて倒れている本人であれば、話は異なってきます。「私が旅をしている時、暗がりから強盗が現れ、私を殴り倒し、身ぐるみを剥いだ。その時人の足音が聞こえたので、強盗は逃げた。見ると祭司が歩いてくる、祭司は神に仕える人だから助けてくれるだろうと思った時、彼は反対側によけて行った。私は祭司を呪った。しばらくするとレビ人が来た。レビ人は神殿に奉仕する人、レビ人であれば同じ信徒として助けてくれるだろう。しかし彼もまた私をよけて行った。私は絶望した。するともう一人の人が来た。彼はサマリヤ人、私たちユダヤ人とは敵対関係にある人だ。彼は私を助けないだろう。ところがこのサマリヤ人は私のそばにより、私の傷にオリーブ油とぶどう酒とを注いで包帯をして、私をろばに乗せて宿屋まで運んでくれた。信じられない出来事が起こった。だれも助けてくれなかったのに、サマリヤ人が助けてくれた。神様、感謝します。もし今後、サマリヤ人が困っていたら、私も必ずサマリヤ人を助けます」。
・私たちが傍観者のままであれば、私たちは隣人にはなれない。しかし当事者であれば、倒れている人が自分の子供、あるいは兄弟だったら、私たちは通り過ぎたりしない。危険があっても助けます。また倒れている人がかつて自分を助けてくれた恩人だったら、見捨てません。イエスは言われます「そのサマリヤ人が今、ここに倒れているのだ。あなたをかつて助けてくれたその人が苦しんでいる。あなたがこの人を助けないはずがないではないか。隣人を愛するとはそういうことなのだ」と。
3.愛されたから愛する
・今日の招詞にヨハネ第一の手紙3:16-17を選びました。こういう内容です。「イエスは、私たちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、私たちは愛を知りました。だから、私たちも兄弟のために命を捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう」
・自然のままの私たちは、本当の意味では人を愛することは出来ません。しかし、私たちがかつて傷つき倒れていた時に、イエスが通りかかり、私の傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで介抱してくれました。イエスはその行為のために死なれました。イエスを命をかけて救ってくださった。その経験をした時、私たちはわかりました「良きサマリヤ人とはイエスなのだ。イエスは、危険を顧みず私を介抱してくれた」。そして、「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」とは、「私があなたを愛したように、あなたも隣人を愛しなさい」という意味であることがわかってきます。そうです、イエス・キリストへの信仰無しには人は隣人を愛せないのです。
・そして「イエス・キリストへの信仰を持って隣人を愛し始めた時」、驚くべき世界が生まれます。2009年10月27日朝日新聞夕刊に、坪野吉孝・東北大学教授の「失業率と自殺率」というコラム記事がありました。日本では、失業率が増加すると自殺率も増加しますが、海外でも同じ傾向があります。失業してこれからどうしてよいかわからない、自分はこの社会では不要な人間だ、その絶望が人を自殺に追いやります。イギリスのランセット誌に掲載された論文では、EU26カ国の動向分析をしていますが、EU全体の平均を見ると、失業率が増えると自殺率も増加し、またアルコール乱用死も増加していました。しかし、フィンランドとスウェーデンは違いました。フィンランドでは、1990年から1993年にかけて失業率が増加(3.2%から16.6%に急増)したのに、自殺率はむしろ減少しました。スウェーデンも、1991年から1992年にかけて失業率が増加(2.1%から5.7%)したときに、自殺率は減少しました。坪野先生は最後に言われます「失業しても自殺につながるような大きな不安なしに暮らせる社会が実際にある。この事実は、失業と自殺が連動する社会に暮らす私たちにとって、大きな希望と教訓を与える者ではないだろうか」。
・北欧は高福祉・高負担であり、私たちの社会とはなじめないと思う人もいますが、聖書的に見ると「分かち合い」を制度化したものが高福祉・高負担のシステムです。ある新聞のコラムに次のような記事がありました「経済のグローバル化が進む世界で、高福祉・高負担の北欧式は生き詰まるのではないかと言われた。だが実際には、産業構造や労働市場を巧みに調整しながら経済成長を続けている。日本人は北欧について”高負担の国々が、どうやって経済成長できるのか”という点に関心を抱くが、彼らは経済成長よりも、尊厳をもって生きられる社会をどうやって築くかを重く考えている。スェーデンでは、社会サービスを“オムソーリー”(悲しみを分かち合う)と呼ぶ。他者に優しくし、必要とされる存在になることが生きることだと考える。その概念によって社会が支えられている。高い税金に不満が少ないのも、分かち合いの発想から来ている。いつかは自分も子供を持ち、高齢者、或いは失業者になる。充実した介護や育児サービス、教育や職業訓練があれば安心できる」(2008年5月朝日新聞コラムから)。隣人愛、分かち合いが社会化されるとき、そこに神の国が生まれていくのです。
・イエスは律法学者に言われました「聞くだけではなく行いなさい。あなたの目の前にいる人はみな私なのだ。高校生が不登校で苦しんでいる時、私が苦しんでいるのだ。母親が子供の発育を心配して悩んでいる時、私が悩んでいるのだ。私はあなたの助けを必要としているのだ」。私たちの目の前にいる一人一人こそ、イエスなのだとして受け入れるとき、即ち彼らの問題を私自身の問題とした時、私たちは神の国に入っているのです。ある姉妹が次のような証しをされました「教会に来る人に“どうして教会に来たのですか”と問いますと、多くの人が“病気になったから”と答えられます。けれどもその後に興味深いのは“どうして毎週教会に来るのですか”と聞きますと、“病気を治してもらいたくて来る”という人はほとんどいなくて、“共に歩んで下さる主を感じ、見ることが出来るから教会に来る”と答える人がほとんどです」。イエスが臨在されるような教会を共に形成したい、40周年に際して与えられた思いです。