1.十二弟子の派遣
・聖霊降臨節の今、マルコ福音書から御言葉を聞いています。先週、私たちは、イエスが故郷ナザレで宣教されたが、「故郷の人々はイエスにつまずいた」(6:3)という記事を読みました。しかしイエスは落胆されず、その出来事の後も宣教の旅を続けられます。そしてご自身の宣教の業を継承し、拡大するために、弟子たちを各地に派遣されます。イエスはガリラヤ湖のほとりや旅の途上で弟子たちを召され、その中から十二人を選び、今その十二人を派遣されます。この十二人から教会が生まれてきました。この派遣の記事は私たちに、教会とは何か、伝道とは何かを考えさせる内容を持っています。
・マルコは記します「それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた」(6:7)。「十二人を派遣された」、この十二人は明らかにイスラエル十二人部族を象徴しています。並行箇所のマタイ福音書でイエスは言われます「イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」(マタイ10:6)。古いイスラエルに代る新しいイスラエル、教会の基礎を造る為の派遣です。「二人づつ組にして」とはユダヤの慣習に従うものです。ユダヤの裁判では二人以上の証言でであれば真実であるとみなされたのです。また派遣に際し、一人では孤独に陥り、行き詰る可能性もありますので、困難を助け合うために二人が必要とされたのでしょう。教会の業は一人ではなく、二人以上で為される、共同体の業であることが示唆されています。
・そしてイエスは命じられます「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして下着は二枚着てはならない」(6:8−9)。「杖一本で出かけよ」、イエスは弟子たちに軽装で出かけるように指示されます。これはイエス受難の時が迫り、弟子たちの訓練が急がれたことが背景にあると思われます。「お金も食糧も持つな」とここで命じられています。必要なものは神が与えて下さる、伝道はそれを信じて行うことが命令されています。物質的な豊かに保証された伝道は往々にして宣教をゆがめます。教会の歴史を見ても、教会が少数派で迫害下にある時はその宣教は純粋ですが、多数派になり支配的になれば、堕落が始まることを教会史は示します。また私たち日本バプテスト連盟の経験でも、教会堂を建て牧師給を保証する、拠点開拓伝道と呼ばれる方法は必ずしもうまくいっていません。たくさんのものを持つ伝道よりも、何も持たない伝道のほうが、人々に本質的なものを提供しうるのは事実です。
・イエスは言葉を続けられます「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい」(6:10-11)。「村に入った時に提供されるものは何でも受けなさい。また受入れてくれる家があればそこに留まり続けなさい」、一つ所への定着が勧められています。妥当な指示だと思いますが、次の言葉「人々が受入れない場合は、足の裏のちりを払ってそこを出なさい」という言葉は強烈です。「足の裏のちりを払う」、ユダヤの伝統では「関係断絶の象徴的行為」であり、「その土地が異教の地とみなされる」ことを意味します。私たちは御言葉を聞こうとしない人々を説得して、わかって欲しいという努力をしますが、イエスは「そのようなことはするな。聞こうとしない人のことは神に委ねて、あなたは新しい人々の所に行きなさい」と命じられます。
・私たちには宣教の責任がありますが、その結果は神に委ねよと言われているのです。現代的に言えば「牧師は一つ所で腰を落ち着けて宣教の業にあたりなさい。しかしもしそこで行き詰った時には新しい任地を求めなさい」ということなのでしょうか。教会の牧師異動の多くが、教会員と牧師の関係悪化という不幸な原因で為されている悲しい現実があります。いずれにせよ、宣教は神の業であり、決断はそれを受ける人の問題であり、私たちが関与する事柄ではありません。宣教は結果を求めてはいけないのです。「50名礼拝を目指そう」、「100名礼拝を目指そう」、それは人間的な目標であっても、神の御心ではないことをわきまえるべきでしょう。
2.置かれている社会の中で、宣教を考える
・今日のテキストの中心になる言葉は7節「イエスは汚れた霊に対する権能を授けられた」という箇所だと思います。「汚れた霊」とは悪霊です。聖書では、人間の霊肉を支配し、精神的・肉体的な病気をもたらし、道徳的・社会的混乱を引き起こす力とされています。この悪霊はしばしば精神医学的な疾患と解釈されますが、もっと広く「人間を人間でなくする力」と考えた方が良いと思います。ナチスに率いられたドイツが、ユダヤ人の大量殺戮という過ちを起こした背後に、悪霊の働きがありそうです。戦前の日本軍が無謀な領土拡大戦争を行い、数百万人のアジアの人々を殺していったのも悪霊の働きでしょう。投下する必要のなかった原子爆弾を投下した、アメリカの指導者の背後にも悪霊はいます。利潤追求のあまり、労働者の三分の一を非正規労働に置き換え、深刻な社会不安を引き起こしている日本の経営者の背後に、悪霊を見るのは異常なのでしょうか。悪霊という視点で現代社会を見た時、悪霊が人々を捕らえ、苦しめている状況が見えてきます。マルコはイエスが「大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れ」まれたことを伝えていますが(6:34)、現代も同じ状況の中にあります。「人々を捕らえている、汚れた霊」からの解放を推し進めるのが、あなたの仕事だとイエスは言われています。
・私たちはイエスの派遣命令を受けて宣教に出かけます。今日の招詞としてマタイ10:16を選びました。マタイ福音書の弟子派遣の記事の一節です。「私はあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」。イエスは「私たちが派遣される場所には狼の群れがいる」と注意されます。どのような狼がこの日本にいるのでしょうか。
・野村喬という牧師が「福音と世界」3月号に、「伝道する心」と題して、次のようなことを書いておられます「日本の社会は教会を問題にしていない。教会が何を主張し、どのような行為をしようと、社会に影響を与えることは出来ない。日本のクリスチャンは人口の1%、絶対的少数者なのだ。しかし少数者の割には、キリスト教に関する本は読まれ、音楽は聞かれている。それはミッションスクールの影響だろう。多くのミッションスクールがあり、教育分野でのキリスト教の影響は大きい。しかしミッションスクールで学ぶ学生のほとんどはクリスチャンにならない。礼拝出席を義務付ける学校もあるが、成功していない。学生にとってキリスト教は社会的教養であって、自分の問題を切り開く宗教的な力ではない。また結婚式の半分以上はキリスト教式だが、司式者に求められるのは神学的訓練ではなく、セレモニーの進行役だ。結婚式の大半は説教の時間はなく、あっても数分だ。人々はキリスト教の形は欲しいが、中身はいらないといっている」。鋭い指摘だと思います。私たちの宣教の場である日本人社会には、「福音に無関心」という狼がいるのです。
・何故人々は文化としてのキリスト教を受入れながら、宗教としてのキリスト教に関心を示さないのでしょうか。それは自分たちの直面する問題に対して、教会は無力だと考えているからです。うつ病を患っている人が教会に来ても病気は治癒しません。失業している人が教会に来ても、教会は自立の必要性を説くだけで職探しの手伝いをしてくれるわけではありません。死に直面している人が教会にきて、「永遠の命」の説教を聞いても慰められないでしょう。何故なら「死について」、誰も確信を持って語ることが出来ないからです。教会は無力です。しかしその無力な教会が何故2000年間もその命を保ってきたのでしょうか。
3.生き方を通して為される宣教
・マルコは十二人弟子派遣の記事の最後に書きます「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」(6:13)。多くの聖書学者はこの記事を後代の付加ではないかと想像しています。何故ならマルコ9章を見ると、弟子たちは「悪霊を追い出し、病人を癒すことが出来なかった」ことが記されているからです。イエスが三人の弟子を連れて祈るために高い山に登られた時、残りの弟子たちはふもとで待っていましたが、そこに人々が悪霊に付かれた子どもの癒しを求めてきました。弟子たちは何とかしようとしましたが、出来ません。マルコは、人々が山から降りてこられたイエスに次のように訴えたと記します「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした」(9:17-18)。弟子たちは悪霊を追い出せなかった、正直な言葉をマルコは書いています。
・弟子たちがイエスの証人として人々を信仰に導くようになったのは、復活のイエスに出会って、「この方こそ神の子だった」と宣教を始めるようになってからです。しかし弟子たちの宣教はうまくいきませんでした。支配者たちは彼らが邪教を伝えているとして、これを捕らえ、処刑していきました。弟子たちは悪霊を追い出し、病人を癒すことは出来ませんでしたが、死を持って脅かされても信仰を捨てず、黙って殺されていきました。死を持って信仰を証した弟子たちを見て、多くの人々がイエスに出会いました。ここから「殉教」と言う言葉が、「証人」を意味する「マルテュース」という言葉で表現されるようになります。古代教父のティルトリアヌスはこの事実を次のように証言します「殉教者の流した血がキリスト教の種である」。
・初代教会の伝道が説教や証しという言葉によって為されたのではなく、キリスト者の生き様を通して為された事実は、私たちにも大きな示唆を与えます。私たちが悪霊を追い出したり、病気の癒しを行うことが求められているのではなく、私たちが弱肉強食というこの世の価値観=霊から解放されており、病気になってもそれを嘆くのではなく、病気もまた主から与えられた恵みとして喜んで受け取る、そのような生き方を示していくことこそ伝道なのです。言葉ではなく、生き方によって示される伝道は、「福音に無関心な人」をも動かしていきます。何故なら、それは彼や彼女の人生の問題を解決する一つの方向を示しているからです。そのような生き方が、キリストの弟子としての生き方です。そして、キリストは信徒ではなく、弟子を求めておられます。信徒は自分の救いを願い、弟子は他者の救いを願います。もちろん、信仰の最初は信徒になることですが、そこに留まっていてはいけないのです。私たちは新しいイスラエル、神の国を形成するためにこの教会に集められました。毎週の礼拝に集まるのは、弟子としての確認の行為です。そして弟子として私たちは派遣されていきます。私たちが教会で捧げる全ての礼拝は、私たちをそれぞれの場に派遣する、派遣礼拝であることを今日は覚えたいと思います。