1.復活日に起こった出来事
・先週の日曜日、私たちはイースター礼拝の時を持ちました。イースターはイエスの復活を祝う時ですが、この復活という出来事は歴史的、客観的な検証が出来ない、信じることが難しい出来事です。しかし復活を信じない時、死が全ての終わりになりますから、私たちの人生は「終身刑を宣告された囚人」のような、希望のない人生になります。復活を信じることができるかどうかは、私たちの生き方を規定する人生の大問題です。先週ヨハネ20章前半から学びましたのは、「イエスの墓が空である」ことを見出したのに弟子たちは「イエスの復活を理解することが出来なかった」という事実です。その不信の弟子たちのためにイエスは自ら姿を現わされます。「復活のイエスとの出会い」が弟子たちをどのように変えていったのか、復活節第二主日の今日、ヨハネ20章後半から御言葉を聴いてみたいと思います。
・復活日の朝、弟子たちは、イエスの墓が空であるのを見ました。その後、マグダラのマリアから、「私は主を見ました」(20:18)という報告を受けています。しかし弟子たちは、墓が空であっても、マリアの証言を聞いても、何の感動も受けていません。彼らは、「ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけて」(20:19)いました。イエスを捕らえて処刑したユダヤ当局が自分たちも捕らえるかもしれないという恐怖と、「自分たちは主を裏切った」という自己嫌悪の中に、閉じこもっていたのです。その彼らの只中にイエスが現れます。ヨハネは書きます「そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」。
・イエスは閉まっている戸を通り抜けて彼等のところに来られたのです。彼等は怖れました。ルカ福音書の並行箇所は、「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」と記します(ルカ24:37)。その弟子たちに、イエスは釘跡のついた手と刺し貫かれたわき腹をお見せになり、十字架にかかられた方と同じイエスであることを示されます。信じることが出来なかった弟子たちが、今、復活のイエスに直接お会いすることによって、信じる者に変えられていきます。「イエスは死に打ち勝たれた」、弟子たちはそれを自分の目で見て、知り、喜びました(20:20)。
・イエスは弟子たちに「聖霊を受けなさい」と言われて、彼らに「息」を吹きかけられます。ヘブル語の霊=ルーアハは、同時に「息」の意味もあります。「主なる神は土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者になった」(創世記2:7)。この命の息こそ聖霊なのです。イエスが来られる前、弟子たちは「自分たちのいる家の戸に鍵をかけて」いました。その彼らがイエスに出会い、聖霊をいただくことによって、新しい命に生きる者に変えられました。ヨハネはイエスの言葉を記します「父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす」(20:21)。イエスは弟子たちの裏切りを非難することなく、彼らを赦し、彼らに新しい使命を与えて下さいました。霊的に死んでいた弟子たちが、こうして新しい命によみがえったのです。
2.8日目に起こった出来事
・復活のイエスが弟子たちに現れられた時、12弟子の一人、トマスは一緒にはいませんでした。彼らはイースター礼拝を終えると、街に出て、トマスを探しに行きます。彼もまた救われるべき弟子の一人だからです。彼らはトマスを見出し、「私たちは主を見ました」と伝えました。「私たちは主を見ました」と言う言葉は、大事な言葉です。マリアは言いました「私は主を見ました」。マリアの証言は単数です。それに対して、弟子たちは複数で証言します「私たちは主を見ました」と。個人の出来事が教会の出来事に変わっていったのです。そして弟子たちはトマスにも、教会の出来事に参加するように招きます。
・しかしトマスは信じません。彼は言います「私は、その手に釘あとを見、私の指をその釘あとにさし入れ、また、私の手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」(20:25)。トマスはヨハネ福音書に3度登場します。11章16節では、危険なエルサレムにあえて行こうとされるイエスに感動し、弟子たちに呼びかけます「私たちも行って、先生と一緒に死のうではないか」。二回目は14章5節では、最後の晩餐の席上で、イエスが死んで天の父の元に行くと言われた時、「主よ、どこへおいでになるのか、私たちにはわかりません」と言っています。トマスは理解できないことは信じません。トマスは、最初はイエスのために死のうと思っていました。しかし、イエスが捕らえられた時、彼は怖くなって逃げました。復活のイエスが現れた時、トマスはそこにいませんでした。おそらく、人一倍イエスを愛し、イエスに期待していたトマスは、それだけ絶望も大きく、弟子たちの群れから離れていたのでしょう。そのため、最初の時はイエスにお会いすることができませんでした。
・そのトマスを探して、弟子たちは教会に連れて来ます。ヨハネはトマスのために、イエスが再度現れられたと記します。8日後、次の主日、弟子たちのいる場所にイエスが再び現れ、トマスに対して「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、私のわき腹に入れなさい」(20:27)と言われました。イエスは言われます「おまえは見ずに信じることは出来なかった。おまえが信じるために必要なら私はもう一度十字架につく。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。トマスはイエスの言葉に圧倒され、跪き、言います「私の主、私の神」。教会の信仰告白の核心が、最も弱い弟子において語られました。彼のためにイエスが再度現れた時、トマスはもうイエスの手やわき腹に触ろうとせず、ただ、イエスの前に跪きます。イエスの復活は不信仰なトマスさえも、死からよみがえらせたのです。
・イエスは言われました「私を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(ヨハネ20:29)。信じることの出来なかった弟子たちが、復活のイエスに出会って信じる者となりました。トマスもイエスに出会うまでは復活を信じていません。私たちもそうです。人は見ずに信じることは出来ないのです。
・イエスはトマスのためにもう一度現れて下さいました。現代の日本では、かなりの人々が家に閉じこもり、社会生活が出来なくなっています。ある人は受験競争に疲れ、あるいはいじめや人間関係のもつれに耐えることが出来なくなって、心を閉ざし、引きこもっています。彼らには、人間社会に対する絶望や不安と同時に、現実に負けてしまう自己の弱さに対する苛立ちや嫌悪感があります。復活日に家に閉じこもっていた弟子たちもそうでした。しかし復活のイエスは、現実に打ちのめされ自信を失っていた弟子たちを暖かく包み、彼らを再生させて下さいました。同じように、復活のイエスは、心を閉ざし、家に閉じこもる人の所にも現れます。もし私たちが彼らを教会の群れに中に招くことが出来れば、礼拝を通して、彼らも主に出会うことが出来ます。人は教会でイエスと出会う、そのことを知らせるのが伝道です。
3.教会につながっていなさい
・今日、私たちは招詞としてヨハネ10:16を選びました。次のような言葉です。「私には、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊も私の声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」。
・トマスは最初にイエスが来られた時には、群れから離れていました。そのため、復活のイエスに会うことが出来ませんでした。しかし、他の弟子たちはトマスを探し出し、トマスは再び弟子の群れに加わり、復活の主に出会うことができました。トマスが復活の主に会うことができたのは、トマスを忘れなかった弟子たちの働きがあります。
・私たちは3月の教会総会で教会規則・細則を変更し、他行会員の規定を明確化しました。他行会員、1年間教会の礼拝に出席されなかった人を現在会員から除籍し、教会の決議権の対象外とすることとしました。その結果、37名の会員のうち、7名の方が他行に移行されました。かつてこの教会でバプテスマを受け、あるいは転入の信仰告白をされ、共に礼拝されていた仲間がもう教会の交わりに来られなくなった。私たちは何年もの間、その方たちに週報を送り続けて来ましたが、教会に戻って下さらなかった。私たちは会員の方が他の教会の礼拝に出席され、その教会の会員になられることに特段の反対はしません。むしろ喜びます。イエスにつながり続けていて下さるからです。しかし他行会員になられた方の多くは、おそらく他の教会の礼拝に出席しておられません。他の教会の会員になられる方は転出届けが教会にきて、教会はその手続きをするからです。礼拝から遠ざかっておられる、そのことが痛みなのです。教会につながり続けることは難しい。しかし、トマスの例が示しますように、教会に留まらなければイエスに出会うことは出来ない。人は一人では信仰を維持することは出来ないのです。
・弟子たちは、群れから離れていたトマスを探し出して群れに戻しました。そのトマスにイエスは「お前は何故信じなかったのか」とは言われず、ただ「信じる者になりなさい」と諭され、そのイエスの赦しがトマスを変えました。弟子たちの再生もイエスの赦しの赦しの故です。弟子たちは復活を信じることが出来ませんでした。むしろ恐れていたのかもしれません。彼らは主であるイエスを見捨てて逃げました。もしイエスが復活して彼らの前に現れれば、彼らの裏切りが指摘され、彼らの罪が裁かれると思っていました。しかしイエスは弟子たちを責める言葉を一言も言われず、彼らの平安を祈り、彼らに使命を託されました。この赦しが弟子たちを再生したのです。
・教会はイエスに赦された者の集まりです。だから教会は他者を裁きません。いや、裁くことが出来ない存在なのです。しかし現実の教会には裁きがあります。イエスは言われました「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(20:23)。私たちの裁きが人を教会から遠ざけている現実があります。だから私たちは、毎主日の礼拝で、主と出会って清められる必要があるのです。教会は「赦しを受ける場」なのです。イエスは「この囲いにいない羊のために、彼らを探し出して導く」と言われました。私たちのなすべきことは明らかです。この囲いにいない羊を探しに行くことです。篠崎の地には、主の民が大勢おられます。かつては共に主の宮に集まり、共に賛美したのに、いまでは主の言葉から離れてしまわれた人々も大勢おられます。私たちは、その方々を訪ね、「主は復活された。主は赦して下さった。そのことによって私たちは生き返った」との喜ばしい知らせを伝える義務があるのです。そのことを今日は覚えたいと思います。