江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2009年4月12日説教(ヨハネ20:1-9、復活~永遠の希望へ)

投稿日:2009年4月12日 更新日:

1.空の墓

・今日、私たちはイースターのお祝いをするために集まりました。イースターはキリストの復活をお祝いする時ですが、復活は理解の難しい出来事です。イエスの生誕から受難までは歴史的な出来事として語ることが出来ます。その証拠に、イエスの受難(十字架死)については、四福音書はほぼ同じ事を伝えます。しかし、復活についての記述はばらばらです。復活は歴史的検証が難しいからです。そして四福音書とも復活を信じることがいかに困難であったかについて伝えています。マルコはイエスの復活を告げ知らされた婦人たちが「震え上がり、正気を失っていた」と書き(マルコ16:8)、ルカは婦人たちの報告を聞いた弟子たちが「たわごとのように思われたので信じなかった」(ルカ24:11)と記します。マタイでは復活のイエスに出会った弟子たちの中に「疑う者もいた」(マタイ28:17)とあり、そして今日読みますヨハネ福音書では「墓が空だ」との報告を受けたペテロが墓に急ぎますが、「イエスの復活を理解できなかった」とあります(ヨハネ20:9)。
・復活は直接目撃した人でさえ、信じることが難しい出来事だったのです。しかし復活は私たちにとってもっとも大事な事柄であり、わからないでは済まされない出来事です。今日はヨハネ20章の記事を中心に、他の福音書の記事も参照しながら、この復活の出来事を学んでいきます。まず、イエスの死と埋葬から見ていきましょう。イエスは金曜日の午後3時ごろ、息を引き取られました。日が暮れると安息日が始まり(ユダヤの1日は日没から始まります)、安息日に遺体を十字架にかけたままでいることは禁じられていましたので、イエスの遺体は、あわただしく十字架から取り降ろされました。処刑された罪人は通常は共同墓地に埋葬されますが、イエスの場合はアリマタヤのヨセフが埋葬を申し出たために彼に引き渡され、ヨセフはイエスの遺体を亜麻布で包み、自分の墓に仮埋葬しました。十字架に立ち会った婦人たちは、この一部始終を見ていました。
・日が落ち、安息日に入りました。婦人たちは、イエスの遺体を洗い、香油を塗り、相応しく埋葬したいと願いましたが、安息日の外出は禁じられていたため、その日は一日待機し、翌日曜日の夜明けと共に墓に急ぎました。ユダヤの墓は岩を掘り抜いて造る横穴式の墓で、その入り口に石を置いて蓋をしますが、墓についてみると、墓から石が取り除いてありました。婦人たちは墓の中をのぞいて、イエスの遺体がなくなっているのに気づきます。婦人たちの一人、マグダラのマリアは誰かがイエスの遺体を取り去ったと思い、震えながら弟子たちの所に走って伝えます「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、私たちには分かりません」(20:2)。
・報告を受けた弟子のペテロとヨハネが急いで墓に走りました(20:2-3)。二人が墓に着いて、中をのぞいて見ると、墓は空であり、遺体を巻いた亜麻布はありましたが、遺体は何処にもありません。二人の弟子たちは、何が起きたのかわからないままに、家に帰りました。マリアも弟子たちに遅れて、再び墓に来ます。彼女は、弟子たちが帰った後も、あきらめきれない思いで墓の側にたたずみ、泣いていました。そこにイエスが来られます。イエスはマリアに「婦人よ、何故泣くのか」と声をかけられました(20:15)。マリアはそれがイエスとわからず、彼に言います「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。私が、あの方を引き取ります」(20:15)。イエスは彼女の名を呼ばれます。彼女はその人がイエスとわかり、「ラボニ」と呼んで、イエスに取りすがりました。

2.復活を信じることの出来ない弟子たち

・マリアは再び弟子たちのところに行き、「私は主と出会いました」と報告します。しかし、弟子たちは信じることが出来ません。併行箇所のルカは「使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」(ルカ24:11)と記します。日曜日の朝の出来事です。ルカに依れば、その日の午後、二人の弟子たちがエルサレムからエマオに向かいますが、その道すがらイエスが二人に同行されたと伝えます。しかし「しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」とルカは記します(24:16)。その日の夕刻、「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけて」(20:19)、閉じこもっていました。弟子たちはイエスがローマ兵に抵抗もせずに捕らえられ、十字架で空しく死んで行かれた様を見ました。「この人はメシアではなかった。全ては無駄だった」、弟子たちは生きる目標を失くして、打ち沈んで家に閉じこもっていたのです。イエスが現れる前、弟子たちは、体は生きていましたが、魂は死んでいたのです。
・その弟子たちにイエスが現れます。併行箇所のルカは「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」(ルカ24:37)と記します。弟子たちは復活のイエスに最初に出会ったとき、イエスを幽霊だと思ったのです。しかし、彼らにイエスがご自分の手とわき腹をお見せになった時、弟子たちはその傷を見て、ここにおられる方が、十字架で死なれたイエスであることをやっと信じることが出来ます。
・ここに復活の出来事をどのように理解すべきかの示唆があるように思います。イエスの遺体を納めた墓が空であることを知ってもそれは何の力も持ちません。ヨハネは、空の墓を見た弟子たちが、「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかった」(20:9)と記します。知識は人を信仰には導きません。また、他の人が証言しても何の意味もありません。弟子たちはマリアの「私は主を見ました」(20:18)との証言を聞いても信じませんでした。弟子たちが復活を信じたのは、自分が直接復活のイエスに出会い、その手の釘の跡を見、わき腹の傷跡に触れたからです。復活は私たち自身が体験しない限り信じることが難しい出来事であり、また復活を信じない限り、私たちは新しく生まれ変わることは出来ません。

3.キリストのよみがえりを伝える

・今日の招詞に�コリント15:3-5を選びました。次のような言葉です「最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおり私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」。
・パウロがここで証言しているのは、復活のイエスはケファ(ペテロ)と十二弟子の前に現れたことです。そしてパウロは、イエスは私にも会って下さったと証言しています。パウロはヨハネ20章の出来事が実際に起こったのだと言っているのです。そしてパウロはコリントの人々に訴えます「キリストは死者の中から復活したと宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」(同15:12-14)。
・「キリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」、復活は聖書の中心的使信です。それは歴史的事実である以上に、人格的な事実です。弟子たちが復活のイエスに出会って、それまで隠れていた部屋から出て、「主はよみがえられた」と宣教を始めたのは、歴史的事実です。イエスの弟子たちが、「今後イエスの名によって宣教することを許さない」という脅しにも屈せず伝道を続けていき、殉教して言ったのも事実です。歴史的事実です。教会の迫害者であったパウロが復活のイエスに出会って伝道者に変えられたことも歴史的事実です。しかし、十二弟子が復活のキリストに出会ったことは人格的な事実であり、パウロのイエスとの出会いも他の人には見えない、人格的な事実でした(使徒言行録9:7)。しかし、確実に出会いはあった。私たちの中のある者たちは復活の主に出会って人生が変えられた、それもまた事実なのです。
・キリストの復活を信じるかどうかは、私たちが現在をどう生きていくかを決定します。復活を信じることが出来ない時、人生は死で終わります。死で終わりますから、現在を楽しむことに関心は集中します。「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身だから」(�コリント15:32)という生き方になります。しかし、その楽しみもやがて終わります。人はすべて死ぬからです。復活を信じることが出来ない時、その生涯は、終身刑を言い渡された囚人の人生のようです。死で全ての望みが砕かれますから、そこには希望はありません。
・キリストの復活を信じる時、人生の意味は変わってきます。死が終わりではなく、死を超えた人生が開けるからです。キリストは十字架で権力者によって殺されました。権力者は自分に逆らう者を殺すことは出来ますが、それ以上のことは出来ません。イエスが復活されたということは、「人が倒した者を神が起こされた」事を意味します。神は悪をそのままには放置されない、神は「悪を変えて善と為す」力をお持ちであることを、私たちは復活を通して知ります。現実にどのような悪があろうとも、その悪は終わることを信じますから、私たちは悪に屈服しません。どのような困難があっても、「悪を変えて善と為す」神がおられるから、私たちは絶望しません。私たちが復活を信じるということは、この世界が究極的には、「神の支配される良き世界」であることを信じることです。その信仰が希望をもたらします。
・ヨハネはイエスを納めた墓が空であるのをみたペテロともう一人の弟子が、「まだ理解していなかった」と記します。この言葉は悲観の言葉ではありません。「まだ」は時が満ちると、「やがて」に変わります。まだ理解しない者が復活のキリストと出会うことを通して、理解する者に変えられるとの希望の言です。パウロが言うように、「私たちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。私は、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」(�コリント13:12)のです。だから私たちは毎主日に教会に来て礼拝を続けるのです。礼拝を通して主に出会うのです。今日、私たちは高橋姉のバプテスマ式を執り行いました。新しくキリストを信じた姉妹が私たちの教会に与えられたことは、神が生きて働いておられるしるしです。まさに、イースターにふさわしい行事です。今年もまた、このような喜ばしい行事で、主の復活を祝うことが出来ることを感謝します。

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