江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2009年12月27日説教(ルカ2:41-52、神の家族)

投稿日:2009年12月27日 更新日:

1.イエスの少年時代の出来事

・クリスマスの次の日曜日、つまり今日は、「聖家族」の祝日にあたります。聖家族とはイエスを中心にしたマリア、ヨセフの一家のことです。今日の聖書箇所はこの家族の日常生活の一こまを伝えたものです。この物語はルカ福音書だけが取り上げています。福音書は伝記ではなく、あくまでも福音=良い知らせを伝えることを目的としていますので、それぞれの記者の視点から描かれています。マルコとヨハネには、イエスの若いころの記事はなく、洗礼者ヨハネとイエスが出会う場面から物語が始まります。二人は、神の子の物語は、ヨハネとの出会いから始まると考えたからです。マタイはイエスの生誕物語を記しますが、その後の幼年時代、青年時代の記事はなく、30年後、イエスが洗礼者ヨハネに出会う場面に飛びます。ルカだけが、イエスの幼年時代、少年時代の記事を記します。ルカは律儀な人だったようですので、全てを順序正しく記述したいと考えたのでしょう。それが本日読みます12歳の時のイエスです。
・記事を読んでいきましょう。ルカは記します「さて、両親は過ぎ越し祭には毎年エルサレムへ旅をした。イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った」(2:41-42)。ユダヤ人の成人男子は、三大祭りの時には、エルサレム神殿に参拝することが命じられていました。春の過越祭、初夏の五旬祭、秋の仮庵祭です。しかしエルサレムから遠く離れて住んでいる人もありますので、一般には年に1回の過越祭に来ればよいとされていました。マリアとヨセフも、そういう慣習に従っていたのです。また当時のユダヤ教社会では、男の子は12歳になると、自分の責任において、律法に従う生活をすることができるようになると考えられていました。信仰的、霊的に一人前と認められた。その12歳のイエスを連れて両親はエルサレム神殿に参拝します。今日でいう成人式であると言えるでしょう。
・このときの旅は、家族だけの旅ではなかったようです。ナザレから親戚や知人、みんなで一緒にやってきたのでしょう。少年イエスの友人もいたかも知れません。祭りが終わって、ナザレへの帰り道、ヨセフとマリアは、イエスがいなくなっても、そのことに気付きませんでした。最初は「一体どこにいるのだろう」位に思っていたかも知れません。しかし夕方になって、家族ごとに集まる段になって、本当にいないということがわかります。両親はあわてて、エルサレムから帰っていく人々に逆行するようにイエスを捜しますが、結局見つからず、エルサレムまで引き返してきました。それでもみつからない。三日後、両親は神殿の境内でイエスを発見します。この三日間の両親の気持ちは大変だったでしょう。この時のマリアの言葉、「なぜこんなことをしてくれたのです」という叱責の言葉から、ほっとしたという思いが伝わってくるようです。その時、イエスは、「神殿の境内で、学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられ」ました。また「聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いてい」ました(2:46-47)。
・イエスは律法の教師たちの話を聞いたり、質問したりしていました。イエスは、エルサレムで新しいことを吸収され、ナザレでは学べないことを学んでおられたのでしょう。まわりの人がそれを聞いて驚いたというのも、「子どもにしてはよくできる」という程度の驚きであろうと思います。両親が驚いたのは、その受け答えの素晴らしさのためではありませんでした。思いがけず、神殿の境内にいたこと、子どもでありながら、学者たちの律法の教えを一人前の顔をして参加していたことに驚いたのです。彼らにとっては話の内容など聞こえなかったでしょう。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんも私も心配して捜していたのです」(2:48)とマリアは言います。
・イエスは答えます「どうして私を捜したのですか。私が自分の父の家にいることは当たり前だということを知らなかったのですか」(2:49)。マリアの言葉は、日本語では「お父さんも私も」となっていますが、原語では「あなたのお父さんも私も」となっています。「あなたのお父さんも」という言葉に対して、イエスは「自分の父の家にいる」と言われたのです。イエスが本当に心憩う場所、イエスは天からこの地上に来られて、今はいわば寄留者としてお過ごしになっておられる。ふるさとは天であるけれども、地上においてその天とつながるところが、この父の家としての神殿であるということが語られているのであろうと思います。

2.聖家族

・クリスマスから正月にかけて、家族と共に時を過ごすという人は多いでしょう。逆に家族と共にいられない寂しさを感じる人もいるかもしれません。いずれにせよ、クリスマスやお正月は誰もが自分の家族を意識する時だと言えそうです。そんな中で聖家族の祝日は祝われます。「聖家族」というと温かな家庭で、何の問題もないように感じられるかもしれません。「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」(2:52)という言葉はホッとさせられる言葉です。この世界のすべての子どもに何よりも必要なのは、このことではないでしょうか。子どもだけでなく、すべての人が神と人からの愛を受け取る場、これこそが家族本来の機能だと言えるでしょう。
・一方で、きょうの箇所は、少年イエスが両親の考えを超えた行動をし、両親にはそれが理解できないという話でもありました。この物語は「成人の時を迎えて自分の道を歩み始めた子どもは、もう親の思う通りにはならない、それが子どもの巣立ち、自立である」ことを、親につきつけます。成人するとは、自立することです。これまでは親の献身的な愛に守られ、育てられてきた子どもが、自分の意志で自分の道を歩み始めるのです。それは必ずしも親の期待した道ではないでしょう。その時、親は子に見捨てられたと思うかもしれません。この時にはイエスは両親と共にナザレに戻られ、聖家族の生活に戻られます。まだ時が来ていなかったからです。しかし、やがて真の意味で自立する、ナザレの両親をおいて自分の道を歩まれる時がきます。それが洗礼者ヨハネの呼びかけに応えて、ナザレを出られ、宣教者の道を歩まれる時でした。その時に、両親はそれを受け入れることが出来なくなります。

3.神の家族

・今日の招詞にマルコ3:34-35を選びました。次のような言葉です「(イエスは)周りに座っている人々を見回して言われた「見なさい。ここに私の母、私の兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ」。イエスは病に苦しむ人を憐れまれ、いやされました。その業を通して、イエスの評判は高まり、人々が押し寄せてきました。そこにイエスの家族も来ました。身内の者たちは「イエスは気が変になっている」との評判を聞いて、イエスを取り押さえるために来たとマルコは書きます。30歳になるまで、故郷のナザレで家業に従事されていたイエスは、バプテスマのヨハネの呼びかけに応えてナザレを出て、ユダヤに行かれ、そのまま家に帰らず巡回伝道者となられました。家族は「長男が家を飛び出して帰ってこない。気が狂ってしまったに違いない」と考え、家に連れ帰るためにカペナウムに来たのでしょう。ここにルカの描く聖家族とは違うイエスの記事があります。
・後に書かれたマタイ福音書やルカ福音書ではこの部分は削除されています。初代教会の指導者になって行ったのは、イエスの兄弟たちでした。イエスの家族が生前のイエスを信じなかったばかりか、その宣教を妨害しようとしたことは書く事をマタイやルカははばかったのでしょう。しかし、事実はマルコの言う通りです。「預言者は郷里では受け入れられない」(マルコ6:4)とイエスは言われています。イエスは家族の無理解の中で宣教活動を続けられたのです。「神の御心を行う人こそ、私の家族なのだ」、このイエスの言葉は、十字架と復活を経て、現実のものとなって行きます。
・イエスの十字架と復活を通して、イエスこそ神の子と信じる群が起こされ、彼らは教会を形成して行きました。人々は共に住み、家族として一緒に暮らしました。その家族の中に、かつてはイエスを信ぜず迫害した兄弟たちも招かれています。使徒行伝1:14には次のようにあります「彼ら(弟子たち)は都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった・・・彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」。マタイやルカは、イエスの母や兄弟たちがイエスをキリストと信じなかった事を隠す必要はなかったのです。むしろ、マルコ3:21の記事と使徒行伝1:14の記事を共に読むことによって、十字架の出来事が、かたくなだったイエスの兄弟たちの心を砕いていった奇跡を見ることができます。十字架と復活が新しい家族を形成する、聖家族が神の家族になる、それこそが神の国のしるしなのです。
・もちろん、神の家族が集う場所、地上の教会は不完全な群です。しかし、神の国を先取りしている希望の共同体です。そこでは「神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ」という御言葉が通用する共同体であり、罪を犯した者も招かれ、私たちのこの世の願望が打ち砕かれる所です。世は悪で満ち満ちています。誰もが自分のことだけに囚われ、他者のことを考える余地がない世界で暮らしています。しかし、その世界に神の国は来たのです。神の国は教会として来ました。悪がなお力を振るっているように見える世の中にあって、悪に従う事を拒否する群が形成されています。私たちの教会もその枝の一つです。ここにおいては、他者の為に祈ることの出来る群が形成されています。私たちこそ神の家族であり、イエスが戦われた戦いを継承していく群である、降誕節の今、その事を覚えたいと願います。

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