1.先駆者ヨハネの教えたこと
・待降節の今、聖書日課では、イエスの先駆者である洗礼者ヨハネに関する箇所が読まれます。先週はルカ3章1-6節からヨハネが荒野に現れて、悔い改めの福音を述べたことを学びました。ルカはヨハネが宣教を始めたこと、そのヨハネからイエスが洗礼を受けられたことが、ローマの初代皇帝アウグストスや二代目テイベリウスの治世の出来事よりも大事な、世界史的な事件であったと記述しています。世界史では、紀元前をB.C(Before Christ、キリスト以前)、紀元後をA.D(Anno Domini主の年)と呼びます。世界史は、イエス・キリストの誕生の時を持って区切られています。ヨハネの宣教やイエスのバプテスマは、ローマ帝国の片田舎、ユダの地で起こった出来事で、当時の人々はルカを誇大妄想と嘲笑しましたが、歴史はルカの言う通りに動いています。さて、今日、私たちが読みます聖書箇所は、その続き、洗礼者ヨハネが何を教えたのか、どのようにして、ヨハネがイエスの先駆者としての役割を果たしたのかという記事です。
・今日は3章10節から読みますが、直前の7-9節には、洗礼を受けに来た人々に対するヨハネの言葉が記してあります。彼は言います「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。・・・斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(3:7-9)。厳しい裁きのメッセージです。ユダヤ人は、終末が到来する時には、裁きが異邦人の身に降りかかるだろうと期待していました。しかし自分たちは神の民として、裁かれることなく、神の国の相続人になると考えていました。ヨハネは彼らの甘い期待を打ち砕きます。ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、悔い改めない者は裁かれるとヨハネは言ったのです。
・なぜ悔い改める必要があるのでしょうか。人はみな罪人だからです。罪=ハマルティアとは、「的をはずす」との意味です。つまり自分を創り、生かしてくださる神の方を見ないで、自分の方だけを見ることが罪なのです。自分のことだけを見つめ、自分の願い、自分の欲望の実現だけを求めて生きるから、隣人はむさぼりの対象となっていきます。「金の切れ目が縁の切れ目」、「役に立たないものは捨てる」、そのような人間関係から、人との争い、個々の過ちが生じます。その根本部分を悔い改めること、自分が罪人であることを認めること、救いはそこから始まるとヨハネは言っているのです。
・このままでは救われないとのヨハネの言葉に、民衆は驚き、尋ねます「では、私たちはどうすればよいのですか」(3:10)。ヨハネは彼らに答えます「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」(3:11)。下着を二枚持つ、それは決して裕福な、ゆとりのある生活ではありません。その中で分かちあっていけ、これまで自分だけを見ていた眼を他者に広げよとヨハネは言います。次に「徴税人」が来て尋ねます「先生、私たちはどうすればよいのですか」。彼らに対してヨハネは答えます「規定以上のものは取り立てるな」。「徴税人」はユダヤ人でありながらローマ帝国のために同胞から税を取立て、そのことによって自分の利益を得ていた人です。彼らの中には不正な取立てをする者も多く、その職業だというだけで罪人の烙印を押されていました。ヨハネは彼らに相手の利益を考慮せよと言います。居合わせた兵士たちも尋ねます「この私たちはどうすればよいのですか」。彼らにヨハネは言います「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」。「兵士」はローマ軍の兵士でしょうか。ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスの兵かもしれません。兵士たちは少ない給与を補うために、民衆を脅してお金を取っていました。彼らに対してヨハネが語ったのも「自分の給料で満足せよ、人から貪るな」ということでした。ヨハネは徴税人や兵士に向かって、その仕事を辞めることを要求しません。「悔い改めにふさわしい実」として必要なことは、修道院に行くことでもなく、断食することでもなく、今、自分の置かれた場で神の心にかなう生き方、隣人と共に生きることだと言います。
・このヨハネがエルサレムではなく、荒野に現れたことは印象的です。エルサレムの神殿では毎日礼拝が執り行われ、多くの犠牲が捧げられていましたが、それが救いの要件ではないとルカは断言します。今日的に言えば、教会に来てバプテスマを受け、毎週の礼拝に参加し、十分の一献金を捧げても、それだけではだめだということです。自分の罪を認め、悔い改め、生き方が変えられなければいけない。生活の中で、悔い改めにふさわしい生き方をすることこそが本当の礼拝だと聖書は語るのです。
2.来るべき方を指し示すヨハネ
・ヨハネの出現はメシアを待ち望んでいた人々に大きな興奮を与えました。人々はもしかすると、このヨハネこそ来たるべきメシアではないかと思い始めます(3:15)。それに対してヨハネは、自分はメシアではないと答えます「私はあなたたちに水で洗礼を授けるが、私よりも優れた方が来られる。私は、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」(3:16-17)。
・メシアを待望していた人々に対して、ヨハネは「私よりも優れた方」の到来を予告しました。「私は、その方の履物のひもを解く値打ちもない」(3:16)、履物の紐を解くのは僕の仕事です。自分はメシアではなく、その準備をする者だと彼は言うのです。ヨハネはまた、自分は「水による洗礼」を授けるが、その方は「聖霊と火による洗礼」を授けられると言います。「洗礼を授ける」、ギリシア語「バプティゾー」で、「水に沈める、浸す」ことを表します。ヨハネの行なっていた洗礼は、ヨルダン川の中に人の全身を沈めるものでした。いったん水の中に沈み、そこから立ち上がることは、古い、罪の奴隷である自分に死んで、新しく神の僕である人に生まれ変わる「回心」を表すものでした。これが「水による洗礼」です。
・では「聖霊と火による洗礼」とは何でしょうか。「霊」はギリシア語「プネウマ」で、「風、息」を表します。「風と火」のイメージは本来、裁きのイメージだったようです。17節「手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」とあります。「箕」は麦の殻と実をより分けるための農具です。あらかじめ麦を叩いて実から殻を外しますが、そのままでは実と殻が混ざった状態で、箕は、その混ざった状態のものを空中に放り上げるときに使う道具です。殻は軽いので「風」に飛ばされ、重い実だけが残ります。「風と火の中に沈めること」、実と殻が分けられる、神の裁きを示します。つまり、洗礼者ヨハネが予告した「来られる方」は、神の裁きをもたらす人だったと言えるでしょう。ヨハネはその裁きの到来の前に、人々に回心することを呼びかけたのです。
・もちろん、実際に来られたイエスは、裁きをもたらしに来たのではありませんでした。地上で活動したイエスは、むしろ神の赦しをもたらす方でした。ヨハネはこの後、ヘロデにより捕えられますが、その獄中でイエスの活動の様子を弟子たちから聞き、「罪人を裁くのではなく、赦していく」やり方を見て疑問を感じ、弟子たちに聞かせます「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」(7:20)。それに対してイエスは答えられます「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」(7:22)。イエスは何故罪の購いなしに人を赦されるのか、人の罪はどこで贖われるのか、イエス自身が私たちの罪を自ら負い、十字架で贖罪の死を死なれました。そのことによって、私たちの罪の赦しが果たされていきます。ここに自分を見つめるのではなく、神を見つめる生き方が示されました。そのことを知った時、私たちも「聖霊による洗礼」を受けるのです。
3.自分を愛するように隣人を愛することこそ礼拝だ
・今日の招詞にマタイ25:40を選びました。次のような言葉です「そこで、王は答える『はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである』」。最後の審判についてイエスが述べられた言葉です。イエスは十字架を前に弟子たちに話されました「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来る時、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く」(マタイ25:31-33)。
・イエスは続けられます「王は右側にいる人たちに言う『さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、私が飢えていた時に食べさせ、のどが渇いていた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいた時に訪ねてくれたからだ』」(マタイ25:34-39)。人々にはなんのことかわかりません。イエスに食物を差し出したことも宿を貸したこともなかったからです。イエスは言われます「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのだ」。
・ここにヨハネが語った「悔い改めにふさわしい実」とは何かが、別の形で具体化されています。ヨハネは人々に教えました「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ」、「規定以上のものは取り立てるな」、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな」。ヨハネの言う「悔い改めにふさわしい実」とは、今、自分の置かれた場で神の心にかなう生き方をすることでした。それをマタイの文脈で言い直せば「飢えている人に食べさせ、のどが渇いている人に飲ませ、旅をしている人に宿を貸し、裸の人に着せ、病気の人を見舞い、牢にいる人を訪ねる」行為です。生活の中での愛の実践です。シュラッターという聖書学者は注解して言います「本当の悔い改めは、ありあまっている人の隣に、必要なものを欠く人がいた時に、今まで何も苦にしなかった人たちが、与えることの出来る人たちに変えられることである」。今まで隣人の欠乏を何も苦にしなかった私たちが、隣人に気付き、一つのパンを二つに分けて片方を相手に差し出したならば、私たちは「悔い改めにふさわしい実」を既に得ています。言い換えれば、私たちは既に、「聖霊による洗礼」を受けており、イエス・キリストを迎え入れる準備が出来ているということです。生活の中での愛の実践、それこそがイエス・キリストを待望するアドベントにふさわしい行為なのです。