1.イエスのバプテスマ
・2009年度、私たちは4つの福音書を読みながら、イエスの生涯をたどっていきます。クリスマスにはルカ2章からマリアの受胎告知を学びました。結婚前のマリアに受胎の事実が告げられ、マリアはためらいながらも、「お言葉通り、この身になりますように」と受け入れ、神の子はこの地上に来られました。先週はマタイ2章から、地上の支配者たちは新しい王の誕生を喜ばず殺そうとしますが、神の護りの中でイエスが助けられたことを見ました。そのイエスはナザレで成長され、30歳になった時(ルカ3:23)、故郷を出てユダヤに行き、ヨハネからバプテスマを受けられます。イエスはバプテスマを受けてその宣教を始められました。私たちもバプテスマを受けてキリスト者として出発します。今日はこのバプテスマの意味を考えてみたいと思います。
・マルコは記します「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられた」(1:9)。「そのころ」とは、バプテスマのヨハネがヨルダン川渓谷に現れ、「天の国は近づいた。最後の審判の時が迫っている。罪を悔い改めなさい」と説き、そのしるしとしてバプテスマを授け始めた時です。イエスは故郷ナザレでヨハネ宣教のうわさを聞かれ、内心の燃える思いに駆り立てられ、故郷を出られました。それまでイエスはナザレで、家業である大工をされていました。そのイエスが、ヨハネを通して神から招きを受け、故郷を捨てて、ユダヤに向かわれたのです。
・ヨハネが荒野で宣教を始めたのは紀元28年ごろと言われています(ルカ3:1)。当時のユダヤはローマの支配下にあり、ローマからの独立を求める反乱が各地に起こり、多くの血が流されていました。神を信じぬ異邦人に支配されることは、自らを「選びの民」と自負するユダヤ人には忍び難い屈辱であり、今こそ神は、彼らを救うためにメシアをお送り下さるに違いないという期待が広がっていました。その時、人々はヨハネの「天の国は近づいた」(マタイ3:2)との叫びを聞き、もしかしたら、このヨハネがメシアかもしれないと期待して、「ユダヤの全地方からヨハネのもとに来て、ヨルダン川で彼からバプテスマを受け」ました(1:5)。
・イエスもまたヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられました。その時、「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると『あなたは私の愛する子、私の心に適う者』という声が、天から聞こえた」(1:10-11)とマルコは記します。具体的に何が起こったのか、私たちにはわかりません。ただ、わかることが一つあります。それは、イエスがこのバプテスマを通して、ご自分が神から特別な使命を与えられて世に来られたことを知られたことです。「御自分が神の子である事を、この時イエスは自覚された」、そのような出来事が起こったとマルコは記します。
2.水のバプテスマと霊のバプテスマ
・今日は二つの点に注目して、イエスのバプテスマの出来事を見ていきます。一つ目は、バプテスマには水のバプテスマと霊のバプテスマの二つがあるという聖書の記述です。ヨハネは言います「「私は水であなたたちにバプテスマを授けたが、その方は聖霊でバプテスマをお授けになる」(1:8)。私たちは罪を認め、悔い改め、水に入り、バプテスマを受けます。しかしバプテスマを受けても信仰から離れていく人もありますし、信仰に留まった人でも、「何も変わらなかった」という人もいます。これらの体験は水のバプテスマを受けても、必ずしも「新生」が起きないことを示唆しています。
・イエスは活動の初めに水によるバプテスマを受けられましたが、生涯の最後には十字架の死によるバプテスマを受けられました。イエスは弟子たちに言われます「この私が飲む杯を飲み、この私が受ける洗礼を受けることができるか」(10:38)。私が飲む杯、私が受ける洗礼、十字架です。すなわち、水のバプテスマを受けた私たちが信仰の歩みを続け、イエスの弟子として十字架を担うその時が来た時に、聖霊のバプテスマが与えられることを聖書は示します。そして聖霊のバプテスマを受けることによって、人は新しく生まれ変わります。
・私は、バプテスマを受けるとは、イエスの死に預かること、イエスの十字架に従うことだとは、長い間わかりませんでした。私は20歳の時にバプテスマを受け、日曜日には教会には行っていましたが、生活は何も変わりませんでした。週6日は会社員としてこの世の慣わしに従って生き、日曜日は教会で礼拝を守り、自分は正しい生き方をしていると思っていました。その自分が、どうしようも無い罪人であることを知らされたのは45歳の時です。当時高校生だった長男といさかいを起こし、彼を肉体的・精神的に傷つけ、彼との関係が断絶しました。やがて家族関係が重苦しいものになってきて、救いを求めて夜間の神学校に通い始めました。神学校での聖書の学びを通して、やがて自分の罪が見えてきて、自分の惨めさに涙しながら祈り始めました。その時、二回目の、聖霊のバプテスマを受けたように思います。そのバプテスマは30年近く勤めた会社を辞めさせるほどの力を持っていました。
・人が聖霊のバプテスマをどのように受けるかは、千差万別だと思います。ある人は水のバプテスマと同時に受けるかもしれないし、別の人は霊のバプテスマを受けないままで生涯を終わってしまうかもしれません。いずれにせよ、キリスト者としての新しい一歩は水のバプテスマです。だからまだバプテスマを受けていない人は、是非、受けるように決断下さい。そして水のバプテスマを既に受けた方は、次の段階として霊のバプテスマがある事を覚え、祈って求めて下さい。
3.天が裂けた
・マルコは、イエスがバプテスマを受けられた時、「天が裂けた」と記します。天が裂けるとは天におられる神が応答されたという意味です。二点目として、この「天が裂けた」ことの意義を考えてみます。今日の招詞にイザヤ63:18−19を選びました。次のような言葉です「あなたの聖なる民が、継ぐべき土地を持ったのはわずかの間です。間もなく敵はあなたの聖所を踏みにじりました。あなたの統治を受けられなくなってから、あなたの御名で呼ばれない者となってから、私たちは久しい時を過ごしています。どうか、天を裂いて降って下さい。御前に山々が揺れ動くように」。
・マルコはこのイザヤの言葉を念頭に置いて、イエスのバプテスマの記事を書いています。そしてイザヤ書の背景にはエルサレム滅亡の出来事があります。紀元前587年、エルサレムはバビロン軍に占領され、進駐した兵士たちはエルサレムの町を焼きエルサレムは廃墟になりました。兵士たちは男たちを殺し、女たちを凌辱し、人々は飢餓に呻きました。当時の様子を描いた哀歌が旧約にあります「剣に貫かれて死んだ者は、飢えに貫かれた者より幸いだ。刺し貫かれて血を流す方が、畑の実りを失うよりも幸いだ。憐れみ深い女の手が自分の子供を煮炊きした。私の民の娘が打ち砕かれた日、それを自分の食糧としたのだ。主の憤りは極まり、主は燃える怒りを注がれた。シオンに火は燃え上がり、都の礎までもなめ尽くした」(哀歌4:9-11)。飢餓の余り、死んだ自分の赤子を煮炊きして食べるという地獄絵が生じたのです。
・「死んだ赤子を煮炊きして食べる」、この哀歌の物語は私たちの物語でもあります。日本基督教団佐世保教会のホームページの中に、「引揚女性の悲しみ」として次のような記述がありました。「戦争中、佐世保は帝国海軍の軍港でした。戦後は博多港とともに九州における引揚の拠点になっていて約140万人が上陸したそうです。ここには佐世保引揚援護局が置かれ、特に女性の健康管理という名目で『婦人健康相談所』が設置されました。1945年に行われた引揚女性に対する調査では、約1割の女性が暴行レイプの被害者という数字が出ており、そうした女性達が数多く上陸してくることがわかっていたからです。・・・暴行レイプによって妊娠した女性達の問題は深刻でした。被害にあって妊娠したことを一般的な妊娠と区別して「不法妊娠」と呼んでいました。彼女たちは、進駐してきた外国兵に強姦されたり、引揚団と共に村々を通過する際、人身御供になったりした人でした。彼女たちは、「不法妊娠」と呼ばれる現実の中で、苦しみ・・・港に入る直前に身を投げて自殺する人も少なくありませんでした。佐世保に引き揚げてきた15歳~55歳の女性が「不法妊娠」とわかると、周囲の人にわからぬように帰郷組からはずされ、療養所に密かに送られて手術を受けます。引揚の間に胎児も大きくなり、薬も無く器機も無く、被害女性の体力も無い。無理な手術で命を落とす人も多くありました。早期分娩によって生きて産まれた子どもも国の方針で「処分」されていきました。・・・今も当時の事は、殆ど語られていません」(「佐世保から発信できること」、2001年8月)。私の両親は満洲からの引揚者で、父は現地徴用され、母は幼い二人の子を抱えて、単身帰ってきました。母がこのような被害にあってもおかしくない状況でした。哀歌と同じ地獄絵がここにあります。そしてこの地獄絵は現在でもイラクやコンゴやスーダンで繰り返されています。
・この地獄のような苦しみは戦争によってもたらされました。人間の罪が地獄をもたらすのです。人間の罪が天を閉ざしているのです。人々はそれを認めながらも、「どうか天を裂いて下ってきて、私たちを救ってください」と求めました。この求めに、神はその一人子を遣わすことで応答されました。イエスのバプテスマの時に、天が裂かれて、神の声が聞こえたということは、神が長い沈黙を破られて、民の求めに応答して行為されたことなのだとマルコは言っているのです。戦争のあるところ、悲劇は繰り返されています。私たちもまた「どうか天を裂いて下ってきて、私たちを救ってください」と祈らざるを得ない状況の中にあるのです。
・マルコは福音書の中でもう一か所、この「裂けて」という言葉を用います。15章38節です。イエスが十字架で死なれた時、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」と。神が沈黙を破って応答された、一人子を表された、だからもう犠牲をささげる神殿はいらない、マルコはそう言います。それを受け入れるしるしとして私たちは水のバプテスマを受け、やがてふさわしい時に霊のバプテスマを受けます。この霊のバプテスマは求める者には与えられます(ルカ11:13)。私たちはこの二つのバプテスマを大事にしていきたいと思います。