江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2009年8月9日説教(ヨハネ6:41-51、イエスの所に行く)

投稿日:2009年8月9日 更新日:

1.天からのパン

・8月に入って私たちは「命のパン」の記事をヨハネ福音書から読んでいます。二週前にはイエスが五つのパンで五千人を養われたことを読みました。飢餓に直面していた群集は奇跡に感動します。その感動した人々はイエスを追って来ましたが、その人々にイエスが「朽ちるパンではなく、命のパンを求めなさい」と話されたのが先週の記事でした。「命のパン」とは何か、イエスは「命のパンとは天から降ってきたパンであり、私がそのパンだ」と言われました。人々は、その言葉につまずいて、つぶやき始めます。今日学びます箇所はそこから始まります。
・ヨハネは記します「ユダヤ人たちは、イエスが『私は天から降って来たパンである』と言われたので、イエスのことでつぶやき始め(た)」(6:41)。これまでヨハネは人々のことを「群集」と呼んでいましたが、ここから突然「群集」が「ユダヤ人」に変わっていきます。「ユダヤ人」とはヨハネ特有の言い方で、イエスを受入れない世の人々、ヨハネ教会と対立していたユダヤ教会を指します。ヨハネはかつてイエスが五つのパンで五千人を養われた記事を回想的に書きながら、自分たちの教会が今直面する問題をここに書き込んでいるのです。ヨハネ福音書が書かれたのは紀元90年ごろですが、当時ユダヤ教会はキリスト教会を異端として迫害するようになり、その中で教会は反論していきます。
・その反論の中心は「イエスこそ天から降られたパンである」、つまり「イエスこそ神から来られたメシア」であるということです。その主張に対してユダヤ人はつぶやきます「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、私は天から降って来たなどと言うのか」(6:42)。「イエスは人間ではないか、その人間が神の子というのは神を冒涜することだ」というのがユダヤ教会の主張でした。ユダヤ教会はイエスを拒絶しましたが、今日でもメシアの来臨を待望しています。
・その人々にイエスは言われます「つぶやき合うのはやめなさい。私をお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれも私のもとへ来ることはできない」(6:43-44)。神が引き寄せてくださらなければイエスを信じる信仰には入れない、信仰とは人間の側が選ぶ事柄ではないとイエスは言われます。現代でも多くの人々は「信じる、信じない」の決定権を持っているのは自分であり、理性で納得できないことは全て否定して、信じようとしません。しかし「信じないことによってあなた方は既に裁かれている」(3:18)とヨハネは言います。何故ならば命の源である神と出会うことが出来ないからです。イエスは続けられます「私はその人を終わりの日に復活させる。・・・父から聞いて学んだ者は皆、私のもとに来る。父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている」(6:44-47)。
・ここで言われているのは「私たちは神のもとから来られたイエスを通して命の源である神と出会う。だからイエスを信じる者は永遠の命を得ている」という意味です。イエスが直接語られた言葉というよりも、ヨハネ教会の信仰告白がここにあると見るべきでしょう。「信じる者は永遠の命を得ている」、救いとは律法を守ったり、修行を積んだり、悟りを開く等の人間の努力で得られるものではなく、ただ神から遣わされたイエスを信じ、イエスに従っていくことだといわれています。イエスはヘブル語「ジュシュア=主は救い」の意味です。「言は肉となって私たちの間に宿られた」(1:14)この方こそ天から来られたパンであるとヨハネは主張しているのです。

2.命のパン

・「天からのパン」という言葉で、ユダヤ人が思い起こすのは、かつて自分たちの先祖に与えられたマナでした。人々はイエスに言いました「私たちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです」(6:31)。この「マンナのようなパンを与えると言うのですか」と人々はイエスに聞きます。それに対してイエスは答えられます「私は命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない」(6:48-50)。人は全て死にます。イエスを信じた者もまた死にます。しかし生物体としての命(ビオス)は死んでも霊の命(ゾーエー)は死なない、それが「永遠の命」だとイエスは言われています。
・イエスは続けられます「私は、天から降って来た、生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。私が与えるパンとは、世を生かすための私の肉のことである」(6:51)。世の人に命を与えるためにはまず「罪」を処分しなければなりません。罪によって、命の源である神への道が閉ざされているからです。イエスはそのために自分の肉を裂き、血を流して贖いの業をされます。ここでイエスは言われますことは、「私は十字架で死ぬことを通してあなたたちのパンになる。だから私を食べよ。私を食べることによって復活の命を得よ」ということです。ユダヤ人はこの言葉にもつまずきました。申命記は記します「死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである」(申命記21:23)。神に呪われて処刑されて死んだ者をメシアとして受入れることは出来ない。ましてやそのイエスが復活したと認めるわけにはいかないとユダヤ教会は非難していたのです。
・最初にユダヤ人たちは、「イエスが天から下ってきたパンである」ことにつまずきました、つまりイエスが神から派遣されたメシアであると認めることが出来なかったのです。次に彼らは「命のパンとは世を生かすための私の肉だ」というイエスの言葉につまずきました。イエスの贖罪死と復活を受入れることが出来なかったのです。
・贖罪死について由木康牧師は次のように述べます「魂の世界では、人は自分の命を捨てただけ他人を生かすことが出来る。親は子の為に自分の命を消耗しただけ子を生かし、教師は生徒のために自分の命をすり減らしただけその生徒を生かし、社会事業家は助けを要する人々のために自分の命をすり減らしただけそれらの人々を生かす」(由木康「イエス・キリストを語る」、P183)。イエスの贖罪死を頭で理解するのは至難の業ですが、由木師のように自分の経験に照らせば理解できます。「魂の世界では、人は自分の命を捨てただけ他人を生かすことが出来る」、真実の言葉ではないでしょうか。

3.分け合う時、地上のパンが命のパンになる

・今日の招詞として出エジプト記16:16を選びました。次のような言葉です「主が命じられたことは次のことである『あなたたちはそれぞれ必要な分、つまり一人当たり一オメルを集めよ。それぞれ自分の天幕にいる家族の数に応じて取るがよい』」。
・モーセに率いられた人々が荒野で飢餓に直面した時、神は天からマナを降らせて人々を養われました。出エジプト記16章13節以下は次のように記述します「朝には宿営の周りに露が降りた。この降りた露が蒸発すると、見よ、荒れ野の地表を覆って薄くて壊れやすいものが大地の霜のように薄く残っていた。イスラエルの人々はそれを見て、これは一体何だろうと、口々に言った・・・モーセは彼らに言った『これこそ、主があなたたちに食物として与えられたパンである』」(出エジプト記16:13-15)。「これは一体何だろう」、ヘブル語では「マンフー」、そこからこの食べ物がマナと呼ばれて、荒野の40年を支える食物になったのです。このマナは必要なだけ与えられました。「ある者は多く集め、ある者は少なく集めた。しかし、オメル升で量ってみると、多く集めた者も余ることなく、少なく集めた者も足りないことなく、それぞれが必要な分を集めた。モーセは彼らに『だれもそれを、翌朝まで残しておいてはならない』と言ったが、彼らはモーセに聞き従わず、何人かはその一部を翌朝まで残しておいた。虫が付いて臭くなったので、モーセは彼らに向かって怒った。そこで、彼らは朝ごとにそれぞれ必要な分を集めた。日が高くなると、それは溶けてしまった」(出エジプト記16:17-21)。「必要以上に集めたマナは虫がついて腐った」「日が高くなるとそれは溶けた」と出エジプト記は記します。
・WHO(世界保健機関)は、人類の半数は何らかの栄養不良の状況にあると報告します。12億人が飢餓に、12億人が過食による肥満になっているとのことです。過食=肥満が栄養不良と位置づけられていることに注目すべきです。この肥満から心臓疾患、糖尿病、癌等の成人病が生まれてきます。肥り過ぎと肥満は、体格指数=BMI・Body Mass Indexで判定されます。BMI=体重(kg)÷身長(m)÷身長(m)で、私の場合は体重74kg、身長176cmですのでBMI=74÷1.76÷1.76=24です。BMI25以上が肥り過ぎ、30以上が肥満で、肥満になりますと成人病の危険が深刻化します。アメリカで成人の55%は肥り過ぎ、23%は肥満です。何故そうなるのか、肉や脂の過剰摂取です。1�の牛肉を生産するのに7kgの穀物が必要です。つまり先進国の人々は肉を食べるために大量の穀物を必要とし、そのために途上国の人々を飢餓に追い込んでいますが、その先進国においては肉や脂の過剰摂取による肥満が人々の命を縮め始めています。飢えて死ぬ人がいる一方で、食べ過ぎて死ぬ人がいるのが現代の世界です。荒野で多く集めすぎたマナは「虫がついてくさくなった」という話は、現代の私たちに大切なことを伝えているのではないでしょうか。現代人は、様々な代償を払って、豊かな食生活を求めていますが、マナ=天からのパンは、必要なだけ与えられ、それ以上を欲しがる時に、それは「命を養うもの」から「命を奪うもの」になるのです。
・先週の話を思い起こしてください。荒野を旅したイスラエルの民は約束の地に入ると、定住して農耕生活を始めます。そうすると人は倉を建てて、作物を蓄えるようになり、やがて、豊かな人はますます豊かになり、貧しい人はますますに貧しくなるという社会的不公平=罪が生じてきました。罪の結果は死です。食べ過ぎによる成人病もまた神が与えられた鞭なのではないでしょうか。イエスは五つのパンで五千人を養い、乏しい食物でも分け合えば多くの人を養うことが出来ることを示してくださいました。今日でも「牧草と残飯だけで牧畜をし、穀物は人の口に」と私たちが考えを変えるだけで、世界の飢餓と肥満も無くすことが出来るのです。「人はパンだけで生きるのではない」、そのことを忘れた時に地上のパンは、「命を養うもの」から「命を奪うもの」になることを認識する必要があります。ヨハネ6章は私たちの毎日の出来事である「食べる」という視点で、神の国とは何かを提示しています。「イエスを食べる」、イエスの言に生きることは人を変え、社会を変える力を持つことを今日は覚えたいと思います。

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