1.「互いに愛しあいなさい」と言わざるを得ない状況下での福音
・先週私たちはヨハネ15章前半を学びました。そこでイエスは言われました「私はまことのぶどうの木、私の父は農夫である。私につながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」(15:1-2)。「まことのぶどうの木」という言葉は「まことではない、偽りのぶどうの木」があることを前提にします。当時のヨハネの教会は、ユダヤ教正統派から異端と宣告され、迫害を受け、教会から脱落する者が続出していました。「イエスこそ神の子である」と言う信仰を撤回すれば迫害はなくなる、しかし踏み絵を踏んでユダヤ教共同体に戻っても、そこに真の命はないのだとヨハネは言います。だからヨハネはイエスの言葉を用いて教会の信徒にメッセージを送ります。「私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、私につながっていなければ、実を結ぶことができない」(15:4)。今日はその続き、15章9節からの言葉を学びます。
・イエスは言われます「父が私を愛されたように、私もあなたがたを愛してきた。私の愛に留まりなさい。私が父の掟を守り、その愛に留まっているように、あなたがたも、私の掟を守るなら、私の愛に留まっていることになる」(15:9-10)。日本語では15章前半で用いられた「つながる」という言葉が、9節以下では「留まる」という言葉に変わっていますが、ギリシャ語では「メノー」という同じ言葉が用いられています。「私の愛に留まりなさい」、「私につながっていなさい」、「教会から離れないでいなさい」というメッセージがここでも響いています。そしてイエスは言われました「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である」(15:12)。この言葉は最後の晩餐の時にイエスが言われた言葉です(13:34-35)。
・前に記された言葉が15章でもう一度繰り返されています。何故でしょうか。相互の愛を強調せずにはおられない状況下にヨハネの教会が置かれていたからです。迫害の中で教会のある者は捕らえられ、ある者は脱落していきました。次は誰が脱落するのか、教会の中に疑心暗鬼の状況が生まれていました。だからヨハネは「互いに愛し合いなさい。あなたがたは主にある兄弟姉妹ではないか」と言わざるを得なかったのです。そして、その愛の根拠は弱く、裏切りやすい人間にあるのではなく、イエスが私たちに示された愛に基づくものであるから、信頼して良いのだといっているのです。それが次の13節の言葉です。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(15:13)。「友のために自分の命を捨てる」、イエスは私たちのために十字架で死んで下さった、そして復活された。私たちは復活のイエスに出会って、この人こそ「神の子」であることを知った、だからこの教会に集められた。だから私たちは今キリストの愛の中にいる。「仲間を疑うのではなく、愛し合おうではないか」とヨハネは言っているのです。
・ヨハネ福音書を生み出したヨハネの教会は理想的な教会ではありませんでした。多くの人々がイエスの行われた業を見て、イエスこそ神の子と信じバプテスマを受けましたが、ひとたび、教会がユダヤ教正統派から異端宣告を受けると、次々に脱落していきました。それを示す記述が福音書の中にあります。福音書6章です。イエスが「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければあなたのうちに命はない」(6:53)といわれた時、弟子たちの多くは「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」(6:60)としてイエスの下を離れていきます。世の権力者が異端・邪宗と決め付け、従う者は社会から追放すると決めた時、多くの人が教会から離れていったのです。ヨハネは書きます「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」(6:66)。
・先週の説教の中で、戦時中の日本でキリスト教会、特にホーリネス教会に対する宗教迫害があったことをお話しました。ホーリネス教会の再臨の教え(神の国が来る)が戦前の日本の天皇制を否定するものとして弾圧の対象になりました。教会の牧師たちが治安維持法違反で捕らえられ、教会は解散を命令されます。教会が解散させられると、共に祈っていた信徒たちはどこへともなく散って行きました。自分たちの身が危なくなったからです。同じような状況がヨハネの教会でも起きたのです。ヨハネはイエスの言葉を用いて信徒に問いかけます「あなたがたも離れていきたいか」。弟子を代表してペテロが答えます「主よ、私たちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています」(6:68-69)。「命の言葉」はイエスの中にしかない。それを本当に知った者はイエスにつながり続け、豊かな実を結びます。その実の一つが「ヨハネ福音書」として、今日私たちに残されているのです。でも何故ここまでしてイエスに従う必要があるのでしょうか。
2.アガペーとエロス
・私たちが愛という時、その愛は通常は男女の愛、恋愛を指します。しかし、ここに言われている愛がそのような愛ではないことは明らかです。愛を意味するギリシャ語には、エロス、フィリア、アガペーの三つがあります。カトリックの司祭である本田哲郎氏はそれを次のように説明します「人の関わりをささえるエネルギーは、エロスとフィリアとアガペーである。この三つを区別無しに“愛”と呼ぶから混乱する。エロスは、妻や恋人等への本能的な“愛”。フィリアは、仲間や友人の間に、自然に湧き出る、好感、友情として“愛”。アガペーは、相手がだれであれ、その人として『大切』と思う気持ち。聖書で言う愛はこのアガペーである。エロスはいつか薄れ、フィリアは途切れる。しかしアガペーは、相手がだれであれ、自分と同じように大切にしようと思い続けるかぎり、薄れも途切れもしない。小さくされ、つらい思いをしている人の前に立つとき、家族のように愛せるか、親友の様に好きになれるかと、自分に問うことは意味がない。自分自身が大切なように、その人を大切にしようと態度を決める時、互いの尊厳を認め合う関わりが始まる」(本田哲郎、全国キリスト教学校人権教育協議会・開会礼拝より)。
・エロスとフィリアは人間の本性に基づく、感情的な愛であり、その基本は好き嫌いです。人間の本性に基づくゆえに、その愛はいつか破綻します。人は自分のために愛するのであり、相手の状況が変化すれば、その愛は消えます。この愛の破綻に私たちは苦しんでいます。若い恋人たちは相手がいつ裏切るかを恐れています。妻は夫が自分を愛してくれないことに悩みを持ちます。信頼していた友人から裏切られた経験を持つ人は多いでしょう。生涯を捧げてきた会社からリストラされてうつになる人もいます。私たちの悩みの大半は人間関係の破綻から生じています。だから私たちはアガペーの愛を知ることが必要です。このアガペーは私たちの中には元々ない愛です。それはイエスの十字架を通して私たちに与えられた愛だとヨハネは言います。「イエスは、私たちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、私たちは愛を知りました」(�ヨハネ3:16)。この愛です。この愛を私たちは神からいただいるのです。
・この愛を知った私たちを、イエスは「友」と呼んでくださいます。ヨハネはイエスの言葉を紹介します「私の命じることを行うならば、あなたがたは私の友である。もはや、私はあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。私はあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」(15:14-15)。イエスは弟子たちを、私たちを「友」と呼ばれます。その弟子たちがこれからどのような行為をするのか、イエスはご存知です。弟子たちはやがてイエスを裏切り、十字架の場所から逃げ去り、復活の朝は自分たちも捕らえられるかもしれないと恐れて部屋に鍵をかけて閉じこもっていました。その弟子たちをイエスは友と呼ばれます。復活の日の夕べ、イエスは弟子たちの前に現れ、「あなたがたに平安があるように」と祝福されました。この赦しが、愚かで弱い弟子たちを新しい命に変えていったのです。「互いに愛し合いなさい」という愛は、赦しの上に立てられています。「愛し合いなさい」とは「赦し合いなさい」ということなのです。
・人を結婚まで導くのはエロスの愛ですが、真の家族を形成させるものはアガペーの愛です。エロスの愛は、お互いの目を見つめあい、やがて壊れます。それに対して、アガペーの愛は共に天を見つめる愛です。この愛をイエスは私たちに教えてくれました。この愛で満たされたとき、その人の過去に何があったとしても、どのような罪や過失があったとしても、一人の全き人間になります。イエスは言われました「私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。これが私の掟である」。この言葉を私たちは次のように言い換えることが出来ます「私があなた方を赦したように、あなた方も互いに赦しあいなさい。これが私の掟である」。
3.赦し合いなさい
・今日の招詞にヨハネ福音書8:10−11を選びました。次のような言葉です。「イエスは、身を起こして言われた。『婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか』。女が、『主よ、だれも』と言うと、イエスは言われた。『私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない』」。
・イエスは姦淫の罪を犯したとして目の前に連れられてきた婦人に、その罪を問いただすことなく、ただ一言だけ言われました「行きなさい、もう罪を犯さないように」。婦人が悔い改めたから赦しが宣言されたのではなく、赦しが宣言された故に、悔い改めが始まります。弱く罪を犯さざるを得ない私たちを神は赦して下さった、そこに私たちは神の愛(アガペー)を見ます。だから私たちも自分に罪を犯したものを赦していくことができるようになります。アガペーの愛とは、赦されたゆえに赦す愛です。この愛を私たちは知りました。「私もあなたを罰しない」、赦しとは「受容」です。罪あるままで赦された者は、その罪を悔い改め、新しく立ち上がることができます。この赦しが婦人(おそらくはマグダラのマリア)の人生を根底から変え、彼女はやがてイエスの弟子となり、他の弟子たちが逃げ去った後もイエスに従って行き、イエスがゴルゴダで処刑された時も、そこに留まっていました。
・姦淫の女に対して石を投げようとしていた人々にイエスは言われました「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(8:7)。その言葉を聞いた人々は、自分たちは「石を投げる資格はない」と悔い改めました。「罪のない人はいない」、石を投げる資格を持っているのは神だけなのです。もし、私たちが「自分は罪がない、悪いのはあの人だ」と言い続けるならば、私たちはキリストの十字架を知らない者なのです。
・私たちは偶然に、今日、この教会に来たのではありません。偶然にヨハネ15章の御言葉に触れたのではありません。イエスは続けて言われました。「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、私の名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、私があなたがたを任命したのである」(ヨハネ15:16)。「実を結びなさい」、「赦し合いなさい」、「愛し合いなさい」。この言葉をキリストから受け、ふさわしい共同体を形成するために、今日、集められたのです。