江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2009年3月8日説教(マルコ9:2-13、これに聞け)

投稿日:2009年3月8日 更新日:

1.山上でのイエスの変容

・受難節第二主日の今日、私たちに与えられた聖書箇所はマルコ9章、「イエスの山上の変容」として知られています箇所です。「イエスと弟子たちが高い山に登られ、イエスが祈っておられる内に、その姿が光り輝き、預言者モーセとエリヤが現れてイエスと語り、天からの声が聞こえた」とマルコは書きます。「イエスの姿が変わった」、「モーセとエリヤが現れた」、「天から声が聞こえた」、現代の私たちには理解の難しい出来事がここに描かれています。
・これは実際にあった出来事なのか、聖書学者の意見は分かれています。ある人々は「復活後のイエスの栄光を生前のイエスに投影した教会の信仰告白であり、実際の出来事ではない」と見ます。別の人々は「ペテロが目撃し、それを弟子のマルコに伝えた現実の出来事だ」と考えています。私たちは、この出来事を本当に起きたと考える立場に立ちます。何故なら、ペテロ自身がこの出来事を証言しているからです。ペテロは教会への手紙の中で言います「私たちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、『これは私の愛する子。私の心に適う者』というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。私たちは、聖なる山にイエスといた時、天から響いてきたこの声を聞いたのです」(�ペテロ1:16-18)。何らかの神秘体験、あるいは幻視体験を弟子たちがしたことは事実でしょう。
・順を追ってこの物語を見ていきます。ガリラヤで伝道しておられたイエスは、「エルサレムに行け」との神の声を聞かれました。エルサレムはイエスの命を狙う祭司長や律法学者がいる所であり、そこに行けば殺されるかもしれないとイエスは感じておられました。イエスは気持ちの準備をされるために、ガリラヤを離れて、ピリポ・カイザリアに行かれます。その地で、イエスは弟子たちに、受難予告をされます。イエスは「エルサレムでは十字架が待っており、あなたたちもまた苦難に会うだろう。それでも従って来なさい」と言われました。弟子たちは動揺します。イエスがメシア=救い主であることを信じていましたが、その救い主が十字架で殺されるとは考えてもいなかったからです。ペテロは「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」とイエスを諌め、イエスから「サタンよ、引き下がれ」と叱責されています(8:32-33)。
・それから6日の後、7日目にイエスは弟子たちを連れて「高い山」に登られます。山は日常を離れた場所、聖書では「神と出会う場」です。モーセは神の声を聞くために山に登りました。エリヤも神の声を聞くために山に向かっています。イエスもまた神の声を聞くために山に登られました。イエスは自分が神の子として世に遣わされたとの自覚を持っておられましたが、十字架で死ぬことが最善の道であるのか、心の内に一抹の不安は持っておられました。神の御心を改めて聞きたい、そういう思いでイエスは山に登られたと思われます。
・イエスは山上で祈られました。そのイエスに、父なる神はモーセとエリヤを遣わして下さったとマルコは記します。モーセはエジプトで奴隷であった民を救い出して、約束の地に導きますが、その旅は苦難の連続でした。民は水がなくなると文句を言い、食べるものがなければつぶやき、エジプトに帰ろうと不満を言います。モーセは山に登って神に苦衷を訴え、励ましを受けて山を降りています。エリヤはフェニキアの女王が偶像神をイスラエルに持ち込んだ時にこれに反対し、命を狙われ、シナイ山に逃れます。彼はそこで神と出会い、言葉をいただき、力を与えられて、再び戦うために下山します。預言者たちは、神に会うために山に登り、力をいただいて地上の現実に戻っています。今回、イエスのもとに二人が遣わされたのは、同じ苦難を経験した者として、イエスを励ますためであろうと思われます。
・「イエスの姿が弟子たちの目の前で変わり、服は光のように白く輝いた、そして天から声が響いた」とマルコは記します。「これは私の愛する子、これに聞け」(9:7)という声です。イエスのバプテスマの時にも、天から声がありました「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」(1:11)。宣教の始めにイエスに声を下してその道を励まされた父が、今またエルサレムへの受難の道を歩もうとされるイエスに声を下して励まされたのです。気がついてみると、モーセとエリヤはいなくなり、イエスだけがおられました。イエスは弟子たちを連れて山を下りられます。神の御心を確認出来た以上、ここに留まる必要はないからです。「エルサレムに行こう。そこで十字架が待っていようが、逃げない。御心を確認できたのだから」とイエスは思われたのでしょう。

2.弟子たちは出来事の意味を理解しなかった

・弟子たちは物語の意味を理解していません。彼らはイエスが「受難のメシア」ではなく、「栄光のメシア」であることを欲していました。前に見ましたように、イエスが受難予告をされた時に、ペテロは「主よ、とんでもないことです」とイエスを諌めます。ペテロたちはイエスがエルサレムで王になられる、その時自分たちも相応のものになれると期待したからこそ、イエスに従って来たのです。そのペテロにイエスはサタンの陰を見られます。
・今回も同じです。山上でイエスがモーセやエリヤと話し合っている様を目撃したペテロは言います「先生、私たちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」(9:5)。「エルサレムで待っているものが十字架であるならば、エルサレムに行くのはやめましょう。ここで、この栄光の中で、留まりましょう」とペテロは言います。クラース・スキルダーというオランダの神学者はこの箇所を「変貌の山におけるサタン」と名づけます。自分たちだけの平安に留まること、苦しんでいる人がいる現実を見ないこともまた、サタンの業なのです。
・父なる神はその弟子たちに言われます「これは私の愛する子。これに聞け」。ペテロは「ここに小屋を建てましょう」と言いました。人間の思いは立てることに向かいます。私たちが「教会を形成する」という時、私たちの思いは教会堂の建築に向かいます。確かに教会堂は集うために必要なものです。私たちの教会も会堂の建て直しを計画しています。しかし何のために会堂を立て直すのかの理解がより大切です。主なる神は、私たちにまず「聞け」と命じられます。「私の言葉を聞け、私が遣わしたイエスの言葉を聞け」。聞くとは聞き従うことです。そして御言葉を聞く場所として私たちは教会堂に集まるのです。

3.御言葉に根ざす交わり

・今日の招詞としてピリピ4:6-7を選びました。次のような言葉です「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」。
・先週の執事会で2009年度の教会標語と主題聖句を選びました。アンケートで募集しました標語と主題聖句の候補の中から、次年度にもっともふさわしいものは何かを議論しました。その結果選ばれた標語が「御言葉に根ざした交わり」です。この1年間「御言葉を聞いていくこと」を教会の目標にしようと決意したのです。それにふさわしい聖句として選ばれたのがピリピ4:6、招詞の言葉です。
・ピリピ書はパウロがローマの獄中から書いた手紙です。ピリピの人々は獄中のパウロを慰めるため、贈り物を贈り、それに対してピリピの人々に感謝を表したのが「ピリピ人への手紙」です。パウロは手紙の中で、あえて教会の中にある争いに触れます。4章2-3節です「私はエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげて下さい」。「エボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい」、ピリピ教会においてエボディアとシンティケという二人の婦人の対立、意見の不一致があったのです。パウロは手紙の中で、二人の婦人の名前を挙げて和解するように勧め、また教会の人々にも仲裁の労をとるように書いています。「教会の中に争いがあるという現実を見つめなさい。不和があれば、それを公の場に出して、主の御心を尋ね求めなさい」と言っているのです。
・何故争いが教会の中で生じるのでしょうか。神の御心を聞かず、自分の思いが優先するからです。キリストは私たちが神と和解できるように死んで下さいました。キリストの死によって私たちは神と和解したのです。そして神と和解した者は人とも和解します。もし、私たちが人と和解できないとしたら、それは神との和解が無いことを意味します。それゆえ、人と人の不和の問題は人間的に解決すべき問題ではなく、教会全体で考える信仰の問題なのだとパウロは言うのです。
・私たちの毎日は常に喜べる状況ではありません。挫折も失意も仲たがいもあります。しかし、その中で喜んで行くのがキリスト者です。パウロは続けます「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」(4:6-7)。不和がある時、それを人間的に解決しないで神の言葉を聞け、聞いて人知を超える神の平和を求めなさいとパウロは言います。キリストに出会った人は、自分の内には何の義も無く、ただキリストが死んで下さったから義とされた事を知りました。だから自分の誇りも捨てます。自分の誇りを捨てた時、人との争いもなくなります。御言葉を聞くとは、自分の誇りではなく、神の御心を第一にしていくことです。
・人生は短く、その終わりは見えています。「もし、不和の人がいれば、一刻も早く和解しなさい。相手が赦さなくともあなたは赦しなさい」とパウロは訴えます。人との関係の断絶は神との関係の断絶です。だから神と和解している人は人と和解しなさい。私たちは相手を変えることは出来ません。しかし、自分が変わることは出来ます。私たちが相手を赦した時に、相手も私たちに心を開き始めます。「人知を超える神の平和」が働き始めるのです。私たちは毎週日曜日に教会の礼拝に参加します。7日目ごとに日常と離れた山に登るのです。そしてこの山で、神と会い、言葉をいただいて下山します。下山するとは、週6日の日常生活に戻ることです。教会は聖なる山、神の国です。その山で示された御言葉に従って生きる生活を来年1年間の教会の目標にしようという思いが「御言葉に根ざした交わり」という言葉に示されています。私たちはすばらしい目標を神から与えられました。

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