・姉妹が9月11日に昇天されました。先週の日曜日はお元気で礼拝に参加されており、私たちも突然の出来事にびっくりし、また戸惑っております。人は必ず死にます。姉妹も72歳でしたので、亡くなられても不思議ではない年齢になっておられました。しかし、あまりにも急のことであり、ご家族のお悲しみもひとしおかと思います。今日、私たちは姉妹を追悼するために、ここに集められました。今日、私たちは姉妹を追悼しますが、それは姉妹が天国に行けるようにお祈りすることではありません。姉妹は既に天国に行かれて、新しい生涯に入っておられるからです。では何故追悼するのか、それは残されたご家族をお慰めし、またここに集められた方々と、姉妹が提起してくださいました、「死ぬとはどういうことか」を共に考えるためです。
・死んだ後どうなるのかは誰にもわかりません。しかし、私たちはこの地上の体がなくなっても、新しい身体で復活すると信じています。何故ならば、私たちの信じるイエス・キリストは死からよみがえられたからです。姉妹もそう信じていました。今日、私たちは姉妹の前夜式を行うに当り、死の意味について、共に聖書から聞いていきます。姉妹が亡くなられた翌日にご遺体に面会させていただきしたが、とても安らかで、まるで眠っておられるようなお顔でした。そのお顔を拝見して、姉妹が「悲しまないで下さい。私は地上の生涯は終わりましたが、天で新しい生涯が始まりました」と言われているような気がしました。
・今日、お読みしましたヨハネ福音書の箇所は、「ラザロの復活」として知られているところの一部です。イエスがヨルダン川のほとりで、人々を教えておられたところに、ベタニア村のマルタ、マリアの姉妹から「弟ラザロが重い病気で死にそうだから、すぐに来てください」との使いがありました。イエスはラザロ一家とは親しい交わりをしておられましたので、ベタニア村に向かわれましたが、かなりの距離がありましたので、イエスが村に着かれた時には、ラザロは既に死んで4日が経っていました。
・ラザロの姉マルタはイエスが来られたと聞き、イエスを迎えに行きますが、会うなり、恨み言を言います「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」(ヨハネ11:21)。もう少し早く来てくだされば、弟の命は助かったでしょうにとマルタは言いました。その言葉には、イエスがいたら治してもらえたという信仰があります。同時に弟が死んだ以上、この方でも何も出来ないという絶望の気持ちも混じっていました。そのマリアにイエスは言われました「あなたの兄弟は復活する」。マルタは終末の復活のことをイエスが言われたと思い、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と答えました。私たちも、親しい人が亡くなった時、その人は天にいて私たちをも守ってくれており、自分が死ねば、天国で再び会えると漠然と信じています。その意味で、死後の命を信じることはそう難しくありません。
・しかし、イエスが言われたのは、今、現在のよみがえりです。イエスは言われます「私はよみがえりであり、命である。私を信じる者は、たとい死んでも生きる」(11:25)。「死んだ者を生き返らせる力を持つ者がここにいる。あなたはそれを信じるか」とイエスは言われたのです。「死もまた神の支配下にあることを信じるか」と問われたのです。マルタは答えます「あなたが神の子であることは信じています」。マルタはイエスの問いに真正面から向き合っていません。彼女は弟ラザロが、今ここでよみがえることを信じていません。誰が、死んだ者が生き返ることを信じることが出来ましょうか。そんなことは聞いたことが無い。ここに、死が私たちにとって大きな障壁、絶望として、立ちはだかります。死は全てを終わらせるのではないかと言う恐怖です。その恐怖を終わらせるために、イエスはラザロを復活させます。
・ラザロの復活の場面は、ドストエフスキーの小説「罪と罰」の主題として用いられていることでも有名です。貧しい学生のラスコリニコフは、学費を工面するために金貸しの老婆を殺して金を奪います。だが、良心に責められ、盗んだお金を使うことも出来ません。その後、彼は娼婦ソーニャと出会い、彼女の部屋で、ヨハネ福音書の「ラザロの復活」の箇所を読んでもらいます。その言葉を聞いて彼は自分の罪を認め、勧められて自首し、流刑の判決を受けます。シベリヤの流刑地にソーニャもついて行きます。地の果てのような所で数年を過ごした後、復活祭過ぎのある朝、蒼白くやせた二人は、川のほとりでものも言わずに腰を下ろしていました。突然、彼は泣いてソーニャの膝を抱きしめます。彼女のひたむきな愛が、遂にラスコリニコフを深く揺り動かしたのです。ドストエフスキーは「二人の目には涙が浮かんでいた。・・・愛が彼らを復活させたのである」と書いています。
・ドストエフスキーがいつも手もとに置いていた新約聖書は、現在モスクワの図書館に保存されており、ヨハネによる福音書第11章19節-26節、「罪と罰」でラスコリニコフの願いによってソーニャが朗読する「ラザロの復活」の箇所には始めと終わりがインクでマークされ、小説ではイタリック体で強調されている25節「私は復活であり、命である」には鉛筆で下線がほどこされています。ドストエフスキーは神を信じることの出来なくなった私たち現代人のために、この小説を書いたのです。「神は生きておられる、神は死んだ者を生き返らせる力をお持ちだ」とドストエフスキーはこの作品を通して訴えています。
・「愛が彼らを復活させた」。イエスの愛は、ラザロのよみがえりを通して、悲しみに沈むマルタを復活させました。イエスの愛はソーニャの信仰を通して殺人者ラスコリニコフを復活させました。復活は人を生かす力を持っているのです。イエスは言われました「私は復活であり、命である。私を信じる者は、たとい死んでも生きる。このことを信じるか」。この言葉を信じるかどうかは私たちに委ねられています。信じなくとも良い。しかし、信じる時に、私たちに平安が与えられ、死を受容することが出来る。その時にパウロが言いました招詞の言葉が、喜びの言葉として響いてきます「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」(�コリント15:55)。イエスが復活されたと信じる者は、死は人生の終わりではなく、新しい人生の始まりであると希望することが出来るのです。ですから、信じる者は安らかに死んでいくことが出来る。姉妹はこの信仰を持って天に召されていきました。姉妹は15才の時にキリストと出会われ、72歳になるまでその信仰を固く保たれました。彼女が愛された聖書箇所は�テサロニケ5:16−18節です「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」。彼女はまさにこのような生涯を送られ、十分に生きられて、亡くなりました。しかし彼女は、信仰の先輩として、善き妻、善き母、善き隣人として、私たちの心に生き続けます。「イエスを信じる者はたとい死んでも生きる」のです。
2008年9月14日前夜式説教(ヨハネ11:25-26、私を信じる者は死んでも生きる)
投稿日:2008年9月16日 更新日: