江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2008年8月31日説教(�ペテロ2:11-17、異教社会の中で生きる)

投稿日:2008年8月31日 更新日:

1.旅人であり仮住まいの人々への手紙

・今日は聖書日課の示すところに従い、ペテロの手紙を読みます。ペテロの手紙は、ペテロが弟子シルワノ(使徒言行録ではシラスと呼ばれています)に口述筆記させて書いた手紙と言われています(5:12)。ペテロはローマから、アジア州に住む異邦人改宗者にあてて手紙を書きました。彼らが迫害の中にあって苦しんでいたからです。異教社会の中でクリスチャンになることは、時には、地域共同体から孤立し、苦難を受けることを意味します。何故ならば信仰者の生き方は世の人々と異なるからです。その彼らにペテロは書きます「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れる時には、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです」(1:6-7)。あなた方の受ける試練が天に宝を積む、だからその苦しみを耐えなさいとペテロは言います。ペテロの手紙のあて先となったアジア州のキリスト者と、私たち日本に生きるキリスト者は似た状況に置かれています。共に、少数派であり、信仰を表に出して生きれば、苦難が与えられる可能性があるからです。異教社会の中で私たちはどのように生きるべきか、今日はペテロの手紙第2章から聞いていきます。
・ペテロは2:11で、私たちの存在のあり方を規定します「愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい」。私たちは旅人であり、仮住まいの身だとペテロは言います。アブラハムが神の召しに応じて故郷を捨てて旅立ったように、私たちもキリストを通じて神に出会い、神に従う誓約であるバプテスマを受けた時点で、私たちはこの世の旅人、仮住まいの身になったのだとペテロは言うのです。このペテロの言葉は、私たちの現在の生き方に問いを投げかけます。私たちがキリスト者になるとは、この世では旅人になり、仮住まいの身になることなのか。もしそうであれば、私たちは今、この世に仮住まいをしているのだろうか。もしこの世の生活に満足し、この世を定住の場と考えているのならば、私たちの信仰のあり方は間違っているのかもしれないと。
・ペテロは続けます「異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります」(2:12)。「彼らはあなた方を悪人呼ばわりする」とあります。当時のローマ皇帝は、自分を神としてこれを礼拝するように求めましたが、キリスト者たちは「神以外の者は拝まない」として、これを拒否しました。そのため、信徒たちは、「皇帝に忠誠を誓わない者」、「秩序を乱す者」、「法を犯す者」と非難されていました。戦争中の日本では、キリスト信徒たちは「敵の神を信じる非国民」と言われました。中国では「地下教会」といわれる非公認教会のキリスト信徒が7千万人いるといわれていますが、彼らは「邪教徒」とののしられているそうです。2000年前のアジア州と同じ状況が戦前の日本にも、現在の中国にもあるのです。現代日本にはあからさまな迫害はありませんが、もし私たちが信仰を表に出して生活すれば、やはり相応の衝突が生じるでしょう。そのような中で、神を証しして生きるのだとペテロは信徒を励まします。神を証しして生きる、そのことによって、「(異教徒たちも)あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります」と。このペテロの言葉の背景にはイエスの言葉があります。イエスは山上の説教の中で、あなたがたの光を人々の前に輝かせよ、そうすれば「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになる」(マタイ5:16)と言われました。
・では具体的に、神を証しする生活とは何か。それは良き市民として生きることだとペテロは言います。「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと、あるいは、悪を行う者を処罰し善を行う者をほめるために、皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい」(2:13-14)。イエスはかつて「神のものは神に、皇帝のものは皇帝へ」と言われました(ルカ20:25)。祭司長や長老たちがイエスを罠にかけるためにローマへの納税の可否をイエスに問うた時、イエスは言われました「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか」。ローマのデナリオン銀貨には「アウグストゥスの子、神なる皇帝ティベリウス」と刻まれていました。人々が皇帝のものですと言うと、イエスは言われました「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。「皇帝のものは皇帝に」、私たちもまた世の秩序に従います。何故ならば、世の秩序もまた神の定めたもうものだからです。だから、ペテロは「神を畏れ皇帝を敬いなさい」と教えます。「善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです。自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい」(2:15-17)。ここで「神を畏れなさい」とまず言われ、次に「皇帝を敬いなさい」と言われています。神と皇帝を区分し、神は畏れるが皇帝は敬う。「神のものは神に、皇帝のものは皇帝へ」とペテロが言っていることに留意する必要があります。

2.世にあって世に属さない生き方

・皇帝を敬いなさいといったペテロは、次の段落2:18以降では信徒の中の奴隷たちに、「主人に従いなさい」と勧めます。更に3:1以降では、妻に対して、「自分の夫に従いなさい」といいます。その皇帝は、「自分を拝まない者は処罰する」という皇帝です。その主人は「奴隷を自分の所有物として生死さえも気にかけない無慈悲な主人」です。その夫は「御言葉を信じない人、妻に絶対服従を求める夫」です。人々は神を主人とすることによって、他の一切の主人から自由になりました。しかし、現実の生活においては、自分を束縛し、苦しめ、時には打ちたたく皇帝や主人や夫がいます。その皇帝や主人や夫を敬い、従うようにペテロは求めています。とてもついていけない、私たちはそう思います。何故そこまでして世に服従しなければいけないのか。
・今日の招詞に�ペテロ2:22−24を選びました。次のような言葉です「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担ってくださいました。私たちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」。今日の聖書箇所に続くペテロの言葉です。
・教会は人々に教えました「バプテスマを受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ3:27-28)。この教えを聞いて、社会的差別の中にあった奴隷や婦人たちが教会に集まってきました。しかし、社会の現実は教えとは違いました。奴隷と主人は教会の中では平等でも、一歩外に出れば、主人は主人、奴隷は奴隷でした。妻は教会の中では「男も女もない」という教えを聞きましたが、現実の生活の中では、夫に従属する者として、何の法的権利も持ちませんでした。「神の前に平等であっても、人の前では平等ではない」、妻や奴隷は不満を抱きました。
・ペテロは奴隷たちに、奴隷であると言う現実を受け入れ、その現実の中で信仰者として生きよと勧めます。「召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい」(2:18)。ペテロは続けて言います「罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです」(2:20-21)。無慈悲な主人に心から仕えてこそ、信仰者なのだ。何故ならば、「キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです」(2:21)。そして今日の招詞の言葉が続きます。キリストが私たちのために十字架を負ってくださったから、私たちも与えられた十字架を負っていく。その時、無慈悲な主人を愛していく生きかたが生まれるのです。
・奴隷への呼びかけの後に、ペテロは妻たちへ呼びかけます。当時の妻たちは、夫の所有物であり、奴隷のような存在でした。その妻たちに、ペテロは、夫に従うように勧めます「妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです」(3:1-2)。ペテロは妻たちに、夫が不信仰であれば夫のもとを去れとは言いません。不信仰な夫が与えられたことを神の召しと受け止め、夫に心から従えと命じます。妻は、この世では弱者であり、家庭内で従属を求められます。だから彼女は悲しみを知り、キリストに出会った。経済力のある夫は、自分は強いと思い込んでいるから、神を求めない。妻は夫を愛するが故に、夫が救われることを願いますが、それは夫に言葉で説得するのではなく、自己の忍耐・従順を通して、神を信じる者の生き方を夫に示せとペテロは言います。妻を通して、夫が信仰に導かれて行くことをペテロは期待しているのです。
・これはあきらめの教えではなく、忍従を説いているのでもありません。「積極的従属」、主にある従属を選び取る行為です。この積極的従属こそ、ペテロが異教社会の中で生きる時、求めるものです。彼は言います「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」(3:9)。私たちの生き方を理解してくれる人は多くないでしょう。それでも良いではないか、積極的従属を通して、キリストに出会った者がどのような生き方をするのかを世に示しなさいとペテロは言うのです。与えられた環境が変えることのできるものなら、変えていく努力をする。しかし、それが難しいのであれば、その与えられた状況を神からいただいたものとして受け入れていく。その時、あなたがたとえ、奴隷であり、妻であり、臣下であっても、全くの自由人になるのだと。キリスト者の自由とは、「主に在って人に仕える自由」なのだと。神を畏れ、人を敬う生活を行うことによって、あなた方は主の証し人になるのだと。

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