1.人は戦争をやめることが出来ないのだろうか
・8月は私たち日本人にとって悔い改めの月です。かつて私たちは中国や韓国に侵略し、その結果として太平洋戦争が起こり、日本人は打ち砕かれて、1945年8月15日に敗戦しました。私たちは8月15日を敗戦記念日として、奢り高ぶった日本人を神が撃たれた日として覚えたいと思います。日本の国土は焼け野原となり、戦争を指導した人たちは犯罪者として裁かれました。ちょうど、神がイスラエルを裁くために、最初はアッシリアを、次にはバビロニアを用いて、イスラエルを撃たれたようにです。その悔い改めの上に立って、私たちはもう戦争をしないことを誓い、平和憲法を制定しました、それから60年の時が流れました。平和礼拝のこの日、平和の意味を、私たちは聖書から聞いていきます。与えられたテキストはエペソ5章です。
・エペソ書は使徒パウロがローマの獄中からエペソの教会に送った手紙とされています。当時の教会は圧倒的な異教徒支配の中で、今にも消えるような小さな存在でした。その教会に対する励ましの手紙です。手紙の4章から、異教社会の中で、どのように生きるべきかが述べられています。4章の最初の部分でパウロは書きます「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます」(4:5-6)。主なる神は、ユダヤ人の神であると同時にギリシア人やローマ人の神でもあられる。しかし、異邦人は主なる神を認めない。神を認めない人は自分たちを神とし、自分たちの利益のために争いあい、平安を壊している。だからあなた方は異邦人のようには生きるな、キリストによって新しくされた者として生きよとパウロは言います「以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません」(4:22-24)。
・パウロは続けます「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい」(5:8)。あなたがたはキリストに出会った。もう闇に戻るな、光の子として歩めと。パウロは、今は悪い時代、悪が支配する時だと考えています。その中にあってキリスト者は、この世から遠ざかるのではなく、この世のただ中で、地の塩・世の光として生きていくのだと言います「実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。彼らが密かに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。明らかにされるものはみな、光となるのです」(5:11-14)。
・このような文脈の中で、戦争と平和を考えるように、私たちは示されました。キリスト者はイエスに結ばれて光の子となった。光の子は「剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ26:52)ことを知る故に、武器を持って争いをしない。それでは光の子、クリスチャンが増えれば平和はなるのか。しかし、歴史はそうではないと教えます。初代教会はイエスの教えを守って戦争に反対してきました。しかし、ローマ帝国がキリスト教を国教にした時、教会は戦争を肯定し、戦争参加を拒否するものを除名するようになります。軍隊なしには帝国を維持できないからです。こうして現実との妥協が始まっていきます。やがて教会の中で、「聖戦」と言う言葉が出てきます。帝国を守るための戦争、異教徒から国を守るための戦争は「神のための戦争」であると。
・しかし、私たちは、「戦争には聖戦というものはない」ことを知っています。どの戦争も物質的な利害や権力のぶつかり合いであり、戦争においては、できるだけ多くの人間を意図的に殺すことが求められます。神がそのような行為を命じられるでしょうか。戦争は突き詰めれば敵を殺すことであり、戦争参加者は、掠めたり、奪ったり、放火したり、嘘をついたり、騙したり、婦人を犯したりします。これが神の求め給う事なのでしょうか。そうでないことは明らかです。パウロは言いました「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい」(5:10)。
・光の子、クリスチャンの人口を増やしても、国家は平和になりません。歴史的にそうであったし、現実の国家においても、キリスト教国と見られるアメリカは戦争ばかりしてきたし、逆にキリスト教徒が少数の日本はこの60年間、一度も戦争をしていません。両国の違いは1945年にあるのではないかと思います。日本は1945年に戦争に敗北し、アメリカは勝った。勝った国においては戦争をやめることが出来ず、負けた国は戦争をやめた。このことは何かを示唆します。
2.それは彼が世の人として生きざるを得ないからだ
・今日の招詞としてイザヤ2:4を選びました。次のような言葉です「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」。イザヤが召命を受けた紀元前740年ごろ、中東ではアッシリアが世界帝国の道を歩んでいました。彼らはシリアを占領し、北イスラエルを滅ぼし、今は圧倒的な軍馬をもってユダ王国に迫っています。人々はアッシリアに対抗するためにエジプトの援助を求めますが、イザヤはこれに反対します「エジプト人は人であって、神ではない。その馬は肉なるものにすぎず、霊ではない」(イザヤ31: 3)。エジプトもアッシリアも神の支配下にある人間に過ぎない。何故「鼻で息をしているだけの者に頼るのか」(イザヤ2:22)。しかし人々はイザヤの言葉を聴かず、国内は混乱します。イザヤは現実の世界政治の中に主の働きを見ました。世界の統治は武力を誇るアッシリアやエジプトによってなされるのではなく、諸国をも支配される主の統治による。終わりの日には諸国民はそれを知り、こぞってエルサレムに集い、主の平和を求めるだろうとイザヤは預言します。その預言の後に今日の招詞の言葉が来ます。
・「終わりの日には」、終末預言は現在に対する絶望から来ます。現実の政治に絶望する故に、イザヤは問題の解決を神に求めました。今日の招詞の言葉は、NYの国連ビルの土台石に刻み込まれています。第二次大戦の惨禍を経験した諸国は、「もう戦争はしない」という願いを込めて、イザヤの預言を刻みました。しかし言葉を刻んだだけでは平和は来ません。平和は人間が自分の限界、無力を知った時に、来ます。イザヤは主がエルサレムを棄てられる日が来ることを預言します。何故ならば、国が滅ぼされ、民が悔い改めた後にしか、平和は来ないからです。日本は1945年に戦争に負けました。もう兵器はいらなくなり、砲弾にするために兵器工場に集められた鉄が鋳られ、釜や鍬が作られました。戦争に負けたからこそ、日本人はイザヤの預言を実現できました。
・パウロは言いました「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます」(4:5-6)。全ての民族が国籍の違いを超えて、同じ神を礼拝するとパウロは言いました。しかし、現実には、キリスト者同士が戦争をして、お互いを殺しあいます。主にあって一つなのに、何故争いあうのか。それは世にあっては、人は民族や国家を超えることが出来ないからです。それはキリスト者になっても同じです。彼らも「世にあって、世に属して」いるからです。
・教会教義学を著わした神学者カール・バルトは戦争の愚かさ、反聖書性を明らかにしましたが、しかし、彼もまた世から自由になることが出来ませんでした。彼は書きます「ある民族と国家が他の国家により、非常緊急事態に追い込まれ、その存立や独立が脅かされるという究極的なことが起こった時、戦争は肯定されることもある。例えば、スイスの独立・中立・領土不可侵等が犯された場合はそれに該当するであろう」。戦争はいけない、しかし、自分の祖国が敵に侵略された時は、この限りではない。カール・バルトのように、信仰にも学識にも優れた人も、世を越えることは出来なかった。イエスは私たちに「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5:9)と励まされましたが、これは人の力では実現不可能な教えです。イザヤが言うように、終末が来るまでは戦争はなくならない、この事実を私たちは認識する必要があります。
3.世にあって、世に属さず、世に仕える
・敗戦の悔い改めの上に制定された日本国憲法の前文は、「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と述べています。現実世界の中で、「人間相互の関係」は「崇高な理想」によって支配されてはいません。「平和を愛する諸国民」は「公正と信義」を持っていません。戦争をやめることが出来ない歴史を持つ人間に信頼して、「安全と生存を保持する」ことは不可能です。改憲論者が言うとおり、憲法の歴史認識は誤っているようにと思えます。しかし、この憲法全文を“主”という言葉で読みなした時、意味はまるで異なってきます。「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な主の支配を深く自覚するのであつて、平和を愛する主の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」、「理想を主の支配に」、「諸国民を主に」変えたとき、日本国憲法はイザヤの信仰告白と同じになります。この憲法は歴史的には、日本を占領した米国占領軍(GHQ)の中の理想主義的なクリスチャンたちが中心になって起草したといわれています。聖書の信仰が基礎になって起草されているのです。
・私たちがこの憲法を与えられていることはすばらしいことです。イザヤが述べた終末の日の預言、「彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」を実際の法文にまでしたのです。日本国憲法こそ神が私たちに与えてくれた最善の贈り物なのです。近年、この憲法を再評価する声が高まっています。今年の5月に開かれた「9条世界会議」の宣言文では、「9条の武力によらない平和という考え方は国際的な平和運動のシンボルになっており、9条の軍事費を抑制する機能は国際的にも注目されており、世界には軍隊をなくそうという運動や現実に廃止している国も出てきた」と言います。紛争を対話で解決すること、軍事費を人々のために回すこと、基地をなくして環境を守ること、核のない平和な世界をつくること、一人ひとりを大切にする持続可能な社会をつくること等が話し合われたとのことです。
・私たちは世にある限り、世に属し、世に属する限り、戦争をなくすことは出来ません。しかし、神には出来る。パウロは旧約の言葉を引用してエペソの人々に伝えます「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる」(エペソ5:14)。私たちは「平和を実現する」ことは出来ない。しかし、「御心が天になるごとく、地にもならせたまえ」と祈ることはできます。平和礼拝の今日、神の御心にそう平和憲法が与えられていることを、改めて認識し、感謝したいと思います。