1.過労死問題
・過労死が今社会問題になっています。長時間労働により体を壊したり、神経に不全を起こして死ぬ人が増えています。過労死110番によれば、実にいろいろの事例が相談されています。例えば午前6時に出勤し、午後9時過ぎに帰宅するほどの激務が続き、家族の者に「仕事がしんどい」と言っていたところ、不整脈で死亡した(30代男性、販売業) 、終電で帰る長時間労働で自殺した月には、仕事上のミスで「会社を辞めさせられるかもしれない」と言っており、会社に泊まりこみも4~5回あった(50代男性、システムエンジニア)、長時間労働の結果、うつ病を発症し、休職しているが、会社から退職を強要されている(20代男性、システムエンジニア)、公立学校に勤めているが、業務量が多く1日14時間もの勤務を強いられ、振替休業を取りたくても取れない(女性、学校教員) 等々です。
・過労死とは、医学的には、仕事による過労やストレスが原因となって、脳・心臓疾患や呼吸器疾患等を発病し、死亡至る現象です。過労により大きなストレスを受け、疲労がたまり、「うつ病」を発症し、自殺する場合は過労自死と呼ばれます。残業時間が月80時間を越えると、人間の心身は変調をきたすと言われています。過労死が表面化するのは労災の申請をめぐっての争いが起こった時で、過労死労災認定件数も2000年度85件、2005年度330件と増え続けています。しかし、表面化しない場合も多く、全国では年間1万人ほどの人が過労で死んでいると推測されております。そしてこの過労死は、英語でKaroshiと言う単語が出来るほど、日本特有の問題と言われています。
・過労死の原因は長時間労働であり、それを生み出すのは日本独自の労務管理システムといわれています。「企業のために残業もいとわず身を捧げて働く者を高く評価し、残業を拒否し、休暇を長くとるような者に対しては、評価しない」という空気が日本企業の中にあります。でも、「だからと言ってなぜ死ぬまで働き続けたのか」という疑問が出されます。日本の企業社会の中では、「自分の仕事が終わっても、なおも働く同僚のことを気にして帰途につけない状況や、自分が職場を休むと仕事に支障をきたし、同僚に迷惑がかかるから休めない状況」があります。つまり過労死は強制労働であると同時に、自発的長時間労働という側面もあります。過労死するほど働く人は、まじめで責任感の強い人が多いのもそのことを裏付けます。
2.休みなさい
・過労死の原因の一つは、働く人を消耗品とみなす日本的経営管理です。働く人が消耗品とみなされる典型的な社会は、奴隷制をもつ社会です。奴隷に重労働を課し、その結果、奴隷が死んでも持ち主は罰せられない。人ではなく、物だからです。今から3500年前、イスラエル人がエジプトで置かれた状況がそうでした。彼らはエジプト王の奴隷として、重労働を課せられ、休む時も与えられませんでした。出エジプト記によれば「イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。神はその嘆きを聞き・・・イスラエルの人々を顧み、御心に留められた」(出エジプト記2:23−30)とあります。人々のうめく声を聞いて、神は歴史に介入される決断をされ、モーセをエジプト王へ遣わし、イスラエル人を休ませるように求められました。それに対してエジプト王は「この怠け者めが、お前たちは怠け者なのだ」と答え、休息を求めたイスラエルに対し労働強化で答えます(出エジプト記5:8)。ここからエジプト王との戦いが始まり、神はモーセを用いて民をエジプトから解放して、約束の地であるカナンに導きます。そのカナンの地に入る時与えられたものが、十戒であり、その十戒の中心をなすものが、「安息日規定」です。
・申命記5章12-14節は言います「安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」(5:12−14)。6日働いたなら、7日目は休め、ただその時にあなたが休むだけではなく、「あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる」と命令されています(5:14b)。あなたは、エジプトでは苦役のために休むことが出来なかった。そのため、あなたの体は疲れ、心にも平安はなかった。そのあなたのうめき声を私は聞いたから、あなたをエジプトから解放した。今、あなたの奴隷たちも同じような苦役にあえいでいる。だから彼らに休息を与えよ。申命記5章はそう言います。3500年前に、奴隷もあなたと同じ人間であり、休ませよと言われていることは驚くべきことです。今日の私たちの社会が人を過労死に追い込むほど奴隷化している現実を見るとき、この規定がいかに優れたものかと思われます。
・人は休まないと生きていくことが出来ない。だから休めと命じられます。この祝福として与えられた7日目の休みが歴史の中で制度となり、今では日曜日に休むことが当たり前になりました。私たちが日曜日に休むことが出来るのは、実はこのモーセの十戒、神の祝福から来ています。それなのに、現代社会はまた日曜日さえ休めない社会になりつつあり、みんなが疲れて死につつあります。どうすればよいのでしょうか。
3.世に打ち勝つ信仰
・先に見ましたように、日本の企業社会の中では、「自分の仕事が終わっても同僚のことを気にして帰れない状況や、自分が休むと仕事に支障をきたし同僚に迷惑がかかるので休めない」状況があります。過労死は強制労働であると同時に、自発的長時間労働という側面もあります。過労死の一つの問題は、それが雇用主側からの強制であるにもかかわらず、強制と認識できなくて、死に至るまで働き続ける人がいることです。出エジプト記で言えば、自分がエジプトの奴隷状態にあるにもかかわらず、「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている」(出エジプト記16:3)。と言っているようなものです。人々が世の束縛から解放されていないのです。私たちはこの問題も考慮する必要があります。
・私も45歳になるまでは、自分が世の奴隷になっていることに気づきませんでした。大学を出て保険会社に入り、相応の収入を得て、日曜日には教会に行き、家族にも恵まれていました。良い社会人、良い家庭人、良いクリスチャンだと思っていました。しかし45歳の時に長男と喧嘩になり、彼に怪我を負わせるという出来事が起こりました。子供は私を偽クリスチャンと呼び、口を聞かなくなり、食卓を共にしなくなりました。その時から、世界が変わりました。長男との出来事を通して、本当の自分の姿が見えてきました。本当の自分は家族よりも体面を大事にするエゴイストであり、日曜日ごとに教会に行っていても、その本質は何も変わっていない姿が見えてきました。人生の適格者だと思っていたのに、「不適格者」だったことを知った時の、惨めな気持ちを忘れることは出来ません。苦しくて聖書を貪るように読み始め、もっと知りたくて夜間の神学校に通い始めました。
・この神学校生活が私の人生を変えました。神学校の授業は週4回、夕方6時半から始まります。授業に出るためには、最低午後6時には会社を出る必要があります。当時、本社・財務部の一つの課を任されており、部下と共に9時、10時まで残業することが当たり前の生活でしたが、その私が夕方の6時には、残業している部下を残して会社を出るようになり、周囲の私を見る目が変わってきました。私としては残業できない分、勤務時間内に仕事が終えられるように努力しましたが、日本の会社では、「どれだけ仕事をしたかではなく、どれだけ会社に忠誠を尽くしたか」で評価される側面があり、評価が落ちたせいでしょうか、2年後に福岡に転勤になることになりました。本社のラインを担当する財務部課長が、地方の一支社の駐在財務課長に左遷されたのです。今までの部下が上司になりました。サラリーマンとして決定的な出来事でした。悶々とした気持ちをいだいて福岡に行きましたが、このことを境に会社に対する考え方が変わって来ました。
・当時、東京バプテスト神学校で2年の学びを終えていましたが、福岡の九州バプテスト神学校に転校して学びを再開しました。閉職になったため残業もなくなり、毎日授業に出ることが出来ました。教会は福岡バプテスト教会に転籍し、成人科教師として毎週の教会学校のためのテキストを作り始め、大勢の人が出席してくれるようになりました。単身赴任ですので、勉強する時間も取れました。九州神学校に通学で学ぶと共に、東京神学校の通信受講も並行しました。会社と教会と神学校の三つを等分に生きるような生活になってきました。そして2年が過ぎ、両神学校を卒業する時に、会社がリストラ対策で希望退職者を募り始めました。会社に対する呪縛は既になくなっており、また割増退職金で子供の学資と数年分の生活費の目処もつくようになり、会社を辞め、東京神学大学に行き、52歳で牧師になり、篠崎キリスト教会に赴任しました。
・私の場合は、子どもとの軋轢~神学校での学び~会社での左遷と言う手段を通して、神は世から解放してくださいました。もし、東京本社に残り、昇進の道が開けていれば、世からの解放はなかったかもしれません。多くの人が、自分は今エジプトの奴隷状態の中にいることに気づいていません。そのため、命をすり減らして働いています。「何故死ぬまで働き続けるのか」、「何故他の道があることに気がつかないのか」、私たちは世にとらわれることの危険性を人々に知らせる責務があります。ヨハネは言いました「すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます」(�ヨハネ2:16-17)。私たちはエジプトから救われた、私たちは世に打ち勝った。「だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか」(�ヨハネ5:5)。世の欲は過ぎ去る、会社は永遠ではないし、会社を離れても生きる道を神は与えてくださる、せっかくの命を無駄遣いするな、大切なメッセージを私たちは託されています。