1.希望をなくしている人へ
・ヨハネ福音書から御言葉を聞いています。ヨハネは証言します「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」(ヨハネ1:11-12)。多くの人がイエスの言葉を聞き、イエスの為された業を見ました。ある人はイエスの言葉と業を見て、この人こそ「神の子だ」と受け入れ、イエスの前にひざまずきました。別の人はイエスに出会っても、イエスを拒否しました。何が人を分けるのでしょうか。今日はヨハネ5章から、神の憐れみの業であるいやしと、それに対する人間の応答である救いの問題を見ていきます。
・ヨハネ5章は、イエスが祭りのためにエルサレムに上られ、ベテスダの池に行かれたとその記述を始めます「イエスはエルサレムに上られた。エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた」(5:1-3)。ベトザタとは「オリーブの家」の意味です。オリーブの家と呼ばれる池があり、その水に入ると病気が治ると評判になり、大勢の病人が集まり、病人を世話するための建物が建てられ、やがてその池はベテスダ(憐れみの家)と呼ばれるようになりました。ですから、池の名前として、ベトザタとベテスダという双方がありました。
・その池は間欠泉であったと思われます。間欠泉とは地下水が地下の空洞に貯まり、水が一定量を超えると圧搾された空気の圧力で、池の中に流れ込みます。地下を通って水が湧き出すので、水の中に多くの鉱物が含まれ、病気をいやす成分も含まれていたのでしょう。今日では、温泉や鉱泉に病気をいやす作用がある事は知られていますし、南フランスにあります「ルルドの泉」は、いやしの泉として有名です。
・「そこに38年の間、病気に悩んでいる人があった」(5:5)とヨハネは書きます。38年間も治らなかったということは、かなり重い病気であったと推測されます。病気のいやしを求めて多くの医者にかかり、薬を求め、加持祈祷もしてもらったが、治らなかったので、今、最後の頼みとして、評判の高いベテスダの池に来ていたのでしょう。その人にイエスが声をかけられます「良くなりたいか」。彼は答えます「主よ、水が動くとき、私を池の中に入れてくれる人がいないのです。私が行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです」(5:7)。この言葉の中に、彼の心の中がうかがえます。彼は良くなることに絶望しています。38年間も待ったのに何も起きなかった、これからも何も起きないだろうと思っているのです。彼の心にあるのは、他者の冷たさに対する怒りばかりです。だから彼は、「良くなりたいか」という問いかけに、「ぜひ治してください」と言わずに、「誰も助けてくれる人がいないのです」と不満を述べているのです。このような人を生き返らせるためには行為しかありません。だからイエスは言われます「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」(5:8)。
2.起きて歩きなさい。
・治りたいという意欲さえ失ったこの人に、イエスは言われます「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」。ここにイエスは三つのことを言われています。まず「起き上がりなさい」です。この言葉はギリシャ語のエゲイレ、死からの復活を意味する言葉です。希望をなくした男を起き上がらせるために、「よみがえれ」とイエスは言われたのです。そして「床を担げ」と言われました。もう床はいらない、それに頼るなと言われています。最後の言葉は、「歩きなさい」です。目標をもってしっかりと生きることです。「生まれ変わって、新しい人生を始めよ」とイエスは言われました。
・このイエスの言葉は同時に、私たちへの言葉でもあります。「あなたたちも希望をなくしているのではないか」と聖書は語りかけます。私たちのある者は、何十年も教会生活をしています。毎週、聖書を読み、説教を聴きます。しかし、何も起こりません。生活はいつも通りだし、心に喜びがない。私たちもまた希望をなくしているのではないでしょうか。その私たちにイエスは問いかけられます「良くなりたいか」。希望を回復しなさいと。
・先週、一人の姉妹を訪ねました。姉妹はもう3年間、老人ホームで生活し、今は歩くことも出来ないため、寝たきりの生活です。四人部屋におられる姉妹の空間は、ベッドとその周辺だけです。姉妹はよく言われます「死ぬ以外にここを出ることは出来ません」。私は、何とお答えしていいのか、わからずに下を向いてしまいます。病気のために生涯寝たきりの人生を送った、水野源三さんはこのような短歌を歌っています「生きている、生かされている、歯が痛き、手足がかゆき、咳が苦しき」。歯が痛い、手足がかゆい、咳が苦しい。そのことの中に生かされている自分を、水野源三さんは見ています。生きがいとは信仰の課題であることを痛感します。
3.いやしから救いへ
・この病人のいやしが、イエスとパリサイ人との安息日論争を呼びます。病人がいやされたのは安息日でした。安息日厳守を唱えるパリサイ人は、病人が床を担いで歩いているのを見てとがめます「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない」(5:10)。ユダヤの律法は、安息日に仕事をすることを禁じており、律法の監視人であるパリサイ人が文句をつけたのです。それに対していやされた男は答えます「私をいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」。「私が悪いのではなく、私をいやしてくださった方がそうせよと言ったのです」と、男はイエスに責任転嫁することによって追及を免れようとしています。だからイエスは神殿の境内で再度会った男に言われます「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない」(5:14)。あなたの上に神の憐れみが示されたではないか、それにもかかわらずあなたは神を認めようとしない。それは病で苦しむことよりももっと悪い結果をあなたにもたらす。だから悔改めなさいとイエスは言われました。
・しかし、男の関心はイエスではなく、世の支配者の方に向いています。男はイエスと会った後、パリサイ人のところに行き、「自分をいやし、床をとって歩けと命じたのはイエスです。今、名前がわかりました」と密告します。イエスは彼の体をいやされました。しかし、この人はそれを神のわざと認めず、律法違反の罪をイエスに転嫁することによって、自分を守ろうとしたのです。私たちが真に恐るべきものは、この世の権力者ではなく、神の裁きです。この人はいやしをいただいたのに、救いを捨ててしまいました。
・今日の招詞に、ヨハネ9:38−39を選びました。次のような言葉です「彼が、『主よ、信じます』と言って、ひざまずくと、イエスは言われた『私がこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる』」。ヨハネ5章は長患いの病人のいやしですが、ヨハネ9章には、生まれつきの盲人のいやしがあります。両者の物語は、似ています。
・ヨハネ9章では、生まれつきの盲人が物乞いをしているのを、イエスが見られたと物語が始まります。イエスは彼を憐れまれ、唾で土をこねて目にお塗りになり、「シロアムの池に行って洗いなさい」と言われました。彼は行って洗い、目が見えるようになります。5章と同じく、神の憐れみがいやしとして示されたのです。そこにはパリサイ人がいました。彼らは、盲人がいやされたことよりも、その日が安息日であることを問題にします。彼らは盲人であった人に問いただします「お前はあの人をどう思うのか」(9:17)。彼は答えます「あの方は預言者です」。パリサイ人は繰り返し、イエスの律法違反の罪を認めよと男に迫りますが、男は引きません。「あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」(9:33)。パリサイ人は彼を追い出します。彼が追放されたことを聞いて、イエスが会いに来られます。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われました。彼は答えます「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが」。イエスは言われます「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」。彼は「主よ、信じます」と言って、イエスの前にひざまずきました。その彼にイエスは言われた言葉が招詞の言葉、「私がこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」です。
・この目の見えない人は、最初はイエスが誰か知りませんでした。だから彼は言います「あの方は預言者です」。しかし、パリサイ人との対話を通して彼はイエスが誰であるか、少しずつ見えてきました。彼は次には、「あの方は神のもとから来られた」と告白します。そして最後に、イエスと出会うことを通して、彼はイエスの前に跪きます「主よ、あなたこそ救い主です」と。この人は二度イエスから目を開けてもらいました。一度は肉体の目を開けてもらった時、二度目は心の目を開けてもらった時です。いやしは「神の憐れみのしるし」であり、この「しるし」から、信仰にいたらなければ、そこに救いはないです。先に紹介した水野源三さんは「苦しまなかったら」という詩も書かれました。「もしも私が苦しまなかったら 神様の愛を知らなかった。多くの人が苦しまなかったら 神様の愛は伝えられなかった。もしも主イエスが苦しまなかったら 神様の愛は現われなかった」。ここには、体がいやされないこともまた、救いとなりうることが示されています。
・5章と9章の物語の比較を通して、ヨハネが言いたいことが見えてきたような気がします。ヨハネは言いました「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」(1:11-12)。罪とは何か、それは神の業を見ながら、その業を拒むことです。体のいやしよりも大事なものがあることを、ヨハネは私たちに示します。私たちはヨハネ5章の「しるしを見ながら救いを失った人」の生き方ではなく、ヨハネ9章の「しるしを認めて主の前にひざまずいた人」になりたいと心から願います。「主よ、あなたこそ救い主です」、この告白が人を救いに導くのです。