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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2008年9月14日敬老記念礼拝説教(イザヤ46:1-4、私たちを白髪になるまで背負われる神)

投稿日:2008年9月14日 更新日:

1.偶像を捨てよ

・敬老記念礼拝の今日、年を取る、老化することの意味を、聖書から聞いていきたいと思います。旧約聖書には「老人を敬いなさい」という言葉があちこちにあります。「白髪は輝く冠、神に従う道に見出される」(箴言16:31)、「力は若者の栄光、白髪は老人の尊厳」(箴言20:29)、さらに「白髪の人の前では起立し、長老を尊び、あなたの神を畏れなさい」(レビ19:32)と聖書は語ります。老人を尊ぶことは、神を敬い畏れることと同じであると理解したところに、信仰に生きるユダヤ人のすばらしさがあります。老人の経験に裏打ちされた知恵こそ、学ぶべきものであると聖書は強調します。他方、年を取ることの悲しさをも聖書は見つめます。コヘレト12章がその典型です。「その日には、家を守る男も震え、力ある男も身を屈める。粉ひく女の数は減って行き、失われ、窓から眺める女の目はかすむ。通りでは門が閉ざされ、粉ひく音はやむ。鳥の声に起き上がっても、歌の節は低くなる。人は高いところを恐れ、道にはおののきがある。・・・人は永遠の家へ去り、泣き手は町を巡る。・・・塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る」(コヘレト12:3-7)。年老いて体が衰え、やがて死んでいく人生の事実を著者は見つめています。
・年を取る、老齢化するとは痛みを伴うことでもあります。しかし、聖書はそのような老人に励ましの言葉を与えます。今日学びますイザヤ46:3−4の言葉です「あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、私はあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。私はあなたたちを造った。私が担い、背負い、救い出す」。今日はこのイザヤ書の言葉の意味を共に考えて生きたいと思います。イザヤ書は40章から新しい段落に入ります。イスラエルは紀元前587年にバビロニヤによって国を攻め落とされ、滅亡しました。国の指導者たちは捕囚として遠いバビロンまで連れて来られました。いわゆる「バビロン捕囚」です。捕囚された人々は、自分たちの神ヤハウェがバビロンの神マルドゥクに破れた、これからはマルドゥクを礼拝しようと言い出していました。勝者の神を崇める、いつの時代でも起こる現象です。
・しかし、武力で征服した者は武力の衰えと共に衰退します。世界帝国となったバビロニヤもやがて勢力をなくし、新興国ペルシャに領土を奪われ、ペルシャ軍は首都バビロンにまで迫ってきました。バビロン軍は避難を始め、守り神である神々も移動を始めました。神殿にあった神像が台座からとり下ろされ、横にされ、運搬用の家畜に背負われます。偶像礼拝者たちは危急の時には、その神々を自ら救い、背負わなければいけないのです。それを見た預言者がイスラエルの人々に「よく見よ」と呼びかけます。それがイザヤ46章1節の言葉です「ベルはかがみ込み、ネボは倒れ伏す。彼らの像は獣や家畜に負わされ、お前たちの担いでいたものは重荷となって、疲れた動物に負わされる」。ベルとはバビロンの主神マルドゥク、ネボはその子です。バビロンの人々を救うとされた守護神は自分自身を救うことが出来ないではないか。神々を救うためには獣たちに台車を引かせ、獣たちが倒れると彼らも共に倒れるではないか。それを歌ったのが次の46:2です「彼らも共にかがみ込み、倒れ伏す。その重荷を救い出すことはできず、彼ら自身も捕らわれて行く」。偶像は所詮人を救い得ないのだと神は言われます。

2.白髪になるまで私たちを背負われる神

・預言者はイスラエルの民に語りかけます「私に聞け、ヤコブの家よ。イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた」(46:3)。バビロニヤの偶像神は人や家畜に背負われないと動くことも出来ない。あなた方は今までこのような偶像神に心を奪われてきた。今こそ目を開き、耳を立てよ。「私こそ」と主なる神は言われます。「私こそあなたたちが生まれた時から、あなたたちを背負い、担ってきたのだ」と。私は偶像の神のように、人に背負われはしない。言葉は続きます「同じように、私はあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。私はあなたたちを造った。私が担い、背負い、救い出す」(46:4)。それはイザヤ書の文脈では、ペルシャを用いてバビロニヤを撃ち、民をエルサレムに再び戻すことを意味しています。「私の計画は必ず成り、私は望むことをすべて実行する。東から猛禽を呼び出し、遠い国から私の計画に従う者を呼ぶ」(46:10-11)。東から猛禽を、東方のペルシャ王クロスを用いてこのバビロニヤを倒し、あなた方を解放するという意味です。
・預言者は担われ、背負われることなしには、歩くことも出来ない偶像の愚かさを笑います。しかし、そのバビロニヤの偶像に多くのイスラエルの民がひれ伏していたのは事実です。彼らは軍事力で勝った故に価値があると思ったからです。この偶像とは今日では何に相当するのでしょうか。私たちを取り巻く野心、飽くことなく求める利益、酔いしれる肉の欲望とその充足、私たちの幸福を保証するであろう地位やお金、そのようなものかもしれません。人間は健康な時には、自分の身体、地位、役割、財産、価値観等を自己と同一化しています。ある意味で,それらのものに支配され、囚われ、偶像化されています。「健康でなければいけない」、「お金がなければいけない」、「役割がなければいけない」等と思い込んだとき、その喪失は人を苦しめます。だから主は偶像を捨てよと言われます。
・年を取ることは、これまで大事にしてきた偶像を捨てざるを得ない時が来たことを意味します。村田久行先生(京都ノートルダム女子大学)は人間存在の三つの柱という概念を用いて老年期の問題を説明されます。一つは時間存在です。将来の希望があるから現在を生きることが出来る、年を取ると時間存在=将来が少なくなり、やり直しが難しくなる。二番目は関係存在の喪失です。人は他人から評価されることによって自己の存在を体感できます。老齢になるとそれは減退し消滅します。三番目は自律存在の喪失です。肉体の衰えは自己決定の衰えを意味します。年を取るということは、身体が不自由になって自分で出来なくなることであり、担っていた役割を果たせなくなることでもあります。
・この現実を受入れることこそ、イザヤが求める偶像を捨てることではないかと思います。主なる神は、これまで私たちの苦しみの日々に、私たちを背負い、苦しみの中を通り抜けさせて下さってきました。そして今「あなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう」と言われています。この方に自分の生涯を委ねることを通して、私たちは老や死を受容することが可能になります。日本語の「受容」は受身的な意味合いを強く持ちますが、本来の言葉acceptanceの動詞acceptは「喜んで、積極的に受入れる」という意味を有しています。与えられた現実を積極的に受入れる、老齢期こそその機会ではないか。これまで大事にしてきたものを捨てて身軽になることです。何故ならば私たちを造り、生かしてくださる神は、私たちが「老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう」といわれる方だからです。

3.偶像を捨てるとは、現在を受容すること

・老いを受容した時、どのような生き方になるのかを、米国の社会心理学者で晩年に筋萎縮性側策硬化症(ALS)を患い、78歳で亡くなったモリス・シュワルツの生涯から見てみます。ALSは筋肉の動きを支配する脊髄の運動神経細胞が侵され、筋肉がやせ細ってくる病気で、進行すると足や手が動かなくなり、やがては呼吸筋の麻痺による呼吸不全が生じ、死が訪れます。彼(モリー)の場合は、大学の教師として働いていましたが、60歳過ぎごろから喘息の発作に苦しめられるようになり、やがて歩行障害が発生し、70歳代になると足は全く動かなくなりました。病状は悪化し、78歳になった時には、全くの寝たきりで、介護なしには何も出来ないようになります。かつての教え子ミッチ・アルボムが見舞いに来て、モリーが寝たきりであるにもかかわらず決して落胆していないのを知り、死ぬ前の半年間、毎週火曜日に訪問するようになります。モリーは「死ぬことがどんなものか話そうか。君はそれを受け止められるか」とミッチに語りかけます。モリーはALSで身体を動かすことは出来ません。しかし精神は活発です。モリーは語ります「みんな間違ったものに価値を置いている。無意味な人生を抱えて歩き回っている。だから幸福になれないのだ。人生に意味を与えるものは、人を愛すこと、周囲の社会のために尽くすこと、自分に目的と意味を与えてくれるものを創り出すことだ」。彼は病気が進行して、やがて他の人にお尻を拭いてもらわなければならない日が来ることを覚悟しています。2ヵ月後にその日が来た時、モリーは「恥ずかしがるのをやめることにした。また赤ん坊に戻ったことを楽しむようになった」。闘病中、モリーの家には同僚、学生、ボランティア等多くの人々が来ましたが、モリーは一人一人の話しを聞き、それぞれの抱えている問題に心を砕き、彼らは逆に励まされて帰っていきます。モリーは言います「人に与えることで自分が元気になれる」。
・モリーはやがて訪れてくる死について語ります「誰でもいずれ死ぬことはわかっているのに、それを信じようとしない。いずれ死ぬことを認識すれば、余計なものを剥ぎ取って肝心なものに注意を集中するようになる」。またモリーは年をとることについて、「私は老化をありがたく受入れる。老化はただの衰弱ではなく、成長なのだ」。「ありのままの自分を受入れ、楽しむことだ。78歳が今の私の時代、人生に意義を認めたら逆戻りしたいとは思わない」と答えます。彼は言います「この病気は私の精神に殴りかかってくるけれど、そこまでは届かない。肉体はやられても精神はやられない」。毎週火曜日の授業は終わり、モリーは死んでいきました。この13回の個人授業はミッチ・アルボムの生き方を根本から変え、かれはモリーとの対話を「モリー先生との火曜日」(別宮貞徳訳、NHK出版)と題して出版し、私たちもモリーの生き方を知るようになりました。老いの現実を受入れる、偶像を捨てることによって、このようなすばらしい老年期が与えられるのです。
・今日の招詞に�コリント4:16を選びました。次のような言葉です「だから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの『外なる人』は衰えていくとしても、私たちの『内なる人』は日々新たにされていきます」。パウロの言葉は直接的にはパウロの指導を受入れようとしないコリント教会に宛てられたもので、書簡の文脈に沿って読めば、「自然の人間は困難の中で倦み疲れ絶望するが、信仰によって新しく創造された内なる人はそれを突き抜ける生命と力を持つ」との意味でしょう。あなたたちがいくら拒絶しても私は負けないと言うことです。しかし、私たちはこの言葉を、「外なる人=肉体は衰えても、内なる人=魂は日々新たにされていく」と受け止めたいと思います。モリーが言ったように「肉体はやられても精神はやられない」のです。「みんな間違ったものに価値を置いている」とモリーは語ります。この間違ったものこそ偶像です。モリーは語りました「年を取ると死を意識せざるを得ない。余計なものを剥ぎ取って肝心なものに注意を集中するようになる」、年を取ることは余計なもの、偶像を捨てる好機なのです。あなたにはもう偶像は要らない。何故ならば、「私はあなたの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう」と主は言われます。この方に委ねて、人生の最後の日々を意味あるものにしていく、そのような生き方が私たちに示されています。

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