江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2008年8月23日夏季修養会奨励(マタイ18:12-14、迷い出た一匹の羊の例え)

投稿日:2008年8月24日 更新日:

1.迷いでた一匹の羊の例え

・マタイ福音書18章12−14節は「迷い出た羊の例え」です。新共同訳では次のようにあります「あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」。同じ例えがルカ福音書15章4−7節にもありますが、ルカでは「見失った羊」となっています。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」。今日の奨励では、このマタイ福音書を基本にしてメッセージを聞き、明日の奨励ではルカ福音書からメッセージを聞きたいと思います。
・さて、聖書を読む時には、文脈の中で読むことが大事だと言われています。マタイの文脈では、教会の小さな者をつまずかせる者は災いだと言う文脈の中で、この「迷い出た羊」が語られています。10節にはこうあります。「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつも私の天の父の御顔を仰いでいるのである」。小さい者とは、いろいろな理由で配慮と助けを必要としている者を指します。
・人はある時は牧師や信徒の言葉につまずき、別の時には自分の問題で、教会に来ることが出来ない状態、教会の群れから迷い出た状態になります。その時、私たちは週報を持って訪問したり、電話したりして、「また礼拝に参加するよう」に勧奨します。しかし、多くの人は教会に戻ることが出来ない。それは教会が悪い場合もあるし、本人の問題である場合もあります。そのような時、私たちはどうしたらよいのか、それをマタイは私たちに問いかけます。

2.マタイを通して学ぶこと

・この物語はルカとマタイに共通していることから、共通の資料=イエス語録(聖書学ではドイツ語の資料Quelleの頭文字をとってQ資料と呼びます)から取られています。イエスはある時、「九十九匹を置いて一匹を探しに行く神の愛を語られた」、それをマタイは教会に対する教えとして聞いたのです。いろいろな人が教会につまずき、あるいは自分の問題で、教会に来ることが出来ない状態にあった。マタイはそのような教会の現状を見て、「誰かが教会につまずいたとしたら、それは教会全体にとって非常時なのだ。父なる神はその一人でもが失われることを望んでおられない」と述べているのです。10節「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつも私の天の父の御顔を仰いでいるのである」とはそのような意味です。
・群れの一匹が迷いでた時、羊飼いは九十九匹を「山に残して」、その一匹を探しに行きます。マタイでは山は「聖なる場所」です。イエスは祈るために山に登られ(14:23)、山の上でモーセやエリヤと会うという神秘体験をされ(17:19)、滅びの日には山に逃げよと弟子たちに言われています(24:16)。山は神の守りの中にある、安全な場所です。「九十九匹を山に残して」とは、彼らを教会と言う安全な場所に残して、迷い出た羊を探しに行くことを意味しています。ですから、「九十九匹を犠牲にして」、あるいは「九十九匹を危険な場所に放置して」という意味ではないのです。九十九匹は既に神の保護下にある、だから迷い出た一匹を見捨てるな、その一匹をどこまでも探しに行けといわれています。そしてその一匹を見出したなら「迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶ」。何故なら九十九匹は既に安全なのに、一匹は命の危機にさらされていたからです。
・私たちはある時には思います「一人のためにすべての力を注ぐわけには行かない、私たちには守るべき他の群れもいるのだから」、あるいは「これだけの人がいるのだから、一人や二人が脱落しても仕方ないではないか」と。それに対してマタイは答えます「九十九匹は主に委ね、あなたは迷い出た一人を探しに行け」と。小さき者とは、教会にとって指導的な役割を演じるわけではない人、教会財政に対しても小さな貢献しかしない人、あるいは礼拝を永く休んでいる人のことです。私たちの教会にも、老人ホームに入居されている方、精神の病を抱えて入退院を繰り返しておられる方、知的障害を持っている人、転居して音信不通になっている人、言葉や風習の違いで教会になじめない外国人の方がおられます。「去る者は日々に疎し」、しかし、教会ではそうであってはならない。つまづいて、あるいは罪を犯して教会を離れ、苦しんでいる人がいれば、その罪を赦して神の身元に連れ帰るのが神の御心なのだとマタイは教会の人々に呼びかけています。何年経ってもその人に週報を送り続ける、特別な時には手紙を出す、そのような働きを通して、教会が神の国になっていくことを、今日は覚えたいと思います。

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