江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2008年2月3日礼拝説教(ヨハネ6:1-15、命のパンをいただく)

投稿日:2008年2月3日 更新日:

1.人間の判断を超える神の行為

・私たちは今、ヨハネ福音書を読んでいます。先週、ヨハネ5章から、38年間もわずらっていた病人がいやされた記事を読みました。神の憐れみが病のいやしと言う形で示されましたが、いやされた人はイエスを救い主として受け入れることを拒絶しました。その結果、彼は体のいやしはいただいたのに、救いは彼から去りました。彼にとっては、救いよりもいやしが大事だったのです。同じ主題がヨハネ6章の中にもあります。ヨハネ6章は、イエスが5つのパンと2匹の魚で5千人の群集を養われた記事です。
・この出来事は四福音書全てに記事がありますから、弟子たちに強い印象を残した出来事だったのでしょう。ヨハネは次のように始めます「イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである」(6:1-2)。イエスが行われた病のいやしが評判になり、多くの人々がイエスの元に集まりました。その群集を見て、イエスはピリポに問われます「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」(6:5)。ピリポは即座に計算します「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」。1デナリオンは労働者1日分の賃金です。仮に1デナリオンで家族5人が食べられるとしても、200デナリオンで1千人がやっとです。そんなお金はここにはないし、仮にお金があったとしても、この寂しい場所で、たくさんのパンを買える訳がありません。ピリポは正しい。ここで5千人の人に食べさせるのは無理なのです。
・もう一人の弟子アンデレは食べ物を持っている少年を探し出して来ました「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」(6:8-9)。子供が、自分の弁当用に持っていた大麦のパンと干した魚を差し出したのでしょう。しかし、5千人にどうやって食べさせるかという時に、パン5つと魚二匹では何の足しにもなりません。アンデレもまた正しいのです。彼らを養うのは無理です。大群衆が目の前にいる、手元にお金はなく、あるのは五つのパンと二匹の魚だけだ、これではどうしようもない。ピリポもアンデレも人間としての判断を述べています。無理なものは無理だと。
・しかし、イエスは、手元に五つのパンと二匹の魚が与えられたのを見て、「人々を座らせなさい」と言われました。旧約の時代、神は一握りの小麦粉で三年間、エリヤとやもめ一家を養われました(列王記上17:16)。神は必要な時に、必要なものを与えてくださるとの信仰がイエスにありました。イエスは、天を仰いで感謝の祈りを唱えてから、人々にパンを分け与えられ始めました。また、干した魚も同じようにして分け与えられました。5千人の人が食べて満腹し、パンくずが12の籠に一杯になったとヨハネは記します。
・人間のつぶやきを超えて、神の業が為されました。どのようにして、それが可能であったのか、ヨハネは何も言いません。ただ、人々を空腹のまま帰らせるのはかわいそうだという神の憐れみと、父は必要なものは与えてくださるとのイエスの信仰が、この奇跡を可能にしたのです。他の福音書はここで物語が終わりますが、ヨハネ福音書ではここから本当の物語が始まります。71節まで続く「命のパンの物語」がそれです。

2.ビオスではなくゾーエーを

・人々はイエスの力に驚きました。どんどんパンが配られても、また魚が配られても、なくなることがなく、むしろ余るほどでした。人々は興奮してささやきます「五つのパンで5千人を養う力をお持ちの方であれば、私たちの生活の貧しさも解決して下さるに違いない」。ヨハネは言います「人々はイエスのなさったしるしを見て、まさにこの人こそ、世に来られる預言者であると言った。そしてイエスを王にするために連れて行こうとした」(6:14-15)。彼らは自分たちに食を与え、経済を豊かにしてくれる支配者をイエスに求めたのです。
・イエスは群集の心の中にそのような思いが芽生えたことを知って、彼らを避けて対岸のカペナウムに戻られました。ところが群集の一部はイエスを追ってカペナウムまで来て、会堂にイエスがおられるのを見出しました。彼らは言います「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」(6:25)。ここに人々の腹立ちが見えます。「あなたはなぜ、王になってほしいという私たちの希望を聞かれないのか」と群集は詰め寄っているのです。イエスは人々に言われます「あなたがたが私を捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である」(6:27-28)。
・イエスは言われました「あなたがたにパンが必要なことを父はご存知であり、必要な時には与えてくださる。あなた方は私が5つのパンで5千人を養うしるしを見たばかりではないか。それこそ神が与えられたしるしだ。生活に必要なパンは父が与えてくださるから、あなた方は人間として必要な命のパンを求めなさい」。群集は答えます「そのパンをいつも私たちに下さい」(6:34)。イエスは答えられました「私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない」(6:35)。
・「私が命のパンである」。この命は「ゾーエー」という言葉です。ギリシャ語の命には「ビオス」と「ゾーエー」の二つがあります。ビオスとは生物学的命、ゾーエーは人格的な命を指します。「生きる望みを失った」と人が言う時、その人は動物として生きてはいても、人間としては死んでいることです。誰も自分を必要とせず、誰も自分を愛してくれない時、人は人格としての生を維持できず、自殺します。人間だけが自殺する存在なのです。「ゾーエー(人間としての命)がなくなれば、ビオス(動物としての命)も消える。地上のパンは肉の命を支えるだろうが、肉の命だけでは人は生きることは出来ない、とイエスは言われているのです。
・私たちはここで、群集が求めるものとイエスが与えようとしているものの間にすれ違いがあることに気づきます。群衆はビオスとしての命を養うために地上のパンを求めました。イエスは地上のパンは父なる神が下さるから、もっと大事なもの、ゾーエーとしての命を求めよといわれました。群集は納得していないし、私たちも納得していません。地上のパンは神が与えてくださる、神が私たちを養ってくださることを本気で信じていないからです。だから、地上の命を支えるためのパンやお金を獲得するために私たちは忙しく活動します。しかし、地上のパンだけを追求して生きる時、本当に必要なもの、命のパンを私たちは失います。

3.命のパンをいただく

・今日の招詞にヨハネ6:53−55を選びました。次のような言葉です。「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる。私の肉はまことの食べ物、私の血はまことの飲み物だからである」(6:53-55)。
・「十字架を通して示される神の愛の中にこそ命がある」とイエスは言われましたが、多くの人々が、この言葉を聞いてつぶやき始めます「実にひどい話だ。誰がこんな話を聞いていられようか」(6:60)。ユダヤ人にとって血は命であり、それゆえ食べることを禁じられています(レビ記17:14)。イエスの肉を食べ、血を飲むことにおいて、本当の命が与えられるとの教えは、ユダヤ人の理解を超えることでした。それは今日、「イエスの十字架によって罪が赦され、救いが来た」と教える教会の宣教が、人々の理解を超えるのと同じです。群集どころか、「弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」(6:66)とヨハネは記します。イエスは残った弟子たちにも聞きます「あなたがたも離れていきたいか」(6:67)。
・ヨハネ6章はヨハネ教会の現実を反映しています。ヨハネの時代、信徒は社会から異端として迫害され、追放されると言う現実があり、教会から離れる人々が増えていました。「あなたがたも離れていきたいか」とのイエスの言葉には、ヨハネ教会の悲しみがこめられています。同じ現実は現在もあります。信仰者になっても苦しみや悲しみがなくなるわけではなく、信仰しても病気が治らないこともあります。信仰ゆえに家族や会社から孤立する時もあります。私たちは、この苦しみを取り除いてくださいと祈りますが、祈りが聞かれない時もあります。願いが適わない時、私たちはつぶやき始めます「主の手が短くて救えないのではないか。主の耳が鈍くて聞こえないのではないか」(イザヤ59:1)。私たちはイエスが望むものを与え続ける限り従いますが、イエスの与えられるものが私たちの欲するものと違い始めると、イエスから離れ始めます。
・「あなたがたも離れていきたいか」(6:67)との言葉に、ペテロが答えます「主よ、私たちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています」。このペテロはやがてイエスを三度否定し、十字架から逃げ出しました。しかし、そのペテロが復活のイエスに出会って変えられ、戻ってきます。弟子たちが再び集められた後、最初に始めたのが主の晩餐式です。パンとぶどう酒を共にいただくことを通して、主が今ここにおられることを確認していったのです。
・マザーテレサの活動を支えた力が、毎朝もたれるミサであったことは良く知られています。マザーは言います。「私たちの力はキリストと聖体の祕跡から来ます。キリストなしには何もできません。そのために毎日をミサで始めるのです。あそこ、あの祭壇のところで、苦しんでいる貧しい人に会うのです。苦しみがもっと大きな愛への道となり、もっと大きな発奮への道となることも、キリストのうちに結ばれて見えてくることなのです」。
・私たちはどこで神に出会うのでしょうか。イエス・キリストの十字架でです。そこはペテロが逃げ、ユダが裏切った場所、私たちの罪が明らかにされる場所です。十字架の下で自分の罪に泣くことを通して、復活のイエスに出会い、罪の赦しをいただくのです。今日、私たちは、主の晩餐を共にいただきます。信仰とは何かを信じるだけではなく、信頼して踏み出すことです。主イエスが十字架で自分を与えられたように、私たちも自分を他の人に与えようと決意する時がこの晩餐式なのです。それが命のパンをいただくという行為なのです。

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