江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2008年11月23日説教(マタイ5:43~48、敵を愛しなさい)

投稿日:2008年11月23日 更新日:

1.愛することで敵は敵でなくなる

・毎月第四主日は、私(水口仁平)が、山上の説教から主イエス・キリストの御言葉を語らせていただいております。本日はその第八回目で、「敵を愛しなさい」です。一体、敵とはどういうものでしょうか。日本のことわざでは「男が敷居をまたげば七人の敵がいる」といいますが、一般に敵とは、「自分に害をなす者」、「戦いの相手」等を指し、競争相手として油断のならない者、自分の存在を脅かす者という意味に使われています。その敵に対し、イエスは愛しなさいといわれます。「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、私は言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(5:43-44)。
・「あなたがたも聞いているとおり」、昔からの言い伝えでとの意味です。レビ記19章18節には次のようにあります「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない、自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」。これが「隣人を愛し、敵を憎め」という教えのもとになっているのです。しかしこの言葉には、「敵を憎め」という教えはありません。「隣人を自分自身のように愛しなさい」とは言われているけれども、「敵を憎め」とは言われていません。「敵を憎め」という教えは、この聖書の言葉をもとにして、ユダヤ人たちの間で生まれ、口伝えで伝えられてきたものです。
・「隣人を愛せ」という教えに、どうして「敵を憎め」という言葉が付け加えられたのでしょうか。「愛せ」と「憎め」では正反対の教えですが、実はこの二つは表裏一体の関係にあります。誰かを愛する時、私たちは別の誰かを憎むのです。「隣人を愛しなさい」の「隣人」を、「自分の仲間、同胞、思いを同じくする者」と限定するならば、それ以外の仲間でない人、他国人、違った思いを持つ人は「敵」となるのであって、「隣人を愛せ」とは、「隣人のみを愛せ」ということになり、必然的に「敵を憎め」ということになるのです。私たちは、「隣人」の範囲を限定してしまうことによって、「隣人は愛するが敵は憎む」という生き方をしているのです。イエスはそのような私たちに対して、「しかし、私は言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われたのです。
・「隣人を自分自身のように愛しなさい」と言われた神は、隣人の範囲を限定して、その中でだけ愛し、その外の人は敵として憎むように、などとは言っておられません。ところが人間は神の御心をねじ曲げて、余計な付け加えをしてしまうのです。だからイエスは、律法の教えている本当の意味、「隣人を自分自身のように愛しなさい」とは、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ」と言うことであることを教えられます。敵、自分を迫害する者、苦しめる者、いじめる者、その相手を愛するというのでなければ、隣人を本当に愛することはできないのです。私がクリスチャンになってまもなくの頃、職場の人から「キリスト教は実におかしなことを言う。敵を愛したら、それはもう敵ではなくなるではないか」といわれました。まさにその通りで、私たちが敵を愛し、敵に愛の心を届けたら、その時既に相手は敵でなくなるのです。
・44節には「迫害する者のために祈りなさい」と書いてあります。「呪いなさい」ではなく「祈りなさい」です。これはもう敵に対する態度ではありません。欽定訳英語聖書には44節がもう少し細かく書かれています「But I say to you, love your enemies, bless those who curse you, do good to those who hate you, and pray for those who spitefully use you and persecute you」。直訳すると次のようになります「私は言う。敵を愛しなさい。あなたを呪う者を祝福しなさい。あなたを憎む者に親切にしなさい。あなたを虐げる者、あなたを迫害する者のために祈りなさい」。呪いに対して祝福を、憎しみに対して親切を、迫害に対して祈りを、これはもはや敵に対する態度ではありません。愛することで敵は敵でなくなるのです。

2.天の父の子となるために

・何故敵を愛するのか、「あなたがたの天の父の子となるためである」(5:45)と言われます。敵を愛することは神の御心であり、それによって私たちが神の子となるためです。主の祈りで私たちは「天にまします我らの父よ」と祈ります。私たちは既に天の父の子とされています。そして天の父は「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」方です。父なる神は善人も悪人も等しく生きることを求めておられるのです。もしかしたら私たちはこの言葉に戸惑いを感じるかもしれません。「神は正義の味方だ」というのは、私たちの共通の認識になっています。裏返して言えば、罪を犯す者、悪を行う者は神の敵であるということです。ところがイエスはここで、「そんなことはない」と言っておられるのです。神は、悪人、正しくない者をも敵として憎むのではなくて、愛し、恵みを与えて下さる方なのです。だから、その天の父なる神の子であるあなたがたも、自分の敵を愛しなさいと言われるのです。
・私たちは「神は悪人をも愛して下さる」ということを、納得できるでしょうか。納得できないはずです。なぜなら自分を善人の立場におくからです。「敵をすらも愛し、迫害する者のためにすらも祈るほどの善い人間になろう。それほどに善い人間になることによって、神に愛される者になることができる」と思っています。しかしイエスは違うと言われます「あなたは罪人だ。そのあなたのために私は今から十字架につく。私の血であなたの罪が贖われ、あなたは罪人のまま神の子となるのだ」と。「十字架での贖罪」、理性では理解できない事柄です。しかし、この言葉が理解できない限り、敵を愛することは出来ません。

3.敵を愛した人々

・今日の招詞にルカ23:34を選びました。次のような言葉です「そのとき、イエスは言われた『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです』。人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った」。イエスは「敵を愛しなさい」と言われました。ただ言われただけでなく、それを実行されました。招詞の言葉はイエスが十字架上で自分を殺そうとする者の赦しを祈られた箇所です。まさにイエスは「呪いに対して祝福を、憎しみに対して親切を、迫害に対して祈りを」持って、地上での生を終えられたのです。そしてイエスのこの祈りが、多くの人の人生を変えました。その一人が淵田美津雄と言う人です。
・淵田氏は真珠湾攻撃の飛行隊総指揮官として「全軍突撃せよ」との号令を下した海軍大佐でした。当時の淵田氏は米国に対する憎しみと敵愾心の塊でした。「われ奇襲に成功せり(トラ、トラ、トラ)」と報じた時、さっそうとしていました。しかし、4年間の惨劇の後、日本は敗戦を迎えます。敗戦後、彼は職業軍人として非難され、友は皆去って行きました。彼は自伝に書きます「私は戦犯裁判の証人として、横浜の占領軍軍事法廷に喚問されていました。戦犯裁判は、国際正義の名において人道に反した者を裁くのだと言っていましたが、私はこれを勝者が敗者に対して行う、法に名を借りた復讐であると見て、反感と憎悪で胸を燃やしていたのです」。
・するとそこへアメリカに捕らわれていた日本軍捕虜が送還されて、浦賀に帰って来ました。自伝は続きます「私は浦賀に出向いて、帰りついた日本軍捕虜からアメリカ側の取り扱いぶりを聞きただしました。ところが、いろいろと話を聞き回っているうちに、あるキャンプにいた捕虜たちから次のような話を聞き、心を打たれました。この人々が捕らわれていたキャンプに、いつのころからか、一人のアメリカ人のお嬢さんが現れるようになって、いろいろと日本軍捕虜に親切を尽くしてくれるのです。病人への看護から始まり、二週間たち、三週間と経過しても、お嬢さんの行為には一点の邪意も認められなかったのです。やがて全員はしだいに心を打たれて、「敵である私たち日本兵にどうしてそんなに親切にしてくださるのですか」と尋ねました。お嬢さんは、初め返事をしぶっていましたが、皆があまり問いつめるので、やがて返事をなさいました。返事は意外なものでした「私の両親が日本軍によって殺されましたから」と言われるのです。
・「詳しく聞かせてください」と皆は膝を乗り出しました。話はこうでした。お嬢さんの両親は宣教師で、フィリピンにいました。日本がフィリピンを占領したので、難を避けて山中に隠れていました。やがて三年、アメリカ軍の逆上陸となって、日本軍は山中に追い込まれました。そしてある日、その隠れ家が発見されて、日本軍は、この両親をスパイだと言って斬るというのです。「私たちはスパイではない。だがどうしても斬るというのなら仕方がない。せめて死ぬ支度をしたいから三十分の猶予をください」。そして与えられた三十分に、聖書を読み、神に祈って斬につきました。事の次第はアメリカのお嬢さんのもとに伝えられました。お嬢さんは悲しみと憤りのため、眼は涙でいっぱいであったに違いありません。父や母がなぜ斬られなければならなかったのか。無法にして呪わしい日本軍、憎しみと怒りに胸は張り裂ける思いであったでしょう。だが静かな夜がお嬢さんを訪れたとき、両親が殺される前の三十分、その祈りは何であったかをお嬢さんは思いました。するとお嬢さんの気持ちは憎悪から愛へ転向したというのです。私はその美しい話を聞きましたが、まだよく分かっていませんでした」。
・自伝は続きます「しばらくの月日が流れました。ある日、私は所用があって渋谷駅に下車しました。駅前に出ると、一人のアメリカ人が道行く人々にパンフレットを配っていました。私も行きずりに渡されたので、眺めて見ると「私は日本の捕虜でした」と題してあり、一人のアメリカ人軍曹の写真が掲載されてあったのです。それはかつて東京爆撃隊の爆撃手であった、J・デシーザーの入信手記でした。私の心は動きました。特にデシーザーが捕らわれて獄中で虐待されている時に、彼はなぜ人間同士がこうも憎み合わなければならないのかと考え、「人類相互のこうした憎悪を真の兄弟愛に変えるキリストの教えというものについて、かつて聞いたことに心が向き、聖書を調べてみようという不思議な欲求にとらわれた」と言っている言葉が、同じ心境にある私の心を捕らえたのでした。
・ひとつ、私も聖書を読んでみようと思い立ち、早速、聖書を買い求めて、あちらこちらとさぐり読みをしているうちに、ルカ福音書23章34節、「父よ、彼らを赦したまえ、その為す所を知らざればなり」のところで、私はハッと、あのアメリカのお嬢さんの話が頭にひらめいたのでした。これは十字架上からキリストが、自分に槍をつけようとする兵士たちのために、天の父なる神さまにささげたとりなしの祈りです。敵を赦しうる愛、今こそ私はお嬢さんの話がはっきりと分かりました。斬られる前の、お父さんやお母さんの祈りに思い至ったのです。「神さま、いま日本軍隊の人々が私たちの首をはねようとするのですが、どうか、彼らを赦してあげてください。この人たちが悪いのではありません。地上に憎しみ争いが絶えないで、戦争が起こるから、このようなこともついてくるのです」。私は目頭がジーンと熱くなるのを覚え、大粒の涙がポロポロと頬を伝いました。私はゴルゴダの十字架を仰ぎ見て、まっすぐにキリストに向き直りました。その日、私はイエス・キリストを救い主として受け入れたのです」(「真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝」、講談社 2007/11/30)。淵田氏はやがて牧師になり、アメリカで伝道者としての生涯を送りました。私はこの淵田氏の証しを直接聞いたことがあります。イエスの教えと実践が宣教師夫妻を揺り動かしてフィリッピンに行かせ、宣教師夫妻の祈りがその娘の心を変え、娘の行為が淵田美津雄氏の人生を変えました。
・ゲルト・タイセンという聖書学者は「イエス運動の社会学」という本を書き、イエスが来られて何が変わったのかを分析しました。彼は次のように書きます「イエスは、愛と和解のヴィジョンを説かれた。少数の人がこのヴィジョンを受け入れ、イエスのために死んでいった。その後も、このヴィジョンは、繰り返し、繰り返し、燃え上がった。いく人かの『キリストにある愚者』が、このヴィジョンに従って生きた」。キリストが来られることによってキリストにある愚者が起こされた、それが最大の変化だとタイセンは言います。キリストにある愚者とは、「世の中が悪い、社会が悪いと不平を言うのではなく、自分には何が出来るのか、どうすれば、キリストが来られた恵みに応えることが出来るのか」を考える人たちのことです。聖書の言葉はこの「キリストにある愚者」を生み出していくのです。そして私たちも「キリストにある愚者」として、今日この教会に招かれました。

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