1.偶像に供えられた肉を食べても良いのか
・復活節第四主日を迎えています。復活節の中で、私たちはルカ福音書を読んできました。ルカは弟子たちに現れたキリストが「あなたがたは私の復活の証人となれ」と命じられて、昇天されて行ったと伝えます。弟子たちはその命を受けて宣教を始めました。弟子たちの最初の宣教の言葉は「神はこのイエスを復活させられたのです。私たちは皆、そのことの証人です」(使徒言行録2:32)というものでした。証人となっていく弟子たちの業が始まったのです。そしてエルサレムに教会が形成され、福音はやがて異邦世界にも広がり、コリントにも教会が立てられていきました。そのコリントで律法の食物規定を守るべきかどうかが問題になりました。今日は、この問題を通して、異教世界の中でキリスト者として生きることの意味を共に考えてみたいと思います。
・ユダヤ人は律法の規定により、豚肉や異教の神殿に捧げられた犠牲の動物の肉等は汚れたものとして食べることを禁じられていました。最初の教会はエルサレムに立てられ、構成員はほとんどユダヤ人でしたので、この食物規定は、特に大きな問題にはなりませんでした。ところが、教会がギリシャ・ローマ世界に広がるにつれて、神殿に捧げられた肉を食べてもよいのかどうかが、教会を二分する問題になっていきます。何故ならば、ローマ帝国内の諸都市で、市場に出回っていた肉のほとんどは異教の神殿に捧げられた動物の肉であり、その肉を食べることは異教の礼拝に参加することになるのではないかとの疑問が生じたからです。
・同じ問題を、私たち日本の教会も抱えています。日本は人口の99%が非クリスチャンで、かつ神社や仏閣が方々にある、多神教の世界です。その中で、聖書の信仰を守ろうとする時、いろいろな問題が生じてきます。教会でバプテスマを受けた人は、親から継承した位牌や仏壇をどうすればよいのか、葬儀に参加する時に焼香や合掌という儀式にどう対応するのか、日曜日に子どもたちの運動会や授業参観があれば礼拝を休んでもよいのか等々の問題を抱えこみます。私たちがこの日本でクリスチャンになる、キリスト者として生活するために、社会とどのように折り合いをつけていけばよいのでしょうか。
・前述のように、ユダヤ教社会では、偶像に捧げられた肉を食べることは罪とされていました。エルサレム使徒会議でもこの問題が議論され、神殿に捧げられた肉は異邦人も食べてはいけないと決められました(使徒言行録15:28-29)。またヨハネ黙示録では「偶像に捧げられた肉を食べる」ことは、「みだらな行為」と同じように、恥ずべき行為であるとされています(ヨハネ黙示録2:14,20)。「偶像に捧げられた肉を食べる」ことは、偶像礼拝であるとされたのです。ここで問題がおきます。コリントには多くのギリシャやローマの神々を祭った神殿があり、人々は結婚式や誕生日のお祝い等を神殿で行い、付属の飲食施設で酒食が振舞われるのが日常でした。上流階級の人々は、そのような食事に招待されることがしばしばありました。そのような時、キリスト者は信仰のゆえに招待を断るべきか、しかし断れば、社会生活から締め出されてしまうという問題に直面しました。
・教会の中の裕福な人たちは、問題を解決するために、自由を主張しました。彼らは言います「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいない」、つまり偶像などないのだから、「神殿にささげられた肉を食べてもなんら汚れない」(〓コリント8:4)と。パウロも「その通り、食べてもかまわない」とコリント教会に回答します。しかし同時に、「食べることを罪だと考える人がいることをどう思うか」と問いかけます。「ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです」(同8:7)。ここにおいて、問題は、「偶像に捧げられた肉を食べることが良いのかどうか」という教理上の問題から、「それを罪だと思う人にどう配慮するのか」という、牧会上の問題になっていきます。パウロは言います「私たちを神のもとに導くのは、食物ではありません。・・・あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを、だれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか」(8:8-10)。
2.信仰の本質にかかわる問題では譲歩しない
・当時のコリント教会の構成員のほとんどは、異教礼拝からの改宗者でした。彼らは神殿での飲食を通して、また偶像礼拝に戻ってしまうかもしれない。福音から離れれば死ぬ。パウロは言います「あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。あなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです」(8:11-12)。「キリストがあなたのために死んでくださったのに、あなたは信仰の弱い人々のために、自分の食事さえも変えるのはいやだというのですか」とパウロは問いかけます。「食べることが正しいのかではなく、食べることによってつまずく人がいてもなお食べるのか」が議論されています。答えは明らかです。パウロは言います「食物のことが私の兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、私は今後決して肉を口にしません」(8:13)。
・偶像に捧げられた肉を食べることは、信仰の本質に関わる問題ではありません。偶像の神などいないからです。しかし、食べることによって、つまずく人がいるのに食べるのは、信仰の本質に関わる問題です。他者の救いを閉ざす行為だからです。日本のキリシタン禁制時代に用いられた踏み絵を踏むかどうかも、同じ問題を抱えています。踏み絵そのものは板に聖母子を描いたメダルを組み込んだもので、それ自体何の意味もありません。しかし、踏み絵を踏んだ人々の信仰は崩れました。それは人の前で、最も大事に思うものを踏みつけにする、つまり自己の信仰告白を偽りと表明する行為だったからです。踏み絵を踏むかどうかは、信仰の本質に関わる問題だったのです。私たちが行為する時に、それが信仰の本質に関わる問題かどうかを判別する知恵が求められます。
3.愛は正義を超える
・今日の招詞に〓コリント10:23-24を選びました。次のような言葉です「すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが私たちを造り上げるわけではない。だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい」。
・パウロは偶像に捧げられた肉を食べることの議論を9章、10章でも、続けます。大事な問題だからです。パウロの態度ははっきりしています「市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい」(10:25)。何でも食べてもよいが、誰かが「これは偶像に供えられた肉だ」と言う場合は、その人の良心のために、食べることを止めなさいと勧めます。その人がつまずくことを避けるためです。そして招詞の言葉が来ます「すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが私たちを造り上げるわけではない」。人のつまずきとなる行為は止めなさい。他者のために自分の自由を放棄することこそが、本当の自由なのだと彼は言っているのです。
・ここにおいて、キリスト者の生活の基本が何かが明らかになってきます。「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」(8:1)。知識ではなく愛が、キリスト者の生活の指針になるのです。不倫が何故いけないか、それは人を傷つけるからです。不倫は当事者の満足のために、お互いの配偶者を傷つける行為です。人は幸福を他者の不幸の上に築いてはいけない、それは道徳の問題ではなく、信仰の問題です。また、日本の教会には禁酒禁煙の伝統がありますが、これは信仰の問題ではなく、個人の嗜好の問題です。飲んでもよい、しかし、お酒を飲むことにつまずく人がいれば飲まないという姿勢が必要です。ですから、教会の会合においては、アルコールは出しません。位牌や仏壇はどうするのか、葬儀における焼香をどうするのかも、自分の正しさではなく、人を傷つけることのない方法を選ぶべきです。日曜日に子どもたちの運動会や授業参観がある時、礼拝を休むこともやむをえないと思います。子どもたちが傷つくことを避けるためです。その代わり、夜自宅で家庭礼拝を持つことで、主日礼拝を守ればよいと思います。
・私たちの信仰は、私たちの生活を規定します。生活が信仰をいただく前と変わらないのであれば、私たちには信仰はないと思うべきです。行為が人を救うわけではありません。しかし、信仰は行為を導くのです。キリストが私たちのために死んでくださったのだから、私たちもキリストのために死ぬ、具体的には他者との愛の中に生きます。それは抽象論ではありません。具体的な生活の中で実践されるべきことです。パウロは言います「あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」(10:31)。信仰は飲み食いをも規定するのです。キリスト者は全ての事に自由です。何をしても良い。しかし、その自由はキリストの十字架の犠牲を通して与えられました。そのキリストは他者のためにも死なれた。ですから、他者への愛が自由を制限します。「知識は人を誇らせるが、愛は人を形成する」、そのことを強く覚えたいと願います。