1.神は人を他者と向き合うものとして造られた
・今日、私たちは、教会創立記念礼拝を持ちます。私たちは第一回目の礼拝を、1969年11月6日に篠崎文化会館で持ちました。その後米国から土地・建物の購入資金が献金され、現在の地に教会堂を建設し、1973年11月3日に教会組織をしました。11月は、私たちの教会にとって記念の月です。そして、今年は、教会の伝道開始から満38年、教会組織から34年の時になります。38年間の歩みは決して順調な歩みではありませんでした。教会の記録を見ますと、牧師交代の度に教会員が散らされていった歴史を読み取ることが出来ます。教会員が散らされたということは、教会の中に争いがあった、兄弟姉妹の関係が破れたことを意味します。私たちは罪を犯し、裁かれたのです。しかし、主は私たちが存続することを許され、新しい希望を持つことも許されました。だから、今日、伝道開始38年を祝うことができます。今日、私たちは教会の歴史の意味を、創世記から学んでいきます。何故ならば、創世記は罪を犯して砕かれ、涙を流して悔改めた、イスラエルの民の苦闘から生まれた書だからです。
・先週、私たちは創世記1章から、「神は人間を祝福して造られた」ことを学びました。創世記は2章4節から別の視点での人間の創造を描きます。今日与えられた聖書箇所は創世記3章ですが、3章は2章と一体となった物語ですので、まず2章から見ていきます。2章7節で創世記は語ります「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」。神は人を土の塵で造られました。人が土から造られた事は、人は神の前では塵のような存在であることを示しています。人は自分の命を左右することも出来ないし、死ねば土に返っていく存在に過ぎません。その無価値な存在に、神は生命の息を吹き込まれた。神の息が吹き込まれて、人は生きる者になりました。
・そのような人に、神は園を耕し、管理する業を委ねられました。この園がエデンの園=パラダイスと呼ばれます。神は人のために植物や動物を創造されましたが、何かが足らない。18節「人が独りでいるのは良くない。彼に合う、助ける者を造ろう」。彼に合う、彼と向き合うと言う意味です。人と向き合う者、共に生きる存在を神は造ろうとされます。そして最初の他者として女が造られます。21-22節「人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた」。共に生きる者として女が創造されました。男と女は本能的に相手を求め合い、その結果として二人は一つになり、それが子という命を生み出していきます。男女は一つの身体から創られた故に、お互いを求め合うとの理解がここにあります。男が先に造られたから女より偉いと言う主張は、後代のものであり、創世記にはありません。大事なことは、神は人を他者と向き合うものとして、共に生きるものとして造られたことです。
2.他者と共に生きることが出来ない罪
・人は女を与えられた時、「これこそ私の骨の骨、肉の肉」と呼びます。女が造られる事によって、人は一人ではなく、共に生きる存在となります。しかし、この関係が罪を犯すことによって変化していきます。2章9節では「園の中央には命の木と善悪を知る知識の木が植えられた」ことが記され、17節では「善悪の知識の木からは決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と命じられます。しかし、人は、禁じられたその実を食べてしまいます。そのことの責任追及が3章の主題です。
・人は妻が与えられた時、「私の骨の骨、肉の肉」と呼び、これを愛しました。しかし、人が禁断の木の実を食べ、「食べるなと命じた木から食べたのか」(3:11)と責任を問われるようになると、彼は「あなたが私と共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」(3:12)と答えます。「あなたが与えてくれた女が食べよと言ったから食べたのです。悪いのは私ではなく、あの女です」と彼は責任を妻に転嫁します。彼の言葉の中には、神に対する非難もあります。「あなたが妻を与えなければこのような罪を犯さなかった。悪いのはあなたではないか」。ここにおいて、人は他者との関係が破れただけではなく、神との関係も破れたのです。女も言います「蛇がだましたので、食べました」(3:13)。「私が悪いのではありません。あなたが蛇さえ創らなければ罪を犯さなかったのです」。「私が悪いのではない。神様、あなたが悪いのだ」、被造物である人間が創造主である神を非難しています。
・ここにおいて、人間の罪とは何かが明らかにされています。人間の罪は、神が「食べてはいけない」と言われたものを食べたことにあるのではありません。過ちを犯してもそれを自己の責任として受け止めることができず、その責任を他者に、最後には神のせいにしてまで逃れようとする。そこに私たちの罪の原点があります。罪とは過ちを犯すことではありません。その過ちを認め、謝罪することができないところにあります。ですから、神は人を楽園から追放することを決められます。楽園に住むにはあまりにも幼く、外に出て成長する必要があったからです。
・楽園追放は罪に対する呪いではありません。「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた」(3:21)。神は着物を人間のために用意し、彼らを保護した上で追放されたのです。死ぬべき人を生かそうと決意されたのです。人は楽園を追放され、額に汗して地を耕す者になります。地を耕して初めて、太陽と雨がなければ収穫はなく、それは人の力では支配出来ないもの、ただ神の恵みにより与えられる事を知りました。楽園の外に出ることを通して、初めて人は自分の限界を知り、神を求める者に変えられていったのです。女も同じです。女は苦しんで子を産むことを通して、死ぬべき存在であるのに、生命の継承を許して下さる神の恵みを知りました。労働は苦しみであり、出産もまた苦しみでありますが、その苦しみを通して、本当の喜びを知る道を、神は人に与えて下さったのです。人は楽園追放を通して、初めて神の愛を知ります。ですから、失楽園は決して呪いではなく、祝福なのです。人は過ちを通して成長していく、ここから人間の歴史が始まったと創世記は語っています。
3.キリストを通して楽園へ
・私たちはこの創世記の物語を古代バビロニアの創造神話や日本の古事記のような神話として聴くのでしょうか。神話であれば、それは現在の私たちの生き方とは関わりがない、単なる物語です。そうではなく、私たちは創世記を、古代イスラエル人の信仰告白として聴きます。人は何故、他者を愛することが出来ないのか。人は何故、他者と向き合って生きることができないのか。私たちは創世記を通して、自分の本当の姿=罪を知り、その罪からの解放を求めるようになるのです。
・今日の招詞にルカ23:42-43を選びました。次のような言葉です「そして『イエスよ、あなたの御国においでになるときには、私を思い出してください』と言った。するとイエスは『はっきり言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる』と言われた」。
・イエスは二人の犯罪人と共に十字架につけられました。罪人の一人は自分の罪を悔い、「このような私でも天国に行くことは出来るでしょうか」とイエスに懇願します。それに対してイエスが言われた言葉が「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言う言葉です。この楽園=ギリシャ語パラデイソスはヘブル語の園=パルデスから来ます。エデンの園のことです。イエスは天の御国を楽園として語られています。
・イエスは最後の晩餐の席上でも弟子たちに言われています「私の父の家には住む所がたくさんある。あなたがたのために場所を用意するために私は天に帰る」(ヨハネ14:2)。最初の人アダムは人を愛することが出来なかった故に楽園を追われました。私たちもアダムの末として人を愛することが出来ません。故に天の楽園に戻ることは出来ない存在です。その私たちのためにイエスが十字架で死なれ、十字架を通して、私たちが天に戻る道を与えられました。「あなたは今日、私と共に楽園にいる」、この約束の言葉を与えられ、私たちは新しく生まれました。だからイエスは言われます「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)。
・互いに愛し合う、これは信仰なしにはできないことです。夫婦であれ、親子であれ、友人であれ、私たちは自分のためであれば、平気で他者を切り捨てる存在なのです。その自分の本当の姿を知れ、あなたも十字架にかけられるべき罪人であることを知れ、知る時に悔改めが生まれ、救いを求めるうめきが生まれる。その時に、あなたの罪は赦され、あなたも他者を愛することができる者となると聖書は私たちに語ります。
・旧約聖書はイスラエルの民の歴史を描いた書です。その旧約聖書が私たちに語ることは、人の歴史は争いの歴史であると言うことです。創世記3章が語るのは男女の争い、創世記4章が語るのは兄弟の争い、出エジプト記が語るのは民族の争いです。人は他者を愛することが出来ない、だから争いが起き、苦しみが始まる。そこに私たちの原罪があります。その原罪を十字架につけない限り、平安はありません。だから私たちはキリストを仰ぐのです。キリストの十字架の死によって、私たちはあがなわれ、楽園=神の国の平安に入るのです。私たちの教会では、牧師交代の度に教会員が散らされていった歴史があります。他者と愛し合う関係に入れなかった、何度も兄弟姉妹の関係が破れたのです。私たちは罪を犯し、裁かれました。しかし、アダムとエバの背きを赦して下さった神は、私たちの教会が存続することを赦して下さいました。この赦しの上に、私たちは新しい教会を建設していくのです。