1.割礼と救い
・私たちは今、連続してパウロ書簡を読んでいます。パウロは多くの教会に手紙を書いていますが、それは各教会が問題を抱えていたからです。ローマ教会では肉を食べても良いかが教会を二分する問題になっていました。当時、市場に出回っていた肉の多くは異教の神殿に捧げられた犠牲動物の肉でしたので、肉を食べるかどうかが、偶像礼拝に関る、信仰の問題になっていたのです。コリント教会では、派閥の争いがありました。「私はパウロに、私はアポロに、私はペテロに」と人々が分派争いをしていたのです。このような教会の争いは、好ましいものではありません。争いによって多くの人々が教会に失望して離れていくからです。他方、争いのもたらす祝福もあります。教会に争いがあったゆえにパウロの手紙が書かれ、それが新約聖書として定められ、後世の私たちが教会とは何かを考える時の神の知恵をいただくからです。神は人間の醜い争いさえ、良き物に変えて下さるのです。
・今日、私たちはガラテヤ書6:11-18を読みます。ガラテヤ教会への手紙の締め括りの箇所です。この6章を読む前に、ガラテヤ教会で起こっていた問題を概観します。ガラテヤ教会はパウロの伝道によって設立されましたが、パウロが去った後、エルサレム教会からの巡回伝道者たちが来て、「割礼を受けなければ完全なキリスト者にはなれない」と人々に教え、教会の一部の人たちは勧めに従って割礼を受けました。その知らせを聞いてパウロはガラテヤ教会に手紙を書きます。パウロは最初に、「割礼なしに救われないならキリストは何のために死なれたのか」と人々に迫ります(ガラテヤ2:21)。彼は続けます「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか」(3:1-3)。更にパウロは極端なことも言います「割礼を受ければ、あなたがたはキリストと無縁の者になるのだ」(5: 2)。
・パウロはガラテヤの人々に割礼を受けさせようとしている伝道者たちを激しく非難します「あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい」(5:12)。割礼は男性性器の包皮を切り取る行為で、元来は砂漠の不衛生の中で、体を清潔に保つために与えられました。神はユダヤ人の父祖アブラハムに「選びのしるしとして割礼を受けなさい」と言われました。砂漠の中で生き残るためです。それ以降、ユダヤ人の男子は生まれてから8日目に割礼を受けるようになりました。パウロの反対者たちはそれをガラテヤの異邦人に強制しようとしています。パウロはそんなに肉のしるしがほしければ、去勢してしまえばよいとさえ言っています。この割礼をめぐる議論の中で,ガラテヤ6章が語られています。
2.何故割礼にこだわるのか
・6章11節でパウロは「ここからは自分の手で大きな字で書きます」と言います。彼はここまで口述筆記で手紙を書いていたのでしょう。しかし、ここからは自分の字で書く、何故ならば非常に大切なことを今から書くからだと彼は言っています。そして言います「肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています」(6:12)。
・ここでパウロは二つの批判をしています。一つは、割礼を強制しようとしている人々は、他の人から良く思われようとしているのだとの非難です。彼らは「あなた方の救いのためではなく、自分たちの改宗運動の成功という功績を求めてそうしているのだ」と。現代の教会においても、伝道の実績をバプテスマ者の数で計る傾向があります。その時、まだバプテスマを受ける準備の出来ていない人に無理にバプテスマを受けさせるようになります。功績をあせるからです。そのようなバプテスマは、神の業ではなく人の業に、教会の業ではなくビジネスになっていきます。パウロは反対者たちの運動の背後に、功績をあせる気持ちを見ています。
・第二に彼らは異邦人改宗者に割礼を強制することによって、キリストの十字架ゆえに受ける迫害を回避しようとしています。当時の教会にとってユダヤ教からの迫害は激しいものでした。キリスト者は背教者として、ユダヤ人社会から村八分にされていました。そこでユダヤ教徒が最も大切にする割礼を受けさせることによって、迫害から逃れようとしていたのです。割礼を受けさせることによって、ユダヤ教の中に留まろうとしたのです。
・もちろん、エルサレム教会の伝道者にも言い分はありました。「生まれたばかりの教会は厳しい環境の中にあり、その中でどのようにしてこの教会を守り、広めていくかを考えると、無駄な軋轢は避けたほうが良い」と彼らは思いました。また、割礼は聖書に定めてある契約のしるしです。彼らは言ったことでしょう「神はユダヤ人を選びの民とされた。そしてしるしとして割礼を受けよと命じられた。私たちは良きユダヤ人であってこそ、初めて良きキリスト者になれるのではないか。割礼を受けることが何故反キリストになるのか」。
・同じ事を戦時中の日本の教会も言いました「良き日本人であることが良きキリスト者の基本だ。日本人として天皇陛下を敬うのは当然であり、国が東亜共栄圏の理想を推し進めているのであれば、教会も協力すべきだ」。戦時中の教会は、敵性宗教を信じる非国民として社会から排斥されていました。戦前の日本で異端視されていたのは、アカ(共産党)とヤソ(キリスト教)でした。教会は迫害を避けるために、戦争に積極的に関与し、韓国や中国の反日キリスト者を説得するために宣教師の派遣も行いました。厳しい環境の中で教会を守りたいという行為が、戦争協力になり、「殺すな」という戒めを守ることの出来ない教会になって行きました。同じことは現在のアメリカでも起きています。多くの教会は言います「国がテロとの戦いを推し進めている以上、教会も協力すべきだ」。アメリカの教会の多くはイラク戦争やアフガン戦争の勝利を祈っています。何がいけないのでしょうか。彼らはキリスト者である前にユダヤ人である、日本人である、アメリカ人であると言っています。キリスト者であることより、自分の民族を前に出しているのです。そこに彼らの誤りがあります。何故なら、私たちの国籍は天の国だからです。
・だからパウロは言います「私たちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」(6:14)。パウロは十字架を復活の光の中で見ています。キリストは弱さのゆえに十字架にかけられましたが、神はこのキリストを復活させて下さいました。十字架の苦難があるゆえに復活の栄光がある、受けるべき苦難を受けることによって、神は私たちに栄光を下さるのです。目先の苦難、たとえばユダヤ人からの迫害や同胞からの疎外を避けようとして、するべきでないことをした時、それは神の福音とは異なる福音、人間の教えになってしまいます。そして人間の教えには命を救う力はありません。
3.神の愚かさ~十字架を背負う
・今日の招詞に〓コリント1:23-25を選びました。次のような言葉です「私たちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」。
・神は私たちを救うために一人子を十字架につけて下さいました。ここに神の愛が示されています。神は私たちが何をしたから救うとか、何をしなかったから救わないと言われているのではありません。神は十字架を通して、私たちを救うという意思を明らかにされたのです。神は既に人間の側に立っておられる、だとすれば私たちの行うべきことは割礼を受けたり戒めを守ったりして救いを獲得することではなく、救われた人間として生きることです。パウロは言います「この十字架によって、世は私に対し、私は世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです」(6:14-15)。
・もし人が神からの招き=福音を受け入れるなら、その人の生き方は根本から変えられます。新しい創造が始まるのです。その新しく創造された人は「世に対してはりつけにされている」、この世とは異なる価値観に生かされます。世の人が「これは正義の戦争だ」と言っても、私たちは、正義の戦争などないことを、聖書を通して教えられています。大東亜戦争は植民地獲得のための戦争であったし、イラク戦争はイスラム教徒撲滅のための宗教戦争の一面があります。それは冷静に見ればわかることです。そのわかることに目をつむり、この世に同調して生きていくことは、新しく創造された者の生き方ではありません。
・私たちが信仰を教会の中だけに留めておけば、すなわち日曜日に礼拝を守る以上のことをしなければ、世との関係は良好に保たれるでしょう。しかし、そのような生き方を神は私たちにお許しにならない。最後の審判の時に、私たちの前でイエスは宣言されるでしょう「はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、私にしてくれなかったことなのである」(マタイ25:45)。日本のキリスト教会は明治以降150年経っても、信徒数が人口の1%を超えることが出来ません。それは日本人の信仰が個人の問題に留まり、社会的な広がりを持たないからです。信仰と生活が分離し、信仰がその人の生き方を変えていないからです。世で言う「隠れクリスチャン」です。生活が証しになっていないのです。
・私たちは好んで世と対決するような生き方はしないし、してはなりません。しかし、必要な時には世に逆らっても、世に仕えていくことが必要です。その仕え方は、信仰に基づいて行為していくことです。戦時中の日本で「この戦争は間違っている」と発言することは苦難を招いたでしょう。しかし、その苦難が「イエスの焼印」(ガラテヤ6:17)になって行きます。焼印、迫害のしるしをパウロは身につけていました。私たちも受けなければいけないかもしれません。それを喜んで受ける者となりたいと思います。神の国は既に来ています。私たちの教会は神の国の一部なのです。それは完成していないゆえに問題を抱えた群れではありますが、それでも地上に開かれた神の国の入り口なのです。私たちが神の国の住人にふさわしく生きていくことこそ求められています。