1.違う考えの人を受け入れられない世界の現実
・私たちの教会は1969年11月6日に、この地で伝道を始めました。それから38年、多くの人たちがこの教会に来られ、そして去って行かれました。教会の現在会員数は30名ですが、在籍会員数は104名に上ります。その差74名の方は他行会員と呼ばれますが、現在どうされておられるのかわからない状態です。中には召天された方や転居された人もいるかもしれませんが、多くは教会を去って行かれた後、信仰を中断された方だと思われます。他教会に転入される場合、通知を受けて在籍会員からの除籍手続きを行いますので、除籍がないことはそのような推測が成り立ちます。これは教会にとって非常に重大な問題です。これまで4人の牧師がこの教会に招かれましたが、本質では同じでも各論になれば、それぞれ違いがありました。ある牧師は家に仏壇があればそれは偶像だから捨てなさいと言い、先祖の位牌を捨てることは出来ないと思った人は教会を離れたでしょう。別の牧師は十分の一献金こそ信仰のしるしであり、大切な義務だと強調し、反発した人もいたかもしれません。信仰の本質でないところで議論が起こり、それが人を天国から締め出すという致命的な事態が起っています。このような問題に私たちはどう対処すればよいのか、ローマ14章を通して、聞いていきます。
・ローマ14章を読みますと、ローマ教会の中に「信仰の弱い人」と「信仰の強い人」との争いがあったようです。「信仰の弱い」と呼ばれた人たちはユダヤ人キリスト者であろうと推測されます。ユダヤ教では豚肉は汚れたものとして食べることが禁止され、また神殿に捧げられた肉を食べることは偶像礼拝として忌み嫌われていました。当時、市中に出回っていた肉の多くは、ローマやギリシャの神々に犠牲として捧げられた動物の肉でしたので、肉を食べるかどうかは異教礼拝と関わる事柄でした。ですからユダヤ教の伝統を持つ人々は、肉を食べてはいけないと考えていたのです。ユダヤ教ではまた安息日や祭りを大事にしますから、彼らは特定の日を重んじる傾向があったようです。他方、異教徒からキリスト信徒になった人々、いわゆる異邦人キリスト者たちは、ユダヤ教の伝統から自由ですので、平気で肉を食べていました。
・肉を食べる人と食べない人が教会内にいたことをパウロは問題にしていません。問題にしたのは、食べる人が食べない人を「信仰の臆病者」と呼んで軽蔑し、食べない人は食べる人を「罪人」として裁いていたことです。当時、主の晩餐式は、共同の会食(愛餐会)の形で行われていましたので、そういう時に肉を食べるかどうかが、教会内で大きな対立点になっていったものと思われます。パウロは言います「何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません」(ローマ14:2-3)。自分たちと違う人を「臆病者」として、あるいは「罪人」として、裁きあっていたところに、パウロは問題を見ています。パウロ自身の考えははっきりしています「それ自体で汚れたものは何もないと、私は主イエスによって知り、そして確信しています」(14:14)。イエスご自身は「外から人に入ってくるものは人を汚しえない」と言われていました(マルコ7:18)。パウロもそう考えていたようです。従って、食物規定にこだわる人々は、まだユダヤ教の祭儀性から解放されていないので、信仰が弱いと考えていたようです。
・しかし、弱いから悪いのではない。パウロは言います「特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです」(14:6)。肉を食べない人は、そのことで主に対する従順を示そうとしています。それはまさに信仰の行為です。他方、食べる人も、食物を感謝して食べることを通して信仰に導かれます。両者とも間違っていません。イエスに結ばれていれば、肉を食べることも祝福であり、食べないことも祝福なのです。だからパウロは言います「私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。」(14:8)。お互いが主のものにされたのに、「なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。私たちは皆、神の裁きの座の前に立つのです」(14:10)とパウロは言います。
2.本質的な問題とそうでないものを見分ける知恵を持て
・パウロは言います「私たちは皆、神の裁きの座の前に立つのです」。私たちは生涯を終えた時、主の前に立ちますが、その時、私たちが肉を食べたかどうか、お酒を飲んだかどうかが問題になるだろうかとパウロは言うのです。パウロは続けます「神の国は飲み食いではない」(14:17)。何を飲んだか、何を食べたかは神の前ではどうでも良い問題なのに、その飲み食いの問題で他者を裁く時、あなたは兄弟を滅ぼすことになる。それは最後の審判の時に問題になる重大な罪の行為だとパウロは言うのです。
・今日の招詞にマタイ25:40を選びました。次のような言葉です「そこで、王は答える『はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである』」。最後の審判についてイエスが述べられた言葉です。イエスは十字架を前に弟子たちに次のような話をされました「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来る時、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く」(マタイ25:31-33)。
・イエスは話を続けられます「王は右側にいる人たちに言う『さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、私が飢えていた時に食べさせ、のどが渇いていた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいた時に訪ねてくれたからだ』」(マタイ25:34-39)。人々にはなんのことかわかりません。イエスに食物を差し出したことも宿を貸したこともなかったからです。イエスは言われます「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのだ」。ここでは肉を食べたか食べなかったか、酒を飲んだか飲まなかったかは一言も語られていません。割礼を受けたか受けなかったかも問われていません。問われているのはただ一点、この小さい者に、隣人に何をしたかだけです。飲み食いは救いの本質に関わる問題ではないのです。しかし、飲み食いの問題を通してお互いを裁き合うようになれば、それは隣人を損なうという重大な罪になりうるのです。
・パウロはローマ13章で次のように言います「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな、そのほかどんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです」(13:9-10)。姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな、有名な十戒の規定です。この規定は日本語では禁止命令ですが、原語のヘブル語では異なります。ヘブル語を直訳すると「姦淫しないであろう、殺さないであろう、盗まないであろう」となるそうです。神の恵みの共同体に入れられた者が殺しあうことはないし、姦淫することはありえない。何故ならば神は全ての人を愛されており、お互いは兄弟姉妹だからです。神に愛された者は力の限りに神を愛し、神を愛する者は隣人に悪を行わない。だから盗むことも殺すこともしないのです。隣人とどう関わるかが本質であり、その他のことはどうでも良いこととすれば、肉を食べることやお酒を飲むことの是非を論じ合うのは愚かなことなのです。
3.本質でないもののために争う人々へ
・私たちの社会は、本質でないもののために殺し合いが起こる社会です。その典型が1990年代に起こったユーゴスラビア紛争です。ユーゴは第二次大戦後、共和国として出発しましたが、1990年にソビエト連邦が崩壊し共産主義と言う枠が外れると、人々は「私はカトリックだ。私はギリシャ正教だ。私はイスラムだ」とそれぞれが主張を始めて内戦状態になり、多くの人が殺され、多くの町が破壊されていきました。戦争は10年間も続きました。違いが争いになり、争いが殺し合いになり、殺し合いが破壊を生んでいきました。共産主義という共通の目標がなくなったとたんに、違いが争いになってしまった。教会も同じです。キリストにより救われ、生かされているという基本を失った時に、争いが起こります。普遍といわれたカトリックから、プロテスタントが生まれ、プロテスタントの中でも、私はルター派だ、私はカルヴァンだ、いやバプテストだと争いを繰り返してきました。その多くは、主の晩餐式はどのように行うべきか、バプテスマは浸礼が正しいのか滴礼なのか、牧師は独身であるべきか等の瑣末な問題をきっかけにした争いでした。
・パウロは言います「もういい加減、争いはやめなさい。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです」(14:15)。裁かれるのは神であって人ではない。それなのに、人が互いにレッテルを張り合うことこそ問題なのだ。神はいずれの側も救いに招かれた人として受け入れて下さっているではないか。だから「キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」(ローマ15:7)とパウロは言います。キリストが受け入れて下さった人を受け入れない、あなたは何者なのかとパウロは言うのです。
・そうです。私たちは争いのない教会を建設したい。少なくとも本質でないところで争って、教会を壊すことはやめたい。先祖の位牌はどうすればよいのか、十分の一献金は必ずしなければいけないのか、酒を飲んでも良いのか。それぞれの事柄は、自分の信仰によって決断すればよい出来事であり、教会で対立する出来事ではないのです。違いがあってもよい。お酒を飲む人も飲まない人もいていい。バプテスマを滴礼で受けてそのことを大事に思う人は、あえて浸礼の再バプテスマを受ける必要はない。信仰の本質に関わらない問題では争わない。本質で一致し、細部は個々の人の決断に委ねる。そこに神の国が生まれていきます。そのような教会を、この篠崎の地に、共に建設したいと祈ります。