1.信仰によって生活が変えられない人々への手紙
・先週、私たちは、テサロニケ教会への手紙を通して、キリスト者の実践の大切さを学びました。神が私を救って下さったとの信仰は人を行為に導き、その行為は愛の労苦として現れます。それは、具体的には他者のために重荷を負っていく生きかたになります。その愛の労苦は往々にして報われませんが、主は知っておられるゆえに希望を失うことはありません。この「信仰の行為」、「愛の労苦」、「希望の忍耐」を別の言葉で言い換えたのがヤコブです。ヤコブは言います「御言葉を行う人になりなさい。聞くだけで終わる者になってはいけません」(ヤコブ1:22)。今日はヤコブ書を通して、私たちに求められているものが何かを見ていきます。
・著者ヤコブはエルサレム教会の指導者、主の兄弟です。彼は生前のイエスがキリストであることを信じませんでしたが、復活のイエスに出会って変えられ、やがてエルサレム教会の指導者になって行きます。福音はユダヤを超えてサマリヤやシリアにも伝えられ、多くの教会がヤコブの指導下に置かれました。しかし、時間の経過と共に、イエスの言葉が風化し、礼拝を守りさえすれば良いとする人々や、貧しい人をさげすんでキリストの名を汚す人々も出てきました。教会の中に、貪りや妬み、高ぶりなど、この世と同じ争いが生まれるようにもなりました。その人々にヤコブは「信じる者は愛の労苦に押し出されていく。信仰の行為がないとしたら信仰が空虚化しているのだ」と警告の手紙を書きます。それがヤコブ書です。
・ヤコブにとっての最大の懸念は「信仰と生活の分離」でした。信仰があるといいながら、その生活が変えられず、世の人と同じ生活をする者が増えてきたのです。2章1~4節の記述もそのような現実を踏まえています。ヤコブは書きます「私の兄弟たち、栄光に満ちた、私たちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて『あなたは、こちらの席にお掛けください』と言い、貧しい人には『あなたは、そこに立っているか、私の足もとに座るかしていなさい』と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか」。社会には貧富の格差があり、富める者は尊敬され、貧しい人は貶められるという現実があります。社会の貧富の格差がそのまま教会に持ち込まれ、金持ちや高い身分の人が尊重されるとしたら、「キリストは何のために死なれたのか、あなた方は何のために教会を形成しているのか」とヤコブは告発します。
2.行いのない信仰は死んでいる
・ヤコブが問題にしているのは、私たちの心の中にある二重性です。1章8節の言葉を新共同訳は「心の定まらない者」と表現しますが、口語訳では「二心あるもの」と訳します。英文では「double-minded」です。心の中に御言葉が植えられていながら、実際の行動は御言葉を知らない人と同じ人々のことです。ヤコブは言います「私の愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい」(1:19)。教会内で口を制することの出来ないキリスト者のために、混乱が生じていたのでしょう。ある人が牧師や教会員の不注意な一言で躓き、教会の礼拝に来る事が出来なくなることは、今日の教会でもしばしば起こります。教会内の人間関係に躓くのは、その人の信仰が未熟なせいでもあります。それでも、その行為は人を天国の門から締め出し、その人から救いを奪ってしまいます。だから私たちは「聞くに早く」あることが求められます。相手の立場に立って相手の話を聞くことです。そして「話すに遅く」、自分の言い分や主張を語るなということです。そのように配慮しても相手は怒り、躓くかもしれませんが、あなたは「怒るに遅くあれ」と言われます。怒るな、悪口を言うな、何故ならキリストはそうされたし、キリストの言葉を聞くために、あなたがたは教会に来たのではないかヤコブは言います。
・ヤコブは続けます「人の怒りは神の義を実現しない」。イエスは怒ることを繰り返し禁じられました。「誰かがあなたの右のほほを打つのであれば左のほほを出せ」(マタイ5:39)とさえ言われました。敵に対してそういう態度を取ることを求められるのであれば、ましてや教会の兄弟姉妹に対してそうするのが当たり前ではないかとヤコブは言うのです。私たちの心の中には神の言葉が植えつけられているはずではないか。その神の言葉が十分に成長すれば、あなた方の心から悪しき思いや汚れはなくなっているはずだとヤコブは言います。
・神の言葉があなた方を支配するようになった時、あなた方は御言葉を聴くだけでなく、実行する者になる。何故ならば御言葉は人を愛の労苦に押し出すからです。私たちが熱心に礼拝を捧げても、その信仰が愛の労苦を導かないならば、信仰もまた虚しいではないかとヤコブは続けます。信仰は成熟し、成長することが求められています。言葉で傷つけられたからもう教会に来ない、説教がつまらないから礼拝に出ない、そのような信仰からもう一段の成長が必要です。何故ならば、私たちは自分の意思で礼拝に出るのではなく、集められているからです。集められた者が世に派遣され、その先々で主を証する生活をしていくという出来事が礼拝なのです。信仰が愛として働く時、この世の生活や仕事が神の栄光を現すものになります。その力をいただくために、私たちは日曜日に集められているのです。
3.信仰は冒険だ
・今日の招詞にマタイ10:39を選びました。次のような言葉です「自分の命を得ようとする者は、それを失い、私のために命を失う者は、かえってそれを得るのである」。不思議な言葉です。人はみな自分の命の救いを、幸福を求めます。幸福とはおなか一杯食べて、良い生活をし、病気や災いから守られることです。しかしイエスは言われます「自分の命を得ようとする者は、それを失うだろう」。何故でしょうか。それは、人は自分で生きているのではなく神によって生かされているからです。その神の御心は十字架のキリストという形で私たちに示されました。自分が死ぬことを通して神は私たちを救われたのです。だからイエスは私たちに言われます。「自分の十字架を担って私に従わない者は、私にふさわしくない」(マタイ10:38)。
・ヤコブの手紙はこのイエスの言葉を受けて書かれています「私の兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いている時、あなたがたのだれかが、彼らに『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」(ヤコブ2:14-17)。口では「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」といいながら、そのために何の行為もしない。「それが信仰の働きか、愛の労苦か、あなたの信仰はどこにあるのか、あるなら見せなさい」とまで彼は言っています(2:18)。愛の労苦に押し出されないような信仰は死んでおり、死んだ信仰はあなたの命を救う力はないのだとヤコブは言います。
・現実世界の中で考えて見ましょう。第二次大戦中のスイスにはドイツからユダヤ人難民が押し寄せてきました。ナチス政権によるユダヤ人迫害のためです。1942年には9万人のユダヤ人難民がスイスに逃れました。あまりの流入者の多さに、スイス当局者は言います「もう小さな救命ボートは満員になってしまった」。人口500万人のスイスではこれ以上の難民を受け入れることは出来ないとして、政府は難民送還政策を取ります。ドイツから逃れてきた難民をドイツに送り返し始めたのです。その結果、何が起こるかは明らかでした。難民たちは強制収容所に入れられ、命を奪われます。大半のスイス市民は傍観しました。自分の出来事ではなかったからです。その中で一部の教会が立ち上がり始めます。バーゼルの牧師ヴァルター・リュテイは説教の中で、スイス政府の難民送還政策はキリスト者に三重の罪を負わせたと糾弾しました。彼は言います「私たちスイス人は何万匹もの飼犬を飼っている。私たちがスイスでなお、自分たちのパンやスープ、肉の配給を何万匹という飼犬に進んで分かちながら、同時に数万人、あるいは数十万人の難民の人々を私たちはもはや担えないというのはキリストの愛にふさわしい行為だろうか。私たちの行為は偽善的であり、私たちは感謝を失っているのではないだろうか」(トウルナイゼン著作集第二巻解説から)。信仰の問題として、彼は難民の事柄を講壇から語ったのです。
・そしてまさに同じ出来事が2007年の日本でも起きています。世界にはアフリカや中東を中心に数千万人の難民がいますが、2000年度の難民受入数はフランス5,185人、イギリス10,186人、アメリカ20,000人、日本22人です。日本は難民受け入れを事実上拒否しています。そして何よりも悪いことは、このことに教会が抗議していないことです。難民~教会~日本という条件でWeb検索をしたところ、難民問題に取り組んでいるのはカトリックと聖公会だけでした。ヤコブは私たちに言うでしょう「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさいといいながら、そのために何の努力もしない。それがキリストに従う者のあり方か」と。
・神は私たちに、「目の前に困窮と苦しみの中にいる人がいれば、その人に愛の責任を負うよう」に命じておられます。ヤコブ書が私たちに与えられているのはそのためです。それにもかかわらず自己愛を超える出来事はそこに起こっていません。信仰が自己義認に留まっています。信仰によって義とされるという十字架の救いが神の側から起こっているにもかかわらず、人の側には応答の行為として現れません。このことは私たちに深刻な疑問を投げかけます。私たちが「義とされた」、「救われた」といいながら、何も生活が変わらないとしたら、私たちは救われていないかもしれない。「実践のない信仰は死んでいる。死んだ信仰は人を救い得ない」のです。「自分の命を得ようとする者は、それを失い、私のために命を失う者は、かえってそれを得るのである」。私は命を得ているのか、御言葉を行う人になっているか。真剣に考えるべき課題がここに提出されています。