江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2007年5月6日説教(ガラテヤ3:23-29、キリスト者の自由)

投稿日:2007年5月5日 更新日:

1.救われるために何が必要なのか

・復活節第五主日を迎えています。復活のキリストに出合った弟子たちは、「十字架で死なれたキリストは復活された。そのキリストの死によってあなた方は罪から解放された」との福音を携えて、伝道を始めました。その結果、福音はエルサレムから、ギリシャ・ローマ世界に、ユダヤ人の枠を超えて異邦人にも伝えられていきます。先週、私たちはコリント教会の出来事を学びました。そこでは、ユダヤ人の律法=神殿に捧げられた肉は食べてはいけないと言う食物規定が、異教社会に住むコリントの人々にとって、社会生活を営む上で大きな問題になったことを知りました。律法のもう一つの重要な規定が割礼です。ユダヤ人は神の選びのしるしとして割礼を守ってきました。異邦人も信じて神の民になったのであれば割礼を受けるべきなのか、これが大きな問題になったのがガラテヤ教会でした。今日は、パウロがガラテヤ教会に書いた手紙の3章を基本に、私たちがキリスト者として生きるためには、何が必要なのかを共に考えてみたいと思います。
・ガラテヤの諸教会はパウロの伝道によって設立されましたが、パウロが去った後、エルサレムから派遣された教師たちが来て「救われたしるしとして割礼を受けなければいけない」と説いて、教会に混乱が生じていました。そのことを伝え聞いたパウロは、ガラテヤ教会にあてて手紙を書きます「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」(ガラテヤ3:1)。もし、割礼を受けなければ救われないのなら、キリストは何のために死なれたのか、キリストの十字架は無駄だったのかとパウロは迫ります。
・割礼は男性性器の包皮を切り取る行為ですが、元来は砂漠の不衛生の中で、体を清潔に保つために、与えられた行為です。今日でも砂漠地帯のアフリカや中東では割礼の習慣は残っています。神はユダヤ人の父祖アブラハムに「選びのしるしとして割礼を受けなさい」と言われました。砂漠の中で生き残るためです。割礼は祝福でした。それ以降、ユダヤ人の男子は生まれてから8日目に割礼を受けるようになりました。ところが、その割礼がやがて、「割礼を受けなければ救われない」とされていきます。割礼が救いの条件になってきたのです。パウロは「それはおかしい。私たちはキリストの十字架死という恵みによって救われるのであり,割礼の有無は関係がない」と主張し、エルサレムの使徒会議もその主張を受け入れました。そして、異邦人は割礼を受ける必要はないと決定されました。しかし、一部の人々は依然として割礼の必要性を主張し、それがガラテヤ教会を混乱させていたのです。

2.律法を越えて

・この割礼の問題は、救われるためには何が必要かとの信仰の根本問題に関わります。救いは神の一方的な恵みだけで良いのか、それとも人間の側も努力も必要なのかという問題です。救いは見えません。だから人間は見えるしるしを求めます。割礼を受ければ救われるというふうに、救いを見える形にします。それが律法を守るという行為になります。パウロは言います「あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか」(3:2)。あなた方はキリストの贖罪死によって罪を赦されたという福音を聞いて、信じた。その時には、割礼も律法も不要だったではないか、何故、今、「霊=福音によって始めたのに、肉=割礼によって仕上げようとするのですか」(3:3)とパウロは語ります。
・パウロは続けます「律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。『律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている』と書いてあるからです」(3:10)。律法は人を救いません、何故なら、人は律法を守ることが出来ないからです。「殺すな」と言われても、私たちは怒りに駆られて人を殺してしまう存在です。人間は戦争をやめることができない、それは殺すなという命令を守ることの出来ないしるしです。「姦淫するな」といわれても私たちは姦淫の罪を犯し続けています。繁華街には性を売る店が乱立し、不倫も日常化しています。「盗むな」といわれても盗み続けます。上場企業さえ、会計を不正操作して、株主からお金を盗み取っています。パウロが叫んだ通りです「正しい者はいない、一人もいない」(ローマ3:10)。人は律法を守ることは出来ない、律法によっては救われない、だからこそ、キリストが十字架で死なれたのです。
・では何故、律法が与えられたのか、パウロは言います「信仰が現れる前には、私たちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、私たちをキリストのもとへ導く養育係となったのです」(3:23-24)。私たちはキリストが現れる前には、他者を押しのけ、自己を主張し、自らの力で自己であろうとする生き方しか出来ませんでした。だから行為の基準として、律法が与えられました。だが、律法を守ることが出来ない。律法は救いにならなかった。しかし、キリストが来られて全てが変わった。「キリストは、私たちのために呪いとなって、私たちを律法の呪いから贖い出してくださいました」(3:13)。キリストの十字架を通して、私たちは、律法の束縛から自由になったのだとパウロは主張しています。「私たちは、信仰によって神の子とされた」とパウロは書きます。だから「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(3:27-28)。
・律法主義の下にある人間関係の基本は差別です。割礼を受ければ救われると信じるユダヤ人は、無割礼の異邦人をさげすみました。当時の女性は、結婚前は父親の、結婚後は夫の財産でした。女性は人ではなく、ものだったのです。奴隷も同じです。奴隷には人権などなかった。律法主義の下にあっては、人は優劣で順位付けられていました。しかし、律法からの解放は、差別からの解放をもたらします。「キリストを着る」という意味において同じだからです。だから、キリストにあっては「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もない」のです。今日の世界において、依然、民族の差別があり、女性は男性と同権ではなく、貧乏人は卑しめられるのは、まだ優劣概念、すなわち律法主義が根強く残っているからです。私たちの社会は、福音によって解放されていないのです。だから、私たちは、キリストの福音を宣べ続けなければいけないのです。

3.相手を憎まない自由

・今日の招詞として、ガラテヤ5:13-14を選びました。次のような言葉です。「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです」。
・パウロは3章に続く5章で、律法が悪いのではなく、祝福である律法を呪いに変えてしまう律法主義が悪いのだと述べています。最初に律法が与えられたのはイスラエルの民がエジプトの奴隷から救い出された時です。その時、モーセに与えられたのが十戒で、その中核は安息日規定でした。民はエジプトでは奴隷であり、休むことが出来なかった、土曜日も日曜日も酷使された、その彼らに「週一日は体を休めるために、休みなさい」として安息日が与えられました。しかし、時代が経つに従い、安息日の意味が変わってきます。「安息日には仕事をしてはいけない」、「安息日に仕事をする者は罰する」、やがては「安息日を守らない者は死刑にする」とまで規定が強化されます。祝福が呪いになる、そこに律法主義の問題が生じるのです。
・これは旧約時代だけの話ではありません。日本のキリスト教はアメリカのピューリタン主義の影響を強く受けていますので、禁酒・禁煙の伝統があります。酒やタバコはある場合には害をもたらします。ある人がバプテスマを受けたのを契機にお酒をやめました。彼は祈りました「自分の体は神の霊が宿る聖なる宮とされた。この宮をアルコールで汚すことはやめよう」。信仰からくる美しい決断です。しかし、自分がお酒を止めた人は、他の人がお酒を飲むことを許せなくなります。そして言い始めます「あなたはクリスチャンの癖にお酒を飲むのですか」、やがて発言がエスカレートし、「あなたがクリスチャンであればお酒をやめなければいけない」と言い出します。この時、彼の信仰は律法主義に、人を呪うものに変わっていきます。
・パウロは本来の律法とは「隣人を自分のように愛すことだ」と言います。人はキリストに出会い、自由にさせられることを通して、自分の中にある肉の欲が、霊の愛に変えられていきます。肉の欲とは相手を自分に仕えさせようとする欲です。飲酒の例で言えば、自分も飲まないのだからあなたも飲むなと強制する行為です。他方、愛は自分が相手に仕えていく行為です。「私は飲まない、しかしあなたは飲んで楽しみなさい」。これが律法から解放されたキリスト者の自由です。福音さえも律法化します。礼拝は恵みの時、神に出会う時です。だから私たちは礼拝を大事にします。しかし大事にした時、礼拝を休む人のことが気になり、やがて「礼拝を休む人は救われない」と言い出しかねません。その時、福音が律法化します。礼拝に来ない人を呪うのではなく、礼拝に来ることの出来ない人のために祈り続けていく。どうすればそのような生き方が出来るのか。
・私たちが福音の原点、キリストの十字架に立ち戻った時です。パウロはガラテヤ教会への手紙の終わりに言います「私には、私たちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世は私に対し、私は世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです」(6:14-15)。「その兄弟のためにもキリストが死んでくださった」(〓コリント8:11)ことを思い起こす時、私たちはもはや兄弟を憎むことは出来ません。自由とは何をしてもよいことではありません。そうではなく、兄弟を憎まない自由、兄弟の悪口を言わない自由、兄弟のために祈る自由が、与えられているのです。キリストの十字架に接して、私たちは兄弟を憎まない自由を強制ではなく、自由意志で選び取っていくのです。

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