江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2007年12月9日説教(イザヤ61:1-9、嘆きから喜びへ)

投稿日:2007年12月9日 更新日:

1.嘆きを喜びに

・クリスマスを前に、私たちは旧約聖書を読んでいます。先週はイザヤ52章から、バビロン捕囚からの解放の記事を読みました。捕囚から50年、バビロンで生活基盤を築いていた民は、今さら廃墟のエルサレムに帰りたくないと言い張っていました。その人たちに預言者は「主が解放して下さったのだ。共にエルサレムに帰ろう、主は荒野をエデンの園に、荒地を主の園にされる」と励ましました(イザヤ51:3)。励まされた人々は帰国の途につきます。紀元前538年のことです。しかし、帰国した民を待っていたのは、厳しい現実でした。その中で、主に依り頼んで再建に取り組もうと励ます預言者が立てられました。イザヤ56章以下はこのような背景の中で語られています。今日はバビロンから帰国した人々の信仰を通して、クリスマスの意味を考えてみたいと思います。
・帰国した人々が最初に行ったのは、廃墟となった神殿の再建でした。解放して下さった主に感謝したからです。帰国の翌年には、神殿の基礎石が築かれましたが、工事はやがて中断します。先住の人々は帰国民を喜ばず、神殿の再建を妨害しました。また、激しい旱魃がその地を襲い、穀物が不足し、飢餓や物価の高騰が帰国の民を襲いました。神殿の再建どころではない状況に追い込まれたのです。そして人々はつぶやき始めます「私たちは光を望んだが、見よ、闇に閉ざされ、輝きを望んだが、暗黒の中を歩いている」(59:9)。約束が違うではないか、どこにエデンの園があるのか。帰らなければ良かった、バビロンの方が良かったと民は言い始めているのです。
・この状況は、日本が戦争に敗れ、満州や朝鮮で暮らしていた人々が強制送還された時と共通するものがあります。着の身着のままで現地を追われ、日本に帰りさえすれば何とかなるとして、帰国した人々を待っていたのは、食糧難と迷惑そうな親族や近隣の顔でした。私の両親も満州からの帰国民でした。イスラエルの民も50年ぶりに帰国しました。帰ってみると、住んでいた家には他の人が住み、畑も他人のものになっていました。彼らは「主がこの荒野をエデンの園にして下さる」と励まされて帰国しましたが、現実は予想を上回る厳しさです。彼らは言います「主の手が短くて救えないのではないか。主の耳が鈍くて聞こえないのではないか」(59:1)。主に対する信仰まで揺らぎ始めていたのです。これに対して、そうではない。問題は主にあるのではなく、あなたがたにあるのだと言って立ち上がった預言者が、第三イザヤと呼ばれる人です。彼は言います「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が、神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ」(59:1-2)。
・預言者は人々に悔改めを求めますが、その悔改めは喜びをもたらすと言います。「主は私に油を注ぎ、主なる神の霊が私をとらえた。私を遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために」(61:1)。主は、困難の中にあるあなたがたを慰めるために私を立てられた、良い知らせを伝えるために私に言葉を与えられたと。預言者は続けます「シオンのゆえに嘆いている人々に、灰に代えて冠をかぶらせ、嘆きに代えて喜びの香油を、暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために」(61:3前半)。良い知らせ(福音)は灰(悲しみ)を冠(喜び)に変える。主は悲しんでいるあなた方に、喜びの冠を与えると言っておられる。主はあなた方を通して、この廃墟をエデンの園に変えられる。あなた方こそ「とこしえの廃墟を建て直し、古い荒廃の跡を興す者」なのだ(61:4)。
・あなた方はバビロンで50年にわたる苦難を受けた。それはあなた方を主の民、主の祭司とするためだった、あなた方を通して諸国の人々を解放するためだった。預言者は言います「他国の人々が立ってあなたたちのために羊を飼い、異邦の人々があなたたちの畑を耕し、ぶどう畑の手入れをする。あなたたちは主の祭司と呼ばれ、私たちの神に仕える者とされ、国々の富を享受し、彼らの栄光を自分のものとする」(61:5-6)。あなた方は単に自分の救いを求める者ではなく、神の祝福を隣人に、異邦人に伝える者となるのだ。あなた方が自分のためだけに幸いを求めるから、主は苦難を与えられるのだ。隣人のために幸いを求めてみよ。主はあなた方を豊かに祝福されるだろうと預言者は民を慰めます。
・中断された神殿再建が再び始まったのはそれから20年後でした。神殿再建を導いたのは、ダビデの血筋を引くゼルバベルです。人々は、ゼルバベルを王にいだいて国の独立を求めましたが、ペルシャ帝国によって失敗に帰し、イスラエルはその後も国の独立を果たすことが出来ませんでした。しかし、彼らは、捕囚時代に編纂された旧約聖書を守りながら生き抜くことを通して民族の同一性を保持し、旧約聖書はやがて当時の共通語ギリシャ語に翻訳され、多くの異国人がこの翻訳聖書を通して主に出会うようになります。イザヤは預言しました「彼らの子孫は、もろもろの国の中で知られ、彼らの子らは、もろもろの民の中に知られる。すべてこれを見る者はこれが主の祝福された民であることを認める」(61:9)。ユダヤ人は、国が敗れることを通して、主の民として異邦人に仕える者になり、やがてはこのユダヤ人の中からイエスと呼ばれるキリスト=救い主が生まれてこられます。

2.良い知らせの宣言

・バビロン捕囚から500年の時が流れ、イエスが生まれられました。イエスはその宣教の初めに、故郷ナザレでイザヤ61章を読まれ、宣言されました。それが今日の招詞、ルカ4:20−21の箇所です。次のような言葉です「イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた」。
・イエスの時代、人々は安息日に会堂に集まり、聖書を読み、説教を聞き、祈りました。最初に信仰告白が読まれ、次に聖書日課に従って先ず律法の書が、次に預言書が読まれ、読んだ人がそれについて短い話をするのが慣例でした。その日の預言書の個所はイザヤ61章であり、イエスは渡されたイザヤ書の巻物を朗読されます。それがルカ4:18-19に引用されています「主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである。主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」。
・イエスは、イザヤ61:1-2の預言を、当時の人々の困窮に焦点を当てて語られています。先に見ましたように、イザヤ61章が語られた時代は人々が将来に希望を持てない時代でした。イエスの時代も同様でした。当時の人々は食べるのがやっとの貧しい生活を強いられていましたが、その貧しい人々に良い知らせが語られるとイエスは慰められます。税金が払えない人は獄に入れられていましたが、彼らは獄から解放される。病に苦しむ人はその病がいやされる。土地を持たず、小作農として苦しむ人には土地が与えられるとイエスは言われたのです。人々はメシヤが来て、自分たちの生活が良くなることを待望していました。その人々にイエスは言われました。「私がそのメシヤである。あなた方の救いは、今日私の言葉を耳にした時に成就した」と。
・イエスは人々に救いを告げられましたが、多くの人々にとって救いとは現在の苦しみからの解放でした。イエスは霊の命を与えようとされましたが、人々はパンを求めました。イエスは神の国を与えようとされましたが、人々は地上の王国を欲しました。人々の驚嘆と尊敬の中に始まったイエスの宣教が、三年を経ずして、人々のつぶやきと憎悪の中に、十字架の死をもって終るに至ったのはこのためです。イエスの業は挫折したのでしょうか。そうではありません。十字架につけられて死なれたイエスを神は復活させて下さいました。その復活を目にして、何人かのイエスを信じる者たちが起こされていきます。その弟子たちを通して、イエスの業は継承されていったのです。捕囚から戻された民が信仰を取り戻し、神の祝福を隣人に、異邦人に伝える者にさせられたようにです。
・イエスは言われました「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)。この言葉はどのようにして実現するのでしょうか。私たちを通してです。私たちは闇の中にいましたが、イエスと出会って光を見出したのです。光を見出した者が次に行うことは、その光、良い知らせを隣人に伝えていくことです。伝えるとは、言葉と同時に行為で伝えることです。隣人の重荷を私たちが一緒に担う事です。そのことによって隣人の重荷は軽くなります。しかし、現実はそう甘くはありません。たとえば夜中に突然一人の老婦人が教会に来られ、行くところが無いので今夜一晩泊めてほしいと言われた時、私たちがどうするでしょうか。教会堂の暖房をつけて老婦人に泊まっていただくことは可能なのでしょうか。身元のわかっている方であれば可能かもしれませんが、見ず知らずの方を教会にお泊めするのは不可能でしょう。言葉と同時に行為で伝えることは簡単な事ではありません。帰国した捕囚の民が神殿再建に再度取り組むために、20年の時が必要だったのはそのためです。しかし、20年かかっても彼らはやりぬきました。
・イザヤの時代は今から2500年前です。イエスの時代は今から2000年前です。時代が変わっても、本質的な問題は何も変わっていません。人々は現在の生活に不満を持ち、明日の生活に不安を持っています。その中で唯一変わった事は預言者の言葉に耳を傾け、イエスの言葉を受け止める人々が生まれたことです。私たちは神の業を行うように、ここに集められ、神の言葉を聴いています。もう自分のことにかかわりわずらうことをやめ、隣人のために働く者となりたいとの希望を持っています。「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6:31-33)と言う言葉が真実であることを知っています。ですから、私たちも出来る範囲の行動を始めます。「クリスマスとは私たちが楽しむ時ではなく、隣人を招き、良い知らせを伝える時」なのです。

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