1.地は形なく空しかった。しかし、神の霊が水の面を覆っていた。
・今日から、私たちは待降節に入ります。教会ではクリスマスの9週間前から、主の降誕の意味を考えるために、人類の歴史を振り返ります。キリストは、私たちが罪を犯して創造の祝福から離れ、罪の中に苦しむようになったため、私たちを救う為に来られました。では何故、私たちは罪の中に苦しんでいるのか、それを知るために、私たちは、人間が創造以後、どのような歩みをしてきたのかを見る必要があります。今日からしばらくの間、旧約聖書から、人間の「創造と堕落」の歴史を見て行きます。最初に与えられたテキストは創世記1章です。このテキストを通して、私たちはどのようなものとして創造されたかを見ていきます。
・創世記1章は天地創造の記事であり、26節から人間の創造が記されています。人がどのようにして創造されたかを見る前に、まず天地創造の全体像を概観します。創世記1:1-2は創造前の世界がどのようであったかを記しています「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」。神が天地を創造される前には、「地は混沌であって闇が全地を覆っていた」とあります。世界は闇の中にあって、混沌の中にあった。口語訳によれば、「形なく、虚しい」状態の中にありました。そこに「光あれ」という神の言葉が響きます。すると光が生まれ、闇が光によって裂かれました。
・この「形なく、虚しい」と言う言葉、ヘブル語「トーフー・ワボーフー」という言葉は聖書に三箇所出てきます。一つはこの創世記1:2、次にはイザヤ34:11、最後がエレミヤ4:23です。なぜ「形なく、虚しい」という特殊な言葉が後代のイザヤ書やエレミヤ書にあるのでしょうか。文献学的研究によれば、創世記1章は紀元前6世紀に書かれた祭司資料からなるといわれています。イスラエルはバビロン王ネブカデネザルによって前586年に征服され,首都エルサレムは廃墟となり、王族を始めとする主要な民は、捕虜として敵地バビロンに連れて行かれました。この捕囚の地での新年祭にバビロンの創造神話が演じられ、イスラエル人は屈辱の中でそれを見ました。何故神は、選ばれた民である私たちイスラエルを滅ぼされ、敵地バビロンに流されたのか。捕囚期の預言者エレミヤは歌いました「私は見た。見よ、大地は混沌(トーフー・ワボーフー)とし、空には光がなかった」(エレミヤ4:23)。「大地は混沌とし、空には光がなかった」。「自分たちは滅ぼされた、神に捨てられた」、絶望の闇がイスラエル民族を覆っていたのです。しかし、神が光あれといわれると光が生じ、闇が裂かれました。ここにイスラエル人の信仰告白があります。現実の世界がどのように闇に覆われ、絶望的に見えようと、神はそこに光を造り、闇を克服して下さる方だとの信仰の告白です。「主よ、あなたは私たちに再び光を見せて下さるのですか。私たちを赦して下さるのですか」。そのような祈りが創世記1章の言葉の中に込められています
・創造の業は続きます。二日目には大空=宇宙が造られ、天と地が分かたれました。三日目には地球が造られ、海と陸が分けられ、生物が生きる環境が整えられていきます。そして植物が造られ、魚と鳥が造られました。そして最後の日、六日目に動物と人が創造されます。全ての創造の業が終えられた時、「神はお造りになった全てのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」(1:31)。創造の業が「極めて良かった」という神の肯定の中で終えられています。この「良かった」、「良しとされた」という言葉が、創世記1章の中に繰り返し出てきます。「神は光を見て良しとされた」(1:4)、「神はこれを見て、良しとされた」(1:10、1:12,1:18,1:21,1:25)、そして1:31です。何故、繰り返し「神は良しとされた」と言う言葉が用いられているのでしょうか。それは現在が「良しとは言えない」状況の中で、イスラエル民族が創造の「良し」と言う言葉を求めているからです。私たちは良きものとして神に創造された、しかし罪を犯したために今は「良し」とは言えない状況の中にある。神はこのような私たちを赦し、再び「良し」という中に戻して下さる、戻して下さいという信仰の告白がここにあるのです。「地は形なく空しかった。しかし、神の霊が水の面を覆っていた」、そして神はすべてを良しとして創造された。そのことの中にイスラエルの民は希望を見出しているのです。
2.神は御自分にかたどって人を創造された
・創世記は1章26節から、人の創造を記します。「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」(1:27)。ここに「創造された」と言う言葉が三回も用いられています。人こそが神の創造の目的だったのです。そして神は人を祝福して言われます「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」(1:28)。すべての人々は神の祝福の中に生まれてきます。罪を犯したイスラエルもまた神の祝福の中にあり、親が望まない形で生まれてきた人もまた、神の祝福の中にあります。私たちがどのような状況にあっても、神は私たちの存在を肯定しておられる、だから私たちもまた自己を肯定することが出来るのです。
・すべての人は存在することにより、肯定されています。男も女も、大人も子供も、健常者も障害者もまた、神の肯定の中にあるのです。現在の社会では多くの人が自分を肯定できなくなっています。日本では年間3万人の人が自殺しています。一日100人の人が自分を肯定できずに、自らの命を断っています。しかし、創世記は私たちに、例え現在が希望のない闇のように見えても、その闇は神の「光あれ」と言う言葉で分断されるということを伝えます。イスラエルの信仰は、神は人を「良し」として創造され、「生めよ、増えよ」と祝福された事を教えます。だから、私たちも希望を持つことが出来ます。闇の中にあっても光を待つことが出来ます。
・神はご自分の形に私たちを創造されました。神の形とは人格を持つ存在として人が創造されたことを意味します。神が語りかけられ、それに応えうる存在として造られました。神と私たちの間には、「私とあなた」という人格関係が成立しているのです。植物や動物は「あなた」ではなく、「それ」、単なるものに過ぎません。その中で人間だけが創造主と「あなたの関係」に入ることが許されています。ですから、自分と異なる人とも「私とあなた」の関係を持てと言われているのです。イスラエル人は捕囚の地で「それ」という奴隷の状態にありました。敗残者として、ものとして、卑しめられた。その中で、神は自分たちを「あなた」と呼んで下さる。そのことの中に現実の「それ」という関係が、やがて「あなた」という関係に変えられる望みを、イスラエルは見たのです。
3.再創造のわざとしての赦し
・今日の招詞としてエレミヤ29:10−12を選びました。次のような言葉です 「主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、私はあなたたちを顧みる。私は恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。私は、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。その時、あなたたちが私を呼び、来て私に祈り求めるなら、私は聞く」。
・先に述べましたように、創世記はバビロン捕囚期に書かれました。イスラエルは国を滅ぼされ、主だった人々は捕囚として敵国の首都に連行されました。王や貴族、祭司、軍人、技術者等1万人に上る人が捕囚となったと列王記下24章14-17節は伝えています。そのバビロンにいる捕囚の民に、預言者エレミヤは手紙を書いています。その手紙の一節が今日の招詞の言葉です。捕囚から数年が経過し、人々には悲観論が満ち溢れていました。神は私たちを捨てられたのではないかと言う絶望です。その人々に対しエレミヤは手紙を書きます「バビロンに七十年の時が満ちたなら、私はあなたたちを顧みる」(29:10)。エレミヤは言います「捕囚はあなた方の罪のために主が与えた鞭である。それは2年や3年で終らず、70年続くと主は言われた。だからその地に家を建て、園に果樹を植えて自立できるようにせよ。帰還はあなた方の子や孫の時代になるから、妻をめとり子を生み、その子たちにも子を生ませ、民を増やして帰還に備えよ」と。彼はさらに驚くべき使信を伝えます「それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」。
・70年は神にとっては一瞬かも知れませんが、生身の人間にとっては耐えられない時間の長さです。今、バビロンにいる人のほとんどはエルサレムに戻ることは出来ないと宣告されているからです。人々は絶望しました。しかし、やがてその絶望の中から、エレミヤの手紙に示された主の言葉の意味を考える人々が生まれてきました。神は私たちを滅ぼされたがまた救うと言われた、神は私たちの子供たちを再び故郷に戻してくださると約束された。人々は先祖からの伝承を調べ、それを民族の歴史として再編集して行きました。その結果、創世記を始めとするモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)と呼ばれる旧約聖書が生まれていきました。
・イスラエルの捕囚民が帰還を許されたのは、最初の捕囚から60年後の紀元前538年でした。捕囚を通して、イスラエルの民は、神の言葉=聖書を中心にする信仰共同体に変えられていきました。その共同体の信仰告白の言葉を、私たちは今、創世記と言う形で与えられているのです。ここには希望の告白がなされています。どのように暗い闇の中にあっても、私たちが神の名を呼び求めれば、神は聞いて下さる。その信仰が創世記1章2−3節「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ』。こうして、光があった」との記述の中に息づいているのです。創世記は天地がどのようにしてできたのかを問う科学書ではありません。従って、創世記の記事をもとに、進化論その他の科学的真理を否定するのは愚かな行為です。また、それは単なる民族の起源神話、非科学的な記述として無視するのも同じように愚かです。私たちは創世記を、苦難の中に置かれた民が、人とは何か、神とはどなたかを追い求めた信仰の書として読みます。そのとき、創世記は現在の私たちに生きる力を与える神の言葉となっていくのです。