1.神の国は来た
・今日、私たちは終末の問題を考えます。終末、世の終わり、初代教会の人々はイエスの復活を見て、この人こそメシアだと信じました。そのメシアは終末の時に来ると旧約聖書は預言しています。「メシアが来られた、終末が始まった。自分たちの生きている間に、世の終わりが来る」と信じた彼らは、土地や建物を売って共同体に献げ、共に住み、祈り、終末を待ちました。その緊張感が教会を立てあげて行きました。現代の私たちは、終末や再臨の緊張感はありません。結果的に終末は来なかったし、またいつ来るかわからない。そのようなものに囚われるよりも、現在をいかに生きるかが私たちの関心事です。しかし、本当に、現在だけに関心を持って生きていて良いのかと聖書は私たちに問います。それが今日、お読みするルカ17章20節以下の箇所です。
・ルカ17章にはイエスの終末預言が述べられていますが、正しく理解するためには、当時の人々が終末、あるいは神の国をどのように理解していたかを知る必要があります。当時のイスラエルはローマ帝国の植民地でした。それまでも長い間、異邦人の支配下にありました。イスラエルが独立国として栄えたのは、ダビデ・ソロモンの時代だけであり、その後はアッシリア・バビロン・ペルシャ・ギリシャ等の大国に次々に支配され、今はローマの支配下にあります。これは「自分たちこそ神の選びの民」と信じるイスラエル人にとっては耐えられない現実でした。彼らは自分たちの神がこれら異邦人を滅ぼすために、メシア(救世主)を遣わし、いつの日か自由になる日が来ることを待ち望んでいました。その日こそ、「終わりの日、自分たちが解放される日」です。
・パリサイ人もまた神の国を待望していました。彼らもまたメシアが一日も早く来るようにと望んでいたのです。だから彼らはイエスに尋ねます「神の国はいつ来るのですか」(ルカ17:20)。それに対してイエスは答えられます「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』、『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(17:20-21)。神の国は既に来ている、私の到来と共に来た。しかし、あなたがたは私をメシアと認めない、だから神の国が来たことが見えない。今起こりつつある事柄を見てみよ「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」ではないか(ルカ 7:22)。こんなにしるしが与えられているのになぜ見えないのかとイエスは言われます。
・パリサイ人は納得しません。そこでイエスは、パリサイ人との対話を止め、弟子たちに神の国の奥義を語られます。それが17:22以下の部分です。「神の国は来たが、まだ完成していない。神の国は私の再臨と共に来るであろう。その時まであなたがたは苦難、迫害を受けるだろう。私こそ再臨のキリストだという者が出てくるであろう。しかし、惑わされてはいけない。神の国がいつ来るかは父のお定めになることで、誰にもわからない」(17:22-25)。しかし、終末の日は必ず来る、あなたがたは目を覚まして待ち望みなさい。そして、ノアとロトに起こった事を思い起こしなさいとイエスは話を続けられます。
・ノアは「洪水が来るから箱舟を造りなさい」という主の言葉を受けて箱舟の建造を始めますが、人々はノアを嘲笑して言いました「こんなにいい天気ではないか、どこに洪水があるのか」。人々は相変わらず、食べたり飲んだり娶ったりして、現在の楽しみを追い求めました。その結果何が起こったのか、洪水でこれらの人々は滅ぼされたではないかとイエスは言われます。またロトの時代の事を思い起こしなさいとイエスは警告されます。主は罪にまみれたソドムを滅ぼすことを決意され、ソドムに住むロトに山に逃げなさいと言われました。ロトは親族たちに「共に逃げよう」と呼びかけますが、誰も本気にせず、その結果、火山の爆発でソドムの町は焼かれ、住民は死に絶えました。終末に備えよ、その準備をしない者は滅びるとイエスは警告されています。
2.この終末預言を私たちはどのように聞くか
・今日の招詞にルカ21:34−36を選びました。次のような言葉です「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい」。
・先に述べましたように、現代の私たちは、終末や再臨のことを考えません。結果的に終末は来なかったし、またいつ来るかわからないようなものに囚われるよりも、現在をいかに生きるかが私たちの関心事だからです。しかし、聖書は警告します「終末は必ず来る。備えをしないで滅ぼされる者は愚かだ。あなたがたは滅んではいけない」。私たちはこの言葉をどのように聞くのでしょうか。私たちが「終末」を、「自分の死」と言う言葉に置き換えた時、今日の聖書個所は私たちの問題になってきます。
・私たちは今日生きています。明日も生きるでしょう。恐らくは明後日も。しかし、いつかは死にます。明日は今日の繰り返しではありません。私たちは死に向かって毎日を歩んでいるのです。だから聖書は言います「目を覚ましていなさい」。「死に向かって歩んでいるのに、今のような生き方を続けて良いのか」と問われているのです。私たちにとって終末を覚えると言うことは、私たち自身の死を覚えることなのです。
・死は私たちの理解を超える出来事です。死んだらどうなるのか、誰もわからない。わからないから怖い。怖いから、人は死を見つめようとしません。多くの人は将来の死を考えないようにして、現在を楽しもうとします。しかし、それは何の解決にもなりません。イエスが言われたように、それはノアやロトの時代に人々のとった態度です。死を考えずに生きることは、現実逃避なのです。別な人々は「この世は悪の世である」として、来世に望みを置く信仰に走ります。クリスチャンの中にも霊的交わりを強調する人たちもいますが、それは死を忘れるために神秘に目を向けているだけで、死そのものは克服されていません。聖書は第三の道を私たちに示します「目を覚ましている」生き方です。目を覚ましている=死を見つめることです。
・人間は必ず死にます。必ず死ぬ日が来るから、死を見つめて生きる。もし、私たちが癌に冒され1年後に死ぬことが解っていれば、私たちの生き方はそれまでと変るでしょう。もはや大きな家も豪華な車は要らない、やがて使えなくなるからです。会社で偉くなることも、事業の成功も特別の問題でなくなります、その時にはいないからです。暇つぶし的な時間の過ごし方はしません、残された時間は少ないからです。私たちがやがて死ぬことを自覚した時、私たちは本当に大事なものだけを求める人生を生きるようになります。
・パウロは、人は死によって眠りにつき、世の終わりの時、ラッパの音で眠りから覚めると考えました(1コリント15:52)。そうであれば、個々人にとって世の終わりとは、それぞれの死と同じなのです。私たちはこの世で悪を為しながら栄える人がいることを知っています。誠実に生きながら報われない人生をおくる人がいることも知っています。それで良いのです。矛盾に満ちた現実は必ず終る。キリストが来られ、十字架につけられ、その死から甦られたことは、この世がやがて終ることのしるしです。イエスは言われます「天地は滅びるであろう。しかし私の言葉は決して滅びることがない。」(ルカ21:33)。世の人々は、この世の状態が何時までも続くと思い込んでいますから、世から取れるものは何でも取ろうと貪欲に生きます。しかし、キリスト者は自分の生が終るように、この世も終ることを知っていますから、世と世の出来事に執着しません。家よりも車よりもお金よりも大切なものがあることを知っているから、天に宝を積みます。天に宝を積むとはこの世では損をすることです。返すあてのない人にお金を貸し、感謝を受けることなしに人に尽くすことです。世界では多くの人が食べるものに事欠き、戦争の中で死んでいる現実があることを知りながら、自分一人は大きな家で快適に暮らし、贅沢な食べ物を食べ、立派な車に乗っている人は眠っている人です。そのまま眠り続ければ滅びる、だから「目を覚ましていなさい」。人がこの世で良い生活をし、死んでからも天国に行きたいと願うのは虫が良すぎるのです。
・最期にヤコブ書5章7-9節を読んで終りましょう「だから、兄弟たちよ。主の来臨の時まで耐え忍びなさい。見よ、農夫は、地の尊い実りを、前の雨と後の雨とがあるまで、耐え忍んで待っている。あなたがたも、主の来臨が近づいているから、耐え忍びなさい。心を強くしていなさい。兄弟たちよ。互に不平を言い合ってはならない。さばきを受けるかも知れないから。見よ、さばき主が、すでに戸口に立っておられる」。主は既に戸口に立っておられる。その主に対し「主よ、来たりませ(マラナ・タ)」(ヨハネ黙示録22:17)と私たちは祈るのです。