江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2007年8月5日説教(ローマ12:9-21、復讐するな)

投稿日:2007年8月5日 更新日:

1.愛し合いなさい

・今日、私たちは8月第一週の礼拝を迎えています。8月は私たち日本人にとって特別の月です。62年前の8月15日に日本は戦争に負け、「もう過ちは繰り返さない」という決意を持って、国の再建に取り組んできました。戦争の悲惨さを体験したから、「もう戦争はしない」と宣言し、それを憲法に書き込みました。その8月第一主日の御言葉として、私たちにローマ12章が与えられました。中心となる聖句は18-19節です「あなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」。「復讐するな」とパウロはローマの人々に書きます。今日はパウロの手紙を元に、戦争と平和について聖書が何を語るのかを学んでいきます。
・パウロはローマ帝国の各地で開拓伝道をしながら、いつかは首都ローマに行って伝道したいという希望を持っていました。その準備として、彼はローマにいる信徒たちに手紙を書きます。手紙の前半で、彼は自分がキリストに出会って罪を知った事、悔い改めた事、新しい生き方を示された事等を述べています。「神は私を救うためにキリストを十字架につけるという犠牲を払って下さった。この神の側からの救いの申し出に対して、私たちはどう応答したらよいのだろうか」を述べたのが、12章以下の言葉です。
・12章9節以下で、パウロは私たちはどのように生きるべきかを述べます。中心になる言葉は愛です。彼は言います「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」(12:9-10)。この「愛」には冠詞がついています。「ヘ・アガペー=The Love」、その愛、神によって示された愛です。私たちが「人を愛する」と言う時、そこには好き嫌いという感情が入ります。好きな人を私たちは愛し、嫌いな人は愛しません。この愛はエロスと呼ばれます。聖書はエロスの愛を否定しません。人間として当然な感情だからです。しかし、エロスの愛だけでは人間としての交わりは不可能です。なぜなら、そこには敵と味方が生じ、敵がいる以上、そこに争いが生まれます。
・嫌いな人をも受け入れる愛、それがアガペーです。パウロは言います「教会に集まる兄弟姉妹を、実の兄弟姉妹のように愛しなさい」。教会に集まる人の中には、良い人も悪い人も、尊敬できない人も、好きになれない人もいます。そのような人でも「愛しなさい」と言われています。私たちは嫌いな人を好きになることは出来ませんが、嫌いな人を受け入れることはできます。何故なら神がその人を受け入れておられるからです。今日、私が礼拝の場にいることは、神が私を条件無しに受け入れて下さったからであり、隣に座る人もまた同じように受け入れられているのであれば、私がその人を嫌いでも、その人は私の兄弟姉妹になります。アガペーの愛とは好き嫌いという感情を超えた愛です。ここに、教会において、違う人を受け入れていく愛=兄弟愛(フィラデルフィア)が成立します。その兄弟愛を教会外の人に及ぼした時、敵を愛するという生き方が生まれてきます。
・教会は世にあり、私たちも世に生きます。しかし、世は私たちを憎み、迫害します。何故ならば、私たちの生き方が世と異なるからです。その時、どうすれば良いのか、パウロは言います「「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」(12:14)。この言葉は先週学んだペテロの言葉と同じ響きです。ペテロは言いました「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」(〓ペテロ3:9)。二人の言葉の背後には、十字架上で、自分を殺そうとする者のために祈られたキリストの言葉があります。キリストは祈られました「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)。キリストが赦されたのであれば、私たちも赦していく、そこに「敵を愛し、迫害する者のために祈る」行為が出てきます。


2.敵を愛し、迫害する者のために祈れ

・今日の招詞として、マタイ5:43−44を選びました。次のような言葉です「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、私は言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」。イエスが語られた山上の説教の一節です。イエスはこの言葉を旧約レビ記の新しい解釈として話されました。レビ記にはこのように書いてあります「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ記19:18)。レビ記には敵を憎めとは書かれていません。しかし、多くの民族が住むパレスチナでは、隣人とは同じ民の人々、同朋のことであり、同朋でない者は敵でした。人々は敵から身を守るために高い城壁をめぐらした町の中に住み、城門の内側にいる人が隣人で、そうでない者は敵であり、敵を愛することは身の危険を意味しました。イエスはそれが人間の自然な感情だと知っておられました。それでもイエスは言われます「父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、雨を降らして下さる。あなたも父の子として敵を愛せ」と。
・イエスの時代において、敵を愛することは危険でした。今日においても状況は変わりません。多くの人々は、イエスの言葉は理想主義的で、非現実的だと考えます。人々は言います「愛する人を守るためには暴力も止むを得ない。そうしなければ、この世は暴力で支配されるだろう。悪を放置すれば、国の正義、国の秩序は守れない。悪に対抗するのは悪しかない」。この論理は現代においても貫かれています。軍隊を持たない国はありませんし、武器を持たない軍隊はありません。武器は人を殺すためにあります。襲われたら襲い返す、その威嚇の下に平和は保たれています。しかし、悪に対抗するに悪で報いる時、敵対関係は消えず、争いは終りません。「目には目を、暴力には暴力を」、これが人間の論理であり、この論理によって人間は有史以来、戦争を繰り返してきました。
・イエスはこのような敵対関係を一方的に切断せよと言われます。「悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい」。悪は憎め、しかし、悪人は憎むな。何故なら、悪人もまた、父の子、あなたの兄弟であるから。人々はイエスを理解することが出来ません。殴られたら殴り返すことが正義である社会においては、仲間以外は敵であり、敵とは信用出来ない存在であるからです。人間がお互いを信じられない時、平和は生まれません。右の頬を打たれたら左の頬を出す、それだけが争いを終らせる唯一の行為だと聖書は言います。敵を愛せよ、敵を愛することによって、敵は敵でなくなるのだと。パウロはこのイエスの言葉を受けてローマ書を書いています「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる」(ローマ12:20-21)。

3.日本の現実の中で

・パウロの言葉「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる」を政治的に具体化したものが、日本国憲法です。憲法前文は次のように述べます「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」。人間の歴史、人間の本性から冷静に見た時に、この憲法は驚くほど“愚かな”憲法です。「諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持する」ことが出来ないことを、私たちは歴史を通して知っています。それにもかかわらず、この憲法は憲法9条2項で「一切の戦力はこれを保持しない。国の交戦権はこれを認めない」と宣言します。それはまるで、「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ26:52)というキリストの言葉の具体化です。この憲法は歴史的には、日本を占領したアメリカ軍の中の急進的なクリスチャンたちが起草したものであり、そこでは聖書の信仰が基礎になっています。いま憲法改正の動きが出ていますが、それは当然です。非キリスト教国である国の憲法が、聖書の言葉に基づいて書かれていますから、多くの人々が違和感を持っているのです。
・日本国憲法は人間の目から見たら愚かです。しかし、神の目から見れば、違う視点が与えられます。ダグラス・ラミスという政治学者が『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』という著書の中でこのように述べています「20世紀に国家の交戦権によって殺された人間の数が約1億5千万人であるが、その半分以上が自国の軍隊によって殺されている」。つまり、軍隊は敵を殺す以上に自国民を殺している、軍隊の主要任務は国内の治安維持であり、軍隊が国民を守っているわけではないと彼は言っています。これは真理です。
・また、報復がいかに愚かで、何の解決策にもならないことを、私たちはイラク戦争を通じて知りました。2001年9月11日に3000人以上の人がテロ行為で殺されたアメリカは、自国民を殺された報復としてアフガニスタンを攻撃し、イラクに攻め入りました。それから6年、戦争による米軍死者は4000人を超えました。3000人の命の報復に対して、4000人の犠牲を出したのです。イラク人の死者数は6万人を超えました。これだけの犠牲を払っても報復すべきなのか、この戦争は意味があるのか、軍隊とは本当に自国民を守るものなのかという疑問がアメリカ国内でも起きています。
・カトリック中央協議会は2003年度の声明の中で次のように述べています「日本は憲法9条を持つことによって国を守ることを放棄したのではありません。戦力を持たないという方法で国を守り、武力行使をしないで国際紛争のために働くと誓ったのです」。この62年間、一人の国民も戦争で死なせず、誰も殺さなかったのは、この憲法のおかげです。この憲法は歴史的に見ればアメリカ占領軍の押し付け憲法かもしれません。しかし、62年経ってみて、日本にこの憲法が与えられたことは、神の配慮だと思います。この憲法を持つことを、日本人として、キリスト者として、誇りにしたいと思います。

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