江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2007年3月11日説教(ルカ9:18-27、十字架を背負って従う)

投稿日:2007年3月11日 更新日:

1.イエスは十字架の道を選ばれた

・今、私たちは、受難節の時を迎えています。受難節は、イエスが十字架で死なれたことを覚える時です。イエスは従う弟子たちに言われました「私について来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」(ルカ9:23)。私たちはイエスこそキリスト、救い主だと信じ、従いたいと願いますが、「十字架を背負って従いなさい」といわれるとためらってしまいます。私たちが求める救いは、より良い人生、幸福な人生です。救いが十字架だと言われると、ためらい、おじ惑います。イエスの弟子たちもそうでした。救いは十字架にしかないのか、弟子たちは戸惑いました。今日は、私たちの信仰の核心であります、十字架と救いについて、ルカ9章から、学びたいと思います。
・イエスはガリラヤでの伝道を終えられ、エルサレムに向かわれる前、一人退いて祈っておられました。イエスの内なる声は「エルサレムに行け、そこでこそメシアのなすべきことがある」とイエスをうながしました。しかし、エルサレムはイエスを敵視する律法学者やパリサイ人の牙城です。そこに行けば捕らえられ、迫害されるかもしれない。現実にイエスの師であるバプテスマのヨハネは捕らえられ、殺されています。同じ運命が待っていることをイエスは感じられ、祈られました。どのような祈りだったのでしょうか。イエスは捕えられる前の晩に、ゲッセマネで祈られています「父よ、御心なら、この杯を私から取りのけて下さい」(ルカ22:42)。死ぬことに対する恐怖をイエスが持たれたことを聖書は隠しません。しかし、そのイエスは祈りを続けられています「しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってください」。おそらく、ここでも同じ祈りが為されたのでしょう。「御心であれば、エルサレムに行きます。待っているものが苦難であっても従います」とイエスは祈られたのでしょう。
・祈り終わった後、イエスは弟子たちに問われます「群衆は、私のことを何者だと言っているか」(ルカ9:18)。弟子たちは答えます「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます」。イエスは病人をいやし、悪霊を追い出されました。このような行いを見て、群衆は「この人は只者ではない」と思ったのでしょう。イエスはさらに弟子たちに問われます「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか」。それに対してペテロは答えました「神からのメシアです」。「あなたこそ、神の子、キリストです」とペテロは信仰告白をしました。
・このペテロの告白はイエスを励ましました。今こそ、弟子たちに自分の使命を話す時だとイエスは思われたのでしょう。エルサレムで何が起こるかを弟子たちに話されました「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」。原文に近い英訳では次のようになります「The Son of Man must suffer=人の子は苦しみを受けなければならない」。ギリシャ語のデイ=ねばならない、神の必然と呼ばれる言葉がここに使われています。イエスが苦しみを受け、十字架で死に、三日目に復活することは、神のご意志による、だから私は従うのだという強い意思がそこに表現されています。
・「私はエルサレムで捕えられ、殺されるだろう」というイエスの言葉は、弟子たちにとって受け入れがたいことでした。並行箇所・マタイ16章では、受難予告を聞いたペテロがイエスをいさめています「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」。それに対してイエスは「サタン、引き下がれ」とペテロを一喝されます。救い主が苦しみを受け、殺されるなどということは、人間には想像も出来ないことです。しかしそれが理解できなくとも、従っていくのが信仰だ、それを自分の思いでゆがめるのはサタンの業だとイエスは言われています。

2.自分を捨て、自分の十字架を負って

・私たちは自分の思いを神に押し付けようとします。神はこういう方であって欲しい、救いとはこうであって欲しいと願うからです。ペテロがイエスの受難を否定したのは、イエスに力と栄光に満ちた歩みを期待したからです。それは、イエスに従う自分たちもまた報われることを意味します。イエスの弟子となることによって、良い地位を得、幸せになり、尊敬される生き方をしたいと願っていますから、そのイエスが苦しみを受け、殺されることは困るのです。私たちも、信仰者として同じ期待を持っています。信仰があれば、より良い人生が送れる、より正しい、より清い、より幸せな生活が与えられる、苦しみや不幸に遭うこともなくなる、私たちもまたそう願っています。しかし神が私たちに与えようとしておられる救いは、独り子イエスが苦しみを受け、十字架に殺され、三日目に復活することによるものです。それ以外に私たちの救いはないと言われます。それは私たちの罪のためです。私たちには贖わなければならない罪がある。その罪を購い、赦す為に、神は独り子を犠牲として十字架につけざるを得なかったのです。
・イエスを通してしか救いがないのですから、イエスが歩まれた道を私たちは歩みます。その私たちにイエスは、「自分を捨て、自分の十字架を背負って従いなさい」と言われます。「自分を捨てて」です。私たちは、自分を捨てるとは、自分の願いや望みの一切を捨てる、自己を無にすることだと思い込みます。「自分の十字架を背負って」とは「苦しみを負いそれを忍耐する」ことだと考えます。だから「自分を捨て、自分の十字架を背負って従いなさい」と言われるとためらうのです。しかしイエスが言われることは違います。イエスは続けられます「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のために命を失う者は、それを救うのである」(9:24)。イエスのために命を失うように見える生き方をする者こそが、本当に命を得ることができるのだと。それは、自分のことを考えるのをやめなさいということではありません。むしろ、本当に自分のためになることは何かを考え、求めなさいと言われているのです。次にイエスは「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか」と言われます。「何の得があるか」、自分のことなど二の次にしてではありません。「自分を捨て、自分の十字架を背負って」というのは、その道こそが本当に自分のためになる、本当に自分を大切にする生き方なのだから、そうしなさいと言われているのです。
・今日の招詞として、ルカ12:20-21を選びました。次のような言葉です「しかし神は『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」。「愚かな金持ちのたとえ」と呼ばれている箇所の一部です。物語は次のように展開します「ある人の畑が豊作で、有り余るほどの穀物が収穫され、それを倉にしまい込みます。そして金持ちは自分に言い聞かせます『これでもう自分の人生は安心だ』。すると神は言われました『愚か者よ、今夜、お前の命は取り上げられる』」。この金持ちが「愚か」であったのは、財産によって自分の人生が支えられ、安泰になると思ったからでした。彼は、命はお金では買えない、命を根本において支え、導き、支配しておられるのは神であることを忘れていたのです。「全世界を手に入れても自分の命を失う」とはそういう生き方です。人には獲得し、蓄え、所有し、守りたいという衝動があります。それらのものを手に入れれば、安全と自己実現は為されるとの思いがあります。しかし、それが幻想であるのは、たとえが示すとおりです。
・「自分の命を救いたいと思う」とは、自分が持っているもの、自分の蓄え、自信、良いことをしているという自負、そういった自分の力で自分の命を救おうと思い、また救うことができると思っている姿勢です。金持ちが穀物を倉に貯め込んで「もう安心だ」と思った、それが「自分の命を救いたいと思う」人の姿なのです。しかしそれは愚かなことです。私たちの命は、私たちの力や努力、何を持っているかによって支えられるのではなく、神が導いておられるのです。その神の守りと支えをいただくことこそが、本当に命を得ることになるのです。
・命への道が「獲得し、蓄え、所有し、守る」ことでないとすれば、それは「感謝していただき、与え、仕える」道です。ルカでは「日々、自分の十字架を背負い」とあります。毎日の生活の中で従うということです。具体的には、自分の大事なもの、たとえば時間とお金を捧げていく生き方です。私たちは何故主日の礼拝に集うのか。せっかくの休日に、行楽地にも行かず、家族との団欒も捨てて、教会に集まる。それは一週間が守られたことを感謝し、最後の一日を主に捧げるためです。礼拝で主の言葉をいただいて、次の一週間を生きる力が与えられるからです。聖書では、収入の十分の一を捧げよと言います。収入は神が与えて下さったのだから、その一部を神に返すのです。皆さんが教会に捧げる月約献金は牧師の給与になり、教会の水道光熱費等になります。それにどのような意味があるのか、十分の一献金は痛みを伴うお金なのにと私たちは思います。痛みを伴うからこそ価値があります。この痛みを通して、私たちは「獲得し、蓄え、所有し、守る」ことから解放されていくのです。牧師の給与を皆さんが支えることを通して、牧師は聖書を学び、祈り、御言葉を語ることが出来ます。そのことを通して、地域の人々に救いの言葉が語られていく。「十字架を背負って従う」とは世の人から見れば愚かです。それはイエスが十字架で死なれた時、誰もが思ったことです。しかし、十字架は愚かではなかった。イエスを十字架につけたローマ帝国ははるか昔に滅びましたが、イエスの言葉は今でも多くの人が聞き続けています。パウロが言うように「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」(〓コリント1:25)のです。十字架の道は決して我慢と忍耐の道ではありません。この道を通して、人が本当に人として生きることができる、そのことを覚えたいと思います。

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