江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2007年2月11日説教(ヨハネ10:7-18、良い羊飼いは羊のために命を捨てる)

投稿日:2007年2月11日 更新日:

1.良い羊飼いとは誰か

・市川大野教会と講壇交換を始めて、今年が三回目になります。このような形で、近隣教会と交わりが持てますことを感謝いたします。市川大野では、牧師がこの三月で退任され、新しい牧師を招聘する準備をされておられます。そのような時期ですので、今皆さんは、「牧師とは何か」「牧師と信徒のありかたはどうあるべきか」に強い関心をもっておられると思います。イエスは昇天される前、ペテロに「私の羊を養いなさい」と命じられました(ヨハネ21章)。ペテロはイエスの命に応えて、生涯を伝道者、牧会者として生きます。そして世を去る時、群れの世話を教会の長老、執事に託しました「あなたがたに委ねられている神の羊の群れを牧しなさい」(1ペテロ5:2)。群れを養うという牧会の業はこのようにして受け継がれ、今日においては、牧師が羊の群れを養う者とされています。牧師とはラテン語パストアの訳であり、パストアとは羊を飼う者の意味です。牧師は教会に集う群れを養う責任を、キリストから委託されています。群れを養うとはどういうことか、牧会とは何か、その原点を、今日はヨハネ10章を通して学びます。
・イエスは「私こそ良い羊飼いだ」といわれました。「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:11)。群れのために命を捨てる羊飼いこそ、良い羊飼いだといわれています。この言葉の真意を探るために、イエスがこの例えを語られた背景を見てみましょう。羊飼いのたとえはユダヤ人、直接的にはパリサイ派の人々に対して語られています「イエスは彼ら(パリサイ派の人々)にこの比喩を話されたが、彼らは自分たちにお話しになっているのが何のことだか、わからなかった」(10:6)。前の9章で、イエスは盲人の目を開けられましたが、その日はたまたま安息日でした。その場にいたパリサイ派の人々は、「盲人の目が開けられた、神の偉大な業が為された」、ことを共に喜ぶことをせず、イエスが安息日に癒しをされたことを問題にします。安息日の戒律違反として、イエスを攻めたのです。イエスは反論されます「あなたは何故、一人の人の目を神が開けてくださった、その良い業を喜ばないのか。あなたがたが思うのは自分のことばかりであり、託された羊のことではない」。あなたがたは「良い羊飼いではない」として、このたとえが語られています。
・ヨハネ10章には三種類の羊飼いが出てきます。最初は盗人であり、強盗です。イエスは言われます「私は羊の門である。私よりも前にきた人は、みな盗人であり、強盗である。羊は彼らに聞き従わなかった。」(10:7-8)。旧約の預言者エゼキエルが批判したのも、民を養わず、自分たちを養う指導者たちです。「災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが・・・弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。・・・彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった」(エゼキエル書34:2-4)。何時の時代でも世の指導者は、民の利益よりも自分の利益を優先します。日本においても、政治家の主たる関心は利権で、選挙のために、必要のない空港や道路や橋を作り、その結果発生する赤字を税金で尻拭いさせます。日本の牧師に、このタイプの牧会者はいません。日本のクリスチャンは人口1%にも満たない少数派ですから、牧師の俸給は低く、儲けるために牧師になることは不可能です。
・次に出てくるのは雇い人の羊飼いです。雇い人は報酬のために働きます。彼の関心は報酬であり、羊ではありませんから、狼=困難な情況が来ると逃げてしまいます(10:12-13)。イエスの時代、神殿には多くの祭司が仕え、民のために動物の犠牲を捧げていましたが、民が困窮しても気にかけることはありませんでした。祭司にとって、自分の生活の方が大事だったからです。現在、日本の多くの教会は財政危機を抱えています。信徒30人以下の教会は多く、そのような教会では信徒の献げる献金の大半が牧師給に消えてしまいます。牧師給を払えない教会は無牧、牧師不在になって衰えていきます。狼が来れば逃げる、無牧の教会が増えている現実はそれを指しています。前に見ましたように、日本では良い俸給を目指して牧師を志す人はほとんどいません。牧師の多くは、雇い人の羊飼いではありません。しかし、生活者として、俸給なしで働くことが出来ないのも事実です。
・最期にイエスが言われたのは「良い羊飼い」です。良い羊飼いは自分の羊のことを知り、羊もまた羊飼いを慕います(10:15)。パレスチナの羊飼いは一匹一匹に名前を付け、それぞれの特徴や性格を熟知しています。そして羊は彼の声をよく知っているので彼についていきます。良い羊飼いは、迷う羊があれば何処までも探しに行きます。一匹一匹の羊を自分の子のように大事にするのが良い羊飼いの第一の条件です。二番目の条件は「羊のために命を捨てる」ことです(10:15)。荒野では獣が羊を狙い、襲ってきます。羊飼いは杖で獣と戦い、羊を守り、場合によってはそのために命を落とします。良い羊飼いの最大の関心は自分ではなく羊ですから、羊のために命を捨てても悔いません。だから、イエスは言われました「私は命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父は私を愛してくださる」。と(10:17)。そしてイエスは実際に、彼の群れのために十字架で命を捨てられました。

2.群れのために命を捨てる羊飼いこそ、良い羊飼いだ

・良い羊飼いとは、群れの羊一匹のために他の持ち物全てを捨てる覚悟を持ち、最後には自分の命さえも差し出す用意のあるものです。しかし、牧師は人間であり、生活者です。生活者は教会の群れのために命を捨てることは出来ません。守るべき家族がいるからです。牧師は決して良い羊飼いにはなれない、このことを牧師も信徒も知る必要があります。本当の良い羊飼いはイエス・キリストだけなのです。だから聖書はイエスを「羊の大牧者」(ヘブル13:20)、あるいは「牧者たちの頭」(1ペトロ5:4)と呼びます。
・今日の招詞にヨハネ21:17を選びました。次のような言葉です。「三度目にイエスは言われた。『ヨハネの子シモン、私を愛しているか』。ペトロは、イエスが三度目も『私を愛しているか』と言われたので、悲しくなった。そして言った。『主よ、あなたは何もかもご存じです。私があなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます』。イエスは言われた。『私の羊を飼いなさい』」。
・復活されたイエスは、ガリラヤで弟子たちに現れ、共に食事をされます。食事の後で、イエスは三度にわたってペテロに尋ねられます「あなたは私を愛するか」。ペテロはイエスが三度も尋ねられたので、悲しくなって答えます「主よ、あなたは何もかもご存知です」。ペテロはイエスの裁判の時に、「イエスを知らない」と三度否認しました。だから三度も「愛するか」と確認された時、ペテロは下を向きました「あなたは私が弱く、罪を犯し続ける人間であることを知っておられます。私はあなたの前に何の申し開きも出来ません。ただ、あなたの赦しを願うだけです」。そのペテロに対してイエスは言われました「私の羊を飼いなさい」。ここにペテロの再バプテスマ、水ではなく霊によるバプテスマがあります。ペテロは先には弟子として召され、今は牧会者として召されたのです。イエスはペテロに続けて言われました「あなたは、若い時は、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」(ヨハネ20:18)。あなたは捕らえられ、刑場に連れて行かれるだろうとイエスは言われています。牧会者と信徒の決定的な違いは、牧会者は群れのために命を捨てることを求められていることです。
・ペテロはその後伝道者として、イエスの福音を語るために旅を続けました。しかし、弱さを持ったままの伝道者でした。ガラテヤ書によれば、「異邦人も割礼を受けなければ救われない」とするユダヤ主義者に迫られると、割礼を受けていない異邦人と一緒に食事をするのをためらうようになります(ガラテヤ2:11-14)。伝承によれば、ローマ皇帝ネロの大迫害が始まった時(紀元64年)、ペテロは勧められるままにローマから脱出しようとし、途上でローマに向かう幻のキリストに出会い、『私は再び十字架にかけられるためにローマに行く』との言葉を聞き、恥じて共にローマに戻り、そこで殉教したと伝えられています(シェンキェヴィッチ「クオ・ヴァディス」)。ペテロでさえも限界を持っていました。
・パウロは言います「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです」(〓コリント4:7)。良い羊飼いはキリストだけなのです。ペテロでさえ、良い羊飼いではなかった。牧師もまた、壊れやすい土の器で作られています。だから、過ちを犯します。しかし、ペテロは、イエスに励まされて、最後には群れのために死ぬことが出来ました。このペテロの弱さこそ、現代の羊飼い=牧師の基本条件ではないかと思います。自分は良い羊飼いにはなれない、良い羊飼いはイエスしかおられない、そのことを知る者こそ、牧師にふさわしいと思います。パウロは言います「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。私たちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています」(〓コリント13:4)。牧師は生活者としての限界を持っています。その限界を皆さんの前に示すことが出来た時、キリストにあって強くされる。ペテロもキリストに励まされて、群れのために命を捨てました。人が弱い時にこそ神が働いて下さる。足らない所は主が補って下さる。その信仰を牧師と信徒が共有できた時、限界者が限界を超えることが出来、土の器の牧師が良い羊飼い、群れのために命を捨てる者に、なれるのではないかと思います。

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