江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2007年11月11日説教(創世記12;1-9、新しい出発)

投稿日:2007年11月11日 更新日:

1.アブラハムの召命と旅立ち

・降誕前第七主日を迎えています。クリスマスを前に、私たちは創世記を学んでいますが、これまで学んだことは、「神の祝福を受けて創造された人間が、罪を犯して神に背き、神から離れていった」ということです。人は神に背き、離反しました。しかし神は人を見捨てられません。神は新しい救いの業として、一人の人を選び、彼に一つの民族を形成させ、その民族を通して人を救うことを計画されました。それがアブラハムの召命に始まったと創世記の著者は告白します。今日は、創世記12章を通して、アブラハムへの召命が、私たちの人生とどのような関わりを持つのかを学んでいきます。
・創世記12章1節は記します「主はアブラムに言われた。あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、私が示す地に行きなさい」。アブラム、後のアブラハムはメソポタミヤに住む遊牧民でした。遊牧民は牧草地を求めて移動生活をしますが、移動の範囲は、水と草が確保されていることが条件です。11:31を見ますと、アブラハムは父テラの時代に、カルデアのウルからハランまで移住しています。ウルはユーフラテス川とチグリス川が交差する河口の町、メソポタミヤ文明の発祥の地です。そこでは月神が礼拝されていました。太陽や月は被造物に過ぎないのに、それを拝む文明が生まれていた、神の創造の業が忘れ去られていたのです。神は創造の回復のために、アブラハムの父テラに偶像崇拝の町を離れ、新たな信仰の場を求めるように命じられ、テラはユーフラテス川に沿って北上し、上流のハラン地方まで移住しました。しかし、テラはそこで死にます。そのテラの息子アブラハムに、「ハランを離れて、私の示す地に行け」との神の召しがありました。
・ウルからハランまでは1000kmの距離がありますが、ユーフラテス川に沿う地域ですので、水と草はあります。水と草があり限り、羊や山羊を生計の手段とする、遊牧民の生活は保証されています。しかし、今回の神の示しは、ユーフラテス川から離れて砂漠を超え、カナンに行けというものでした。そこはメソポタミヤの遊牧民にとっては未知の地、水や草が保証されない地、盗賊や野獣の危険に満ちた地でした。神はアブラハムに「私を信じ、見たことのない地に行け」と言われました。「私はあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。・・・あなたを祝福する人を私は祝福し、あなたを呪う者を私は呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」(12:2-3)。「私があなたを養い育てる、その約束を信じて、一歩を踏み出せ」と言われたのです。彼はその時、75歳、人生の盛りは過ぎていました。妻サラは不妊で子供もありませんし、これからも子を持つ希望もありませんでした。アブラハムの人生はもう終わったようなもの、まもなく閉ざされる、その時に彼は召されたのです。彼は一言も問うことなく、カナンを目指して歩き始めます。
・この一歩が、世界史を変える一歩になります。このアブラハムからイサクが生まれ、イサクからヤコブが生まれ、ヤコブの12人の息子が後のイスラエル12部族を形成していきます。ユダヤ人にとってアブラハムは民族の祖です。このユダヤ教からキリスト教が生まれ、キリスト教においてもアブラハムは信仰の父(ローマ4:11)と呼ばれています。また、アブラハムは側女ハガルを通してイシマエルを生みますが、このイシマエルがアラブ民族の祖になっていきます。イスラム教もまたアブラハムから生まれていったのです。世界の三大宗教と呼ばれるユダヤ教、キリスト教、イスラム教のいずれもがアブラハムを父と呼んでいます。そのアブラハムの第一歩がこのハランからの旅立ちの中にあるのです。

2.約束の地でアブラハムが見たもの

・アブラハムは一族郎党を引き連れて、故郷を離れ、カナンを目指しました。長い旅の末にアブラハムはカナンの地シケムに入りましたが、そこにはすでにカナン人が住み、城砦を築いていました。主はアブラハムに言われます「あなたの子孫にこの土地を与える」(12:7)。子もなく、また先住民を制圧する武力も持たないアブラハムに、「この土地を与える」との約束が与えられました。アブラハムは黙ってそこに祭壇を築き、主を礼拝します。アブラハムはカナンの地をさらに南に下り、ベテルまで来ます。彼はそこにも祭壇を築き、主の御名を呼びます。アブラハムは更に南下し、砂漠のネゲブ地方へ移ります。
・新約聖書ヘブル書はアブラハムの信仰をたたえます。「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです」(ヘブル11:8-10)。確かにアブラハムは信仰の偉人です。でもアブラハムはシケムに来て、そこに強力な武器と城砦を持つ先住民がいるのを見て、何も思わなかったのでしょうか。ここが本当に約束の地なのか、彼は疑ったと思います。故に、彼はシケムを離れてベテルに南下します。そこには自分が土地を持つ可能性があるかもしれないと思ったからです。しかし、ベテルにも居場所はありませんでした。だから彼は、砂漠地帯の、攻撃される恐れのない、ネゲブにとりあえずの居を構えたのです。アブラハムは神の約束を疑い始めているのです。その疑いが10節以下で更に深くなります。
・約束の地に来たアブラハムを、最初に迎えたものは飢饉でした。旱魃のため、家畜に食べさせるための草も水も手に入れることができません。「せっかく約束の地に来たのに、何故主はこのような災いを下されるのか」、アブラハムは「私が養う」という主の約束に信頼できず、食を求めてエジプトに下ります。エジプトに行く道すがら、彼は妻サラが際立って美貌であることが気になります(約束の地に来た時、アブラハムは75歳、サラは65歳とされていますが、現代と年齢の数え方が異なりますので、今日的に言えばサラの年齢は30歳前後であったと推測されます)。さて、妻が美しいことは夫にとって誇りですが、弱肉強食の世界では危険です。強い者が力ずくで妻を奪い、夫を殺す可能性があるからです。アブラハムはサラに言います「あなたが美しいのを、私はよく知っている。エジプト人があなたを見たら、『この女はあの男の妻だ』と言って、私を殺し、あなたを生かしておくにちがいない。どうか、私の妹だ、と言ってください。そうすれば、私はあなたのゆえに幸いになり、あなたのお陰で命も助かるだろう」(12:11-13)。
・アブラハムの懸念は現実となります。エジプト王はサラの美貌に目を留め、彼女を宮廷に迎え入れます。そしてアブラハムはサラの兄として、王から多くの贈り物を与えられ、裕福になります。信仰の父と言われる人が、妻を売って身の安泰を保ち、金持ちになったのです。それは創世記3章で見たアダムの姿と同じです。「私の骨の骨、肉の肉」と愛した妻が過ちを犯し、その災いが自分に及びそうになるとアダムは言います「あなたが私と共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」(創世記3:12)。「私が悪いのではない。妻が悪いのです」とアダムは妻を見捨てます。アブラハムも妻をエジプト王のハーレムに売って、身の安全と繁栄を図ろうとしたのです。
・しかし、神はアブラハムとサラを救出されます「主は、アブラムの妻サライのことで、ファラオと宮廷の人々を恐ろしい病気にかからせた」(12:17)。ファラオは突然の疫病の原因がサラを召したことにあることを知らされ、アブラハムを呼び出して、サラを連れてエジプトを立ち去るように命じます。アブラハムは何も言わずに、与えられた家畜や金銀を持って妻と共にエジプトを去ります。アブラハムは恥ずかしさに顔を赤らめながら、再び約束の地に戻ります。彼がカナンに着いて、最初に行ったのは礼拝でした。「彼が初めに築いた祭壇の所に行き、その所でアブラムは主の名を呼んだ」(口語訳13:4)。

3.アブラハムの信仰の揺らぎと悔い改め

・今日の招詞にヘブル11:1を選びました。次のような言葉です「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」。アブラハムは信仰の偉人ですが、彼もまた聖人ではなかったのです。約束の地に来て、住民が城砦を構え強大であることを知れば、身の危険を覚えて砂漠のネゲブに隠れます。飢饉でエジプトに下れば、自分の妻を利用して身の安全を図ります。アブラハムも私たちと同じ罪人、同じ過ちを犯す人間だったのです。ここにおいて、アブラハムの生涯は私たちと関わりをもつものになります。
・アブラハムの最初の旅立ちは、ハランを出てカナンの地に向かった時でした。その後、アブラハムはエジプトで罪を犯し、恥ずかしい思いを抱いて約束の地に帰り、そこに祭壇を築き、主の御名を呼びました。その時こそが、彼の信仰者としての新しい出発です。聖書で信仰者と呼ばれる人は、決して品行方正の人ではありません。ダビデは人の妻に恋情を抱き、夫を殺して女を自分のものにしています。ペテロはイエスの裁判の時、そんな人は知らないと否認しました。パウロは伝道者になる前は、教会の迫害者でした。しかし、ダビデは過ちを通して自分が罪人である事を知り、新しい人間となりました。ペテロはイエスを否認した後、裁判の行われていた大祭司の屋敷を飛び出し、泣きました。その時の涙こそが、ペテロの洗礼の水です。パウロもそうです。ダマスコ途上での復活のイエスとの出会いが、パウロを迫害する者から迫害される者に変えました。
・私たちが自分の力に頼っている間は神が見えません。しかし、過ちを犯し、砕かれた時に初めて、主の御名を呼びます。その時、神はご自身を現して下さり、見えない神が見えるようになります。そして、自分の人生の歩みの中に、神の見えざる手が働いていることを知り、感謝します。まさに、信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することなのです。私たちも、自分の罪を知り、泣き、悔い改めた時こそが、人生の再出発の時なのです。そのことをアブラハムの生涯は私たちに教えてくれます。

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