江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2007年10月12日説教(使徒言行録6:1-7、違いを持って仕える)

投稿日:2008年10月12日 更新日:

1.教会内での対立の発生~何故起きたのか

・今日、私たちは使徒言行録を読みますが、使徒言行録6章はペンテコステの後、順調に成長してきた教会にもめごとが発生したことを私たちに伝えます。教会にもめごとが発生する、神の民の共同体にそんなことがあってはいけない、それは神を悲しませる行為だと私たちは思いますが、聖書は必ずしもそういいません。むしろ、「教会が地上にあり、生身の人間が教会を形成する限り、必ず争いや対立は起こる。それに目をつぶるのではなく、何故争いが起きたのか、どうすれば解決できるのかを祈り求めよ」と言います。現にルカは初代教会に争いが起きたことを隠していません。今日は使徒言行録6章を通して、「何が起きたのか」「それに対して教会はどう対処したのか」「その結果どうなったのか」を見ていき、私たちの教会へのメッセージを聞きます。
・使徒言行録6:1は記します「そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た」。もめごとの原因は「弟子の数の増加」、すなわち教会の成長にあったとルカは記します。教会はその最初は数十人の集まりでした。しかし、ペンテコステを機に改心者が多く与えられ、おそらくは数千人規模にまで教会は成長してきました。数十人でうまくいっていたシステムが数千に成れば機能しなくなるのは当然です。だからもめごとが起こったとルカは記します。
・そのもめごとは「ギリシア語を話すユダヤ人」と「ヘブライ語を話すユダヤ人」の間で起こりました。最初の弟子たちは「ヘブライ語を話すユダヤ人」、すなわちユダヤで生まれ、育ってきたヘブル人でした。そのうちに、「ギリシア語を話すユダヤ人」たち、ヘレニストと呼ばれるギリシア系ユダヤ人たちも弟子の群れに加わってきました。イスラエルは何度も外国勢力に支配され、そのたびに民が散らされ、多くのユダヤ人が海外で暮らしていました。そのディアスポラの子孫たちの一部がユダヤに戻ってきていました。彼らは外国生まれの一世、二世ですから、言語も習慣も違います。何よりもギリシア思想の影響を受けて神殿や律法に対する考え方が、地元のユダヤ人たちとは違っていました。従って、地元のユダヤ人たちと対立するようになって来たのです。
・ルカは記します「日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである」(6:1b)。普段からの反感が、食物の配給をめぐって不満となって表に出ました。初代教会においては原始共産制といわれる財産共有が行われ、裕福な人々は土地や家を売って共同体に捧げ、教会ではそれらの資金を基に貧しい人々への配給を行っていました。その配給は教会の指導者である使徒たちが決定し、実務は使徒の下にあるユダヤ人たちが行っていたのでしょう。そのユダヤ人とは、多数派のヘブル人たちです。人間の業ですから、親しい人には多めに、そうでない人には少なめに配給していたのでしょう。あるいは言葉が通じないの誤解もあったのかもしれません。ヘレニストたちは不満を持った。教会は信仰共同体ですが、実は地上の事柄、特にお金をめぐる争いが多いことは、長く教会生活をしておられる方はよくご存知だと思います。初代教会でもお金の用い方に不満が出ました。

2.教会はその対立に対してどうしたのか

・先に述べましたように、教会内で対立が生じるのは当然であり、問題はそれをどのように信仰的に解決していくかです。教会の指導者であった使徒たちは信徒総会を開催することにしました。6:2以下の記事です「そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った『私たちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、霊と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう』」(6:2-3)。使徒たちは問題を軽視せず、むしろそのことを教会の機能充実を図る機会として信徒集会を開催し、「日々の分配の業を担う奉仕者」を選ぶように提案します。ここに教会内において日常の世話をする執事と呼ばれる人たちが生まれました。日々の分配の「分配」という言葉、また食事の世話の「世話」という言葉は、原文では同じ「ディアコニア」という言葉が用いられています。「奉仕」の意味です。その奉仕を担うものが「ディアコノス=執事」と呼ばれるようになります。
・教会は日々の実際的な問題の解決、すなわち牧会を担当する者として「執事」という職分を作り、彼らに問題解決に当たらせました。それは使徒たちが本来の役割である宣教の業に専念できるようにするためでした。ルカは使徒たちの言葉を記します「私たちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします」。教会内の役職は教会の宣教の必要性から生まれます。そして教会の本来の使命は、祈りと御言葉の奉仕=宣教なのです。その宣教の業が妨げられないように、牧会を担う執事が立てられました。従来から牧師の二つの大きな業は「説教と牧会」だといわれてきました。日本の伝統の中では、説教よりも牧会に秀でた牧師が評価される傾向がありますが、これは本末転倒です。牧師の本来の業は説教、「祈りと御言葉の奉仕」であり、牧会は教会全体で行うべきものであると使徒言行録は記します。
・七人の執事が選ばれた時、使徒たちは「祈って彼らの上に手を置きました」(6:6)。祈って手を置く、「按手」と呼ばれます。教会では人をある務めに任命するときに按手を行います。それは聖霊が働いて、その人が与えられた奉仕の務めを果たすことが出来る力が与えられるようにとの祈りです。この執事の選任と按手を通して、教会内の指導者はどのようにして任職されるべきかが私たちに示されています。「指導者は下から生まれる」、執事の選任は信徒総会の総意でなされました。教会に仕えるために、教会が適任と思われる人々を選出したのです。同時に「指導者は上から任職される」、按手を通して主からの賜物をいただき、任職されます。すなわち、教会の指導者は「下から選ばれ、上から任職される」のです。
・私が今、この教会の牧師であるということは、信徒の皆さんの選任によるのであって、皆さんの支持を失ったらもう牧師であり続けることは出来ません。同時に私は神から召命され、その賜物をいただいた故に牧師職を続けることが出来ます。その賜物がなくなったら、すなわち教会に仕えるという召命感がなくなったら辞職するしかありません。牧師はこのように「下からの選任、上からの任職」という緊張感の上に成り立つ職務であります。これは教会の牧会の業を委ねられている執事の皆さんも同じです。執事もまた「下からの選任、上からの任職」という緊張感によって支えられている職務であることを覚える必要があります。

3.その結果、何が生じたか~悪をも善に変えられる神

・選ばれた執事たちがいずれもギリシア名を持つ者たちであったことに注目する必要があります。「ヘブライ語を話すユダヤ人」たちに偏っていた組織が、「ギリシア語を話すユダヤ人」たちに配慮することにより、教会のバランスが保たれ、それが将来の飛躍の源泉となっていきます。使徒言行録6章後半は執事に選ばれたステパノの逮捕と殉教を伝えています。使徒たちはイエスの教えをまだユダヤ教の枠内でしかとらえることが出来ませんでした。彼らは相変わらず神殿に行って祈り、割礼を守り、律法を大事にしていたのです。しかし、外国で生まれたヘレニストたちは神殿やユダヤ教祭儀から自由であり、そのためユダヤ主義者から憎しみを受け、迫害されました。ステパノは「神殿は崩れ去るものであり、律法はイエスが来られてその意味を変えた」と述べます。これは神殿と律法を大事にするユダヤ教原理主義者には耐えられない言葉でした。彼らはステパノを捕らえ、リンチにかけて殺します。イエスが十字架につけられた直接の原因も神殿批判でした。イエスの福音を正しく継承したのは実は使徒たちではなく、「ギリシア語を話すユダヤ人」たちだったのです。
・今日の招詞に使徒言行録8:4−5を選びました。教会が新しい職務、執事職を設けたことによって、何が生じたかを見るためです。次のような言葉です「さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた。フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた」。その前の8:1を見ますと、ステパノの殉教を契機に、「エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちの他は皆、ユダヤとサマリアの地方に散っていった」(8:1)とあります。文章を注意深く見ますと「使徒たちの他は皆」とあります。エルサレムを追放されたのはギリシア系の信徒たちだけであり、使徒たちは迫害の対象にならなかったことが示唆されています。使徒たちはユダヤ教の枠内にいたため、迫害する必要がなかったのです。
・エルサレムから追われた人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩きました。ステパノと同じく執事に選ばれたピリポはサマリアに行きそこで伝道しました。こうして福音がエルサレムから異邦の地に述べ伝えられるようになりました。彼らはやがてシリアのアンティオキアにも教会を立て、このアンティオキアで人々は初めて「キリスト者=クリスティアーノス」と呼ばれるようになります(11:26)。そしてこのアンティオキアを拠点に異邦人伝道がなされ、教会はローマ帝国の広い範囲に伝えられるようになります。
・教会内で、ギリシア系とユダヤ系の人々の間に対立が起こり、牧会の必要性から執事が選ばれました。執事たちは教会の役割を担うことを通してその信仰が強められ、そのことによって教会外部のユダヤ教原理主義の人々からの迫害を招き、エルサレムを追われました。しかし迫害を通して福音がエルサレムから異邦の地に述べ伝えられるようになった。ここに神の摂理があります。神は「悪をも善に変える力」を持っておられます。神は教会内の争いを福音伝道の力に変えられました。このことは私たちに何を伝えるのでしょうか。「教会内の争いや対立を恐れるな」ということです。教会には必ず争いや対立が起きる、起きた時にはそれを隠さないで表に出す。具体的には執事会や総会での討議を求める。そのことによって、主は必要な道を示してくださる。神は悪をも善に変えられる(創世記50:19−20)かたです。愚かな私たちの争いをも良きものに変えてくださる。この方を信じて、私たちはこの教会を形成していくのです。

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