江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2007年1月28日説教(2コリント6:14-7:1、神に生かされて歩む人生)

投稿日:2007年1月27日 更新日:

1.パウロを受け入れないコリント教会

・2007年に入って、使徒言行録やパウロ書簡を通じて、福音がどのように、エルサレムから世界へ伝えられて行ったかを学んでいます。パウロはアジア州での伝道の後、ヨーロッパに伝道し、ピリピ教会が生まれ、コリントにも教会が生まれていきました。その後、パウロはエペソの開拓伝道に向かいます。パウロ不在の間、コリントにはエルサレム教会から派遣された巡回伝道者が訪れ、パウロと異なる福音を宣べ始め、教会の信仰が次第に別のものに変わっていきました。パウロは、「キリストの十字架を受け入れることによって罪を赦される」と教えました。救いは神からの一方的な恵みによる、人はその恵みをただ受ければ良いのだと。しかし、エルサレム教会の伝道者は言いました「救いは恵みだが、その恵みに感謝して、戒めを守らないと救いは消える」。「恵み」だけでは人間は不安になりますから、いつでも「行い」を求めるようになります。彼らは、人々に、割礼を受け、律法を守るように指導しました。また彼らは、パウロはイエスの直弟子ではないから使徒ではない、パウロの教えはエルサレム教会の教えとは違う、等々の非難をしたようです。コリントの人々は次第にその影響を受け、パウロに批判的になっていきました。そのコリント教会に対し、パウロが書いた手紙が、今日私たちが読む第二コリント書です。与えられたテキストは6章11節からですが、5章から続く文脈の中で、手紙を読んでいきます。
・パウロは手紙の中で言います「私たちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです」(5:13)。敵対者たちは、パウロは気が狂っていると陰口をたたいていました。パウロは、かつては熱心なパリサイ派教師として、律法を軽んじるキリスト教徒を迫害していました。そのパウロが、復活のキリストに出会い、変えられます。「パウロ、パウロ、何故私を迫害するのか」、このキリストの言葉でパウロは地面に倒され、回心し、使徒として召されます。キリストの迫害者が一転してキリストの伝道者になったわけです。ですから、パウロは言います「私はキリストに反逆する罪を犯したのに、キリストはそのような私を使徒として召して下さった。このキリストの愛を知ったら、正気ではいられないではないか」。
・「その一人の方はすべての人のために死んでくださった」(5:15a)。キリストは私のために死なれた、キリストに出会ってその事を知った。この常軌を逸した神の愛を知った時、人はもはや平気ではいられない。だから「人はもはや自分のために生きるのではなく、自分のために死んで復活された方のために生きるのです」(5:15b)。パウロは、以前は、肉に従って人を見ていました。人の能力や外見に応じて、その人を判断していました。そこには人間的な好き嫌いが生じます。しかし、今は人をキリストの視点から見ます「キリストは彼のためにも死んで下さった」。その人を好きとか嫌いとかはもう関係ない。キリストが彼のために死なれたゆえに、彼は私の兄弟だ。キリストによってそのように変えられた。だからパウロは言います「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(5:17)。人は回心を通して、自分のために生きる存在から、他者のために生きる存在になります。「私は自分のためには何もしなかった。私の行為は全てあなたがたのためであった、そのことをわかって欲しい」とパウロは訴えます。

2.その人々に懇願する使徒

・パウロは続けます「神は、キリストを通して私たちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をお授けになりました」(5:18)。神が提示して下さった和解は、神の側からの一方的な行為、御子の犠牲の死という形で為されました。神が和解の手を差し伸べて下さった、人はそれを感謝して受けるだけで良いのだとパウロは言います。そして人々に勧めます「神と和解させていただきなさい」(5:20)。「あなた方は私を批判する。私を憎んでいるのではないかと思えるような激しさだ。もし、あなた方が私を憎んでいるならば、あなた方は神と和解していない。だからお願いする、神と和解させていただきなさい」。人と和解できない者は、神との和解が出来ていないのです。神は和解を通して、私たちの罪をもう数えないと言われました。その私たちが、まだ他者の罪を数え、非難するならば、神との和解が出来ていません。和解が出来ていなければ、そこにあるのは滅びです。パウロはコリントの人々に懇願します「コリントの人たち、私たちはあなた方に率直に語り、心を広く開きました。私たちはあなた方を広い心で受け入れていますが、あなたがたは自分で心を狭くしています。子供たちに語るように私は言いますが、あなたがたも同じように心を広くして下さい」(6:11-13)。
・その語調が6章14節から突然変わります「あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いなくびきにつながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。キリストとベリアルにどんな調和がありますか。信仰と不信仰に何の関係がありますか」(6:14-15)。牛とろばを、同じくびきにつなげば統制が取れなくなります。信仰者が不信仰者と交われば、信仰が曲がっていきます。パウロは、エルサレム教会の伝道者たちと分離せよ、縁を切れ、とここで勧めているのです。パウロは言います「だから、あの者どもの中から出て行き、遠ざかるようにと主は仰せになる。そして、汚れたものに触れるのをやめよ。そうすれば、私はあなた方を受け入れ、父となり、あなた方は私の息子、娘となる。全能の主はこう仰せられる」(6:17-18)。パウロは手紙の後の部分で、エルサレム教会の伝道者をサタンとさえ呼んでいます。このパウロの激しさが、彼を誤解させる一因になっています。しかし、この激しさは、人々への燃える愛から来ています「このまま行けばあなたがたは滅ぶ。滅ぶな。神と和解させていただきなさい」とパウロは叫んでいます。
・この激しい言葉の後で、パウロは再度人々に懇願します「私たちに心を開いてください」と。その言葉が7章2節からです「私たちに心を開いてください。私たちは誰にも不義を行わず、だれをも破滅させず、だれからもだまし取ったりしませんでした。あなたがたを、責めるつもりで、こう言っているのではありません」(7:2-3)。ここでの彼は使徒として、指導者としての、誇りも捨てています「あなた方は私たちの心の中にいて、私たちと生死を共にしているのです」。

3.神の御心にそった悲しみ

・招詞として、〓コリント7:10を選びました。今日のテキストの続きです。「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」。コリント教会はパウロの献身によって生まれ、成長してきました。パウロは「あなた方を生んだのは私だ」と言い、「あなた方のためなら私自身を使い果たしてもよい」とさえ言います。しかし、いつの間にか、人々の気持ちが、パウロから離れて行きました。パウロはコリントを再訪し、話し合いの場を持ちましたが、事情は好転せず、逆にパウロは非難・中傷を浴び、傷ついて、エペソに戻ってきました。そのエペソから、パウロは「涙の手紙」と呼ばれる問責の手紙を書きました。コリント第一の手紙と第二の手紙の間に書かれたと言われています。その手紙は現存していませんが、パウロに対して侮辱を加えた人物に対し、教会からの除名を求めるような激しさを持っていたようです。パウロは教会員を責めるような手紙を出したことを後悔し、苦しみますが、やがて手紙を見たコリントの人々が、パウロに謝罪し、悔い改めた事を知り、一転して、喜びに満たされます。
・その経験から生まれた言葉が、招詞の言葉です。厳しい叱責の手紙を書いて、あなたがたを悲しませたが、それは必要な悲しみだった。その悲しみはあなたがたに悔い改めをもたらし、悔い改めが和解の申し出となった。悲しみには、人に悔い改めを迫る「御心に適った悲しみ」と、自分勝手な、死に至る「世の悲しみ」がある。今あなた方が経験した悲しみは「御心に適った悲しみだった」のだとパウロは言います。私たちの人生の中で、失望や悲しみは、次から次へと襲ってきます。その失望や悲しみを私たちがどのように受け止めるか。それを神が与えて下さった悲しみと受け止める時新しい道が開かれ、それを不幸なことだと嘆く時悲しみは私たちを押しつぶしてします。二つの悲しみがあるのではなく、私たちが悲しみをどのように受け止めるかによって、悲しみの内容が変わってくるのです。コリント教会はパウロに反抗し、非難し、受け入れませんでした。そのことはパウロを悲しませましたが、その悲しみが、二つの手紙を私たちに残しました。そのコリント書は、苦しみの中にある多くの人々に慰めをもたらし続けています。コリント書ほど、パウロの肉声を伝える書はありません。そしてコリント書は、パウロの涙によって書かれた書です。パウロの涙がコリント書という宝物を残したのです。
・神は悲しみさえも良きものに変えて下さる、このことを知る時、人生の意味が全く変わっていきます。私たちの人生がどのような人生であっても、神はこの人生を良きものとして下さる、自分が一生懸命に生きたことを神は知って下さる。この一点を信じる者は、平安のうちに世を去ることが出来ます。昨年12月末に、神学校で集中講座があり、席上で、講師の松見俊先生が次のように言われました「1997年夏のほぼ同じ時期に、ダイアナ妃とマザーテレサがなくなった。ダイアナ妃は人に愛され、幸せになりたいと願い、それを追い続け、それが得られないままにこの世を去っていった。一方、マザーテレサは人に愛を与えたい、幸せを与えたいと願い続けた。マザーの生涯は満たされた生涯だったのではないかと思う」。幸福は私たちが何かを手に入れた、すなわち希望の学校に入学した、好きな人と結婚した、ほしいものを獲得した、等々ではありません。そのような喜びは一瞬に終わり、また新しい幸福の追求に追われていきます。幸福は、私たちの内側の満たしから来ます。人生には意味がある、悲しみにさえ意味がある、この悲しみを通して神は何かをしようとしておられる。そのとき、悲しみでさえ良いものに変えられていく。パウロはローマの獄に捕らえられた後、兵士たちが彼に接して神の言葉を求めるようになったことを知り、共に喜んでほしいと言いました(ピリピ1:12)。人は牢獄の中に捕らえられても、それを幸いとして、神を讃美する事が出来るのです。生きているのではなく、生かされている、やるべきことがある。それを知った人の人生は、どのような状況にあっても、それを喜べるものになるのです。

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