江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2007年1月21日説教(1コリント1:10-17、教会の不一致に悩む友へ)

投稿日:2007年1月21日 更新日:

1.コリント教会の分裂騒動

・新年に入って私たちは、エルサレムで生まれた福音がどのようにして、世界に広がっていったのかを、見ています。福音伝播の過程で明らかにされたのは、伝道したのは人でしたが、いつも神が先に働いておられました。最初の異邦人キリスト者コルネリウスの回心においては、神が使徒ペテロに幻を通して、異邦人を汚れた者として排除してはいけないことを示され、ペテロは異邦人の家に行き、彼にバプテスマを授けました。当時のユダヤ人は、異邦人と食卓に共にすることはしませんでしたので、このことは教会に驚きをもたらしました。アジアの異邦人に伝えられた福音はやがて海を越え、ヨーロッパにも伝えられて行きますが、そこにも神の導きがありました。エペソに行こうとしたパウロたちは“聖霊に禁じられて”トロアスに行き、そこからマケドニアに導かれ、ヨーロッパに初めて福音が伝えられました。教会にとっては、聖霊の導きこそ、行くべき道を示す案内人であったのです。しかし、教会はいつも、聖霊、あるいは神の声に耳を傾けていたわけではありません。時には、人の思いが勝って、教会内に混乱がもたらされました。コリント教会がそうでした。
・マケドニア伝道を終えたパウロはコリントに行き、1年半滞在して伝道し、そこに教会が生まれていきます。その後、パウロはアポロに後を委ねて、今度はエペソの開拓伝道に力を注ぎました。そのエペソにいるパウロのところに、コリント教会がおかしくなっている、人々が「私はパウロに」、「私はアポロに」、「私はペテロに」と言い争っているとの報告が届けられました。教会内の争いはいつの時代にもあります。今日、私たちは、パウロがコリントへ出した手紙を手がかりに、教会に争いが起きた時、どのように対処すればよいのかを学びます。
・パウロが去った後のコリントでは、人々がそれぞれの立場を主張して、他の人々と対立し始めていました。パウロに導かれてバプテスマを受けた人々は、パウロの教えを大事にしました。パウロの後継者アポロは博識で雄弁でしたので、アポロに導かれた人々は、アポロ派を形成していきました。そのアポロは、教会内に分派争いが生じた時、身を引いてコリントを去ります。手紙が書かれた当時、コリントには牧師がおらず、エレサレム教会からの巡回伝道者が訪れて、回心者にバプテスマを授けていたようです。巡回伝道者からバプテスマを受けた信徒たちは、「エルサレム教会の指導者ペテロこそ本当の使徒だ」といってペテロ派になったのでしょう。また、教会内の争いにうんざりしていた人々は「私はキリストにつく」と言って、別のグループを形成したようです。こうしてコリント教会は分裂状態に陥ってしまいました。
・パウロは教会の人々に問います「キリストはいくつにも分割されたのですか」(1:13)。教会はキリストが頭であり、指導者はキリストに仕える僕に過ぎないのに、何故、僕が主人より重視されるのですかと彼は問います。「アポロとは何者か。パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くために主がお与えになった分に応じて仕えた者」に過ぎないではないか(〓コリント3:5)。次にパウロは「私があなたがたのために十字架につけられたのですか」と問います。キリストが死んで下さったのであって、私が死んだのではない。あなた方は、私に救われたのではなく、キリストの十字架で救われたのだ。その十字架を仰ぎながら、互いに争うとしたら、十字架は飾りになってしまったのかとパウロは問いかけます。
・最後にパウロは言います「あなたがたはパウロの名によってバプテスマを受けたのですか」。「名によって=名の中へ」への意味です。あなたがたはバプテスマを受けて、キリストの名の中に入れられた、キリストに属する者とされた。それなのに誰がバプテスマを授けたかにどうしてこだわるのか。パウロからバプテスマを受けた者はパウロ派になり、アポロから受けた人はアポロ派になる、それが正しい信仰と思うのかとパウロは問います。バプテスマとは水に入ってキリストと共に一度死に、水から引き上げられてキリストと共に新しく生きることです。そのキリストに結ばれる行為が何故、人に結ばれる行為となるのかとパウロは問いかけます。

2.私からキリストへ

・コリント教会の争いは他人事ではありません。私たちの教会にも起こる出来事だからです。私の出身教会は中野バプテスト教会ですが、中野は前任牧師が開拓伝道をされ、その後40年間牧会された教会でした。先生が高齢になった時、新しい牧師が招聘されましたが、教会の中に前任牧師を慕うグループと、現在の牧師を慕うグループが分かれ、何人かの人は教会内の争いに嫌気がさして教会を出て行かれました。どこの教会でも、コリントの争いは起こりうるのです。では何故、そのような争いが起こるのでしょうか。パウロは、信仰が未熟だからだと言います「(あなた方は)相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる」(3:3)。「私はパウロに」、「私はアポロに」、そこには、“私”しかありません。信仰でさえ、自己中心に陥る危険があるのです。八木重吉は歌いました「キリストわれにありと思うはやすいが、われキリストにありとかすかに感じるにいたりしまでの道の遠さよ」。「キリストわれにあり」、自分の中にキリストを迎える、キリストにあって自分が清められて行く、それは難しいことではありません。しかし主語は依然として私です。主語が依然として“私”の信仰は未熟な信仰であり、未熟だから他者と争うのだとパウロは言います。「われキリストにあり」、自分がキリストの中に死んでいく、私ではなくキリストが生きる。主語が“私からキリスト”になった時、成熟した信仰になります。成熟した信仰者が集まる時、教会の中に争いは起きません。意見の違いはありますが、違いが争いになって行かない。それは、私ではなく、キリストが何を望んでおられるかが、行動の基準になるからです。

3.対立から一致へ

・今日の招詞に使徒15:10−11を選びました。次のような言葉です。「それなのに、なぜ今あなたがたは、先祖も私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に懸けて、神を試みようとするのですか。私たちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです」。異邦人コルネリウスがバプテスマを受けた時、エルサレム教会の人々はペテロに「あなたは割礼のない人たちと一緒に食事をした」と非難しました(使徒11:3)。ペテロの説明で、いったんは納得しますが、火種は消えませんでした。その後、異邦人改宗者が増えてくると、ユダヤ人は異邦人にも割礼を求めるようになります。救いはユダヤ人に与えられているのだから、異邦人もユダヤ人となるために割礼を受けなければいけないと主張したのです。パウロは協議のためにエルサレムに向かい、使徒会議が開かれ、異邦人に割礼を施すべきかどうかが議論されました。その席上でのペテロの発言が今日の招詞の言葉です。
・会議で意見は完全に二つに分かれました。ユダヤ人キリスト者たちは「救われた者はそのしるしとして割礼を受けよと聖書は記しているのではないか」と主張し、パウロたちは「それではキリストの十字架は何だったのか。割礼を受ければ救われるとしたら、キリストは何のために死なれたのか」と主張を譲りません。このままでは教会が二つに分裂してしまう、みんながそう思い始めた時に、ペテロが立ち上がって言いました「私たちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです」。10年前に私が異邦人コルネリウスにバプテスマを授けた時、神は私がバプテスマを授ける前に彼に聖霊を下し、彼を受け入れることを示して下さった。神が清めたものを、私たちが清くないなどと言えるだろうか。ペテロは、大事なのは、「私たちの考え」ではなく、「神の考え」だと述べていきました。長老ペテロの言葉で、会議の流れは変わりました。人々は静まり、他の人の意見を聞き始めました。そして異邦人に割礼を求めないことが、全会一致で決定されました。
・エルサレム会議の議論のあり方を、私たちも学ぶべきです。激しい論争がありましたが、最後は一致しました。現代の教会でも、意見の対立は起こります。経歴も立場も違う者が集められていますから、意見の違いがあるのは当然です。しかし、その違いが争いにならない、それが教会のあり方です。この世では、多数決で決定がされます。人間社会においては多数が正義なのです。しかし、教会では、多数が正義とは限りません。何よりも、多数で決定した場合、少数者のいる場所がなくなります。教会は少数者を含めて、共に生きる場所なのです。キリストは彼らのためにも死んで下さったからです。議論を尽くしても一致できない時、それは神の御心ではないとして、決定を見送る勇気が教会に求められます。現代では、会堂建設をめぐって教会が分裂することがよくあります。会堂を建てるためには多額のお金が必要であり、信徒それぞれに負担が求められます。生活が苦しい時、その負担は重いものになります。多数決で会堂建設が決定され、立派な教会堂が出来上がった時、反対した人たちが教会を出て行くことがあります。間違った教会決定の悲劇です。少数者が不幸である時、それはもうキリストの教会ではなくなります。全ての人が賛成できるまで議論を尽くす、一致できない時には待つ。それが教会のあり方です。私たちの教会堂も築35年ですから、近い将来、会堂建設が議論になるでしょう。私たちの信仰が問われる時です。
・パウロはコリント教会の人々に述べました「あなたがたを打ち倒すためではなく、造り上げるために主が私たちに権威を授けて下さった」(〓コリント10:8)。個々の信徒や教会が乱され解体されていくものではなく、造り上げられていく決定をしなさいというのです。それが出来ない時は決定しない勇気を持つ。私たちが求めるべきは、私たちの理想の完成ではなく、神の御心の実現なのです。私たちは何故教会を形成するのか、仲良しクラブを作るためではなく、神の御業が為されるためです。「Boys, be ambitious in Christ」、ウィリアム・クラークが言った言葉は、自分のためではなく、“キリストのために大志を抱け”という言葉でした。この言葉こそ、私たちは聴くべきなのです。

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