江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2007年1月13日説教(マタイ6:5-15、主の祈りを生きる)

投稿日:2008年1月13日 更新日:

                      

1.主の祈りを祈る 

・2008年正月の三が日、日本全国で9000万人の人が、明治神宮や成田山新勝寺、川崎大師などを初詣で訪れたそうです。ふだん無宗教のような日本人ですが、初詣には多くの人々が、神社仏閣に押し寄せます。この様子を見た外国人が、日本人はよく祈るといってびっくりしていたそうです。祈りということから考えるとキリスト者の場合は実によく祈ります。どんなに少なくても一日五回は祈るでしょう。まず朝起きて一日の始まりの祈りをします。そして三度の食事の前に祈ります。そして夜床に就く前に祈ります。これを一ヶ月にすると150回は祈ることになります。とてもとても初詣での時だけ祈るようなものではありません。したがってキリスト者の生活は「祈りの生活」ということになります。
・しかし、どう祈るかについて教会で学ぶ機会は意外に少ないように思います。私が信仰生活を始めて以来、祈り方について特別な指導を受けた覚えはありませんし、誰かに教えられて祈りの練習をしたこともありません。ある日突然、「献金感謝のお祈りをお願いします」と依頼され、「食前のお祈りをお願いします」と指名を受け、それを機会に先輩の祈りを真似て祈ってきました。こう考えると、私たちの祈りは学ぶものではなく、現場で形から入ってことが多いようです。形から入るということは、慣習的に仕方のないことかもしれませんが、祈りの内容、祈りに必要な要素について、あまり考えないという恐れがあります。だから、私たちはイエスが教えられた「主の祈り」を学ぶ必要があるのです。
・イエスはまず「くどくどと祈るな」と教えられます。当時のユダヤでは、あらゆる機会に祈ることができるように、祈祷文が定められていました。朝、昼、晩の他に、食前、食後の祈り、特別な祈りとしては嵐の時の祈りなどもあったようです。人生のあらゆる場面で神に祈ることは、一見良い習慣のようですが、些細なことにも定まった祈祷文があったため、祈りはしだいに形式的となり、口先だけの無意味な唱えごとになってしまいました。また、長い祈りをすることが、熱心で信仰深いと思われていました。だからイエスは、「異邦人のようにくどくどと祈るな、言葉数が多ければ神に聞き入れられると思っている」と批判されています。
・次にイエスは「人に見せるために祈るな」と教えられました。ユダヤ人は立って手を上にあげ、頭を下げて祈っていました。祈りは午前9時、正午、午後3時で、その時が来れば、どこに居ても祈らなければなりません。ちょうどその時、人の集まる広場や、人通りの多い町中であれば、人々に熱心に祈る姿を見せることが出来ました。会堂の入口や、石段の高い所で長時間祈れば、その深い信仰により人々の賞讃を受けることができました。イエスは神にきかれる祈りとは、このような祈りではないと教えられ、それからどのように祈るべきかを教えられました。それが「主の祈り」なのです。
・「天にいますわれらの父よ」とまず祈れと言われます。神が父であるならば、すべての人の父であります。ですから「主の祈り」は「私の父よ」とは祈りません。「私たちの父よ」と祈ります。神は誰かひとりの父ではなく、全世界すべての人々の父です。そして「父よ」と祈ることで、私たちは天の父と深い絆を保つのです。「御名が崇められますように」、神を讃える言葉です。神の存在を意識し、神の御名の尊さをほめます。「御国が来ますように、御心が行われますように、天におけるように地にも」。主の祈りを構成している六つの祈りの、最初の三つは、神の栄えの現れることの祈りで、「主の祈り」の特徴です。「御国」は神の支配の行われるところ、「御心」は神の意思、そして天において行われることが地でも、つまり人の世界でも行われるようにと祈ります。
・「私たちに必要な糧を今日もお与えください」。主の祈りは神の栄えを祈ることから始まりますが、人が生きてゆくために、食物が必要なことも忘れられていません。だから「必要な糧をお与え下さい」と祈ります。そして、その祈りは聞かれます。「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか、と言って、思い悩むな。・・・あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである」(6:31-32)とイエスは約束しておられます。この約束の上に立って、「必要な糧を今日もお与え下さい」と祈るのです。
・「私たちの負い目を赦してください。私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように」。神の赦しを願う者は、自らの赦しを願う前に他者を赦さなければなりません。他者を赦さない者は、赦される資格がないとイエスは言われるのです。イエスはこの主の祈りを教えられた後に、言葉を続けられます「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」(6:14-15)。これは、イエスが、「私たちの負い目を赦してください、私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように」という祈りを再度確認されたものです。六つの祈りはどれも大事ですが、その中でも、五番目の、「人を赦す」祈りをイエスは特に大切にされているのです。
・「私たちを誘惑にあわせず、悪しき者から救ってください」。試練は鍛錬を目的としますが、誘惑の行き着く所は堕落です。試練は神からですが、誘惑は悪しきものから、または悪しき心から出ます。誘惑にあわないためには神の守りが必要です。この世に悪の力が働いていることは事実で、聖書はこの悪の力を否定してはいません。試練は神から、誘惑は人の心から出ます。そして人は誘惑に弱い。だから、「試みにあわせず、悪より救い出して下さい」と祈るのです。

2.主の祈りを生きる

・今日の招詞として、マタイ18:18−20を選びました。次のような言葉です「はっきり言っておく。あなた方が地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなた方が地上で解くことは、天上でも解かれる。またはっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、私の天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」。
・キリスト者の祈りは、どのような祈りも、その骨組みに「主の祈り」の要素をもっています。その「主の祈り」は「私」ではなく、「私たちの」祈りです。「我らの父」に向かって、「我らの糧」を求め、「我らの赦し」を請い、「我らの救い」を願います。キリスト者の祈りは、個人の祈りではなく、共同の、共に祈る祈りなのです。だからイエスは言われます「どんな願い事であれ、あなたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、私の天の父はそれをかなえてくださる」、また「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる」と。
・共同の祈りであれば、「自分の糧、自分の赦し、自分の救い」だけでなく、「他者の糧、他者の赦し、他者の救い」をも祈ります。この祈りを通して、私たちの心が広められていくのです。イエスは言われました「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」(マタイ25:40)。神を愛するとは人を愛することであり、人を拒むとは神を拒むことなのです。ですから、私たちは、他者のために祈ります。
・しかし、「主の祈り」と「キリスト者の祈り」と大きく違うところがあります。ヨハネ福音書14:13-14にはこう書かれています。「私の名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。私の名によって何かを願うならば、私がかなえてあげよう」。このイエスの言葉を受けて、私たちは祈りを、「主イエス・キリストの御名によって」、または「主イエス・キリストの御名を通して」と祈ります。イエスに執り成しを願っているのです。私たちはイエスに執り成していただいているから、他者のための執り成しを祈ることができるのです。
・証しをさせていただきます。私の知りあいの女性は御主人が救われるよう祈り続けて15年、御主人の様子はいっこうに変わらず、変わるどころか、祈祷会から帰ると玄関に錠をおろして、家の中が真っ暗なこともしばしばで、「おまえはイエス様とおれとどちらが大切か」という、とても答えにくい質問をして困らせました。その御主人が、祈り始めて20年目にバプテスマを受けられ、祈っていた奥様もびっくりするほどの熱心な信仰者になりました。「どうしてこんなことに」と、奥様がたずねますと、「ある時おまえが祈っているのを聞いていると、なぜか突然、申し訳ない気持ちがこみあげてきて、そして心がポキンと折れた、そしてお前の言うことがよく分かるようになった。」と言いました。祈りは力を持つのです。
・最後に「病者の祈り」として知られている祈りを紹介します。ニューヨークのリハビリテーション病院に掲げられていた祈りで、著者は不明です。主の祈りを生きた人の叫びではないかと思います。
「私は神に求めた、成功をつかむために強さを。私は弱くされた、謙虚に従うことを学ぶために。/私は求めた、偉大なことができるように健康を。私は病気を与えられた、より良きことをするために。/私は求めた、幸福になるために富を。私は貧困を与えられた、知恵を得るために。/私は求めた、世の賞賛を得るために力を。私は無力を与えられた、神が必要であることを知るために。/私は求めた、人生を楽しむために全てのものを。私は命を与えられた、全てのものに楽しむために。/求めたものは一つも得られなかったが、願いはすべてかなえられた。/神に背く私であるのに、言い表せない祈りが答えられた。/私はだれよりも最も豊かに祝福されている」。

(説教者:水口仁平神学生)

*春原 禎光訳:なお、原文は下記の通りです。
「I asked God for strength, that I might achieve. I was made weak, that I might learn humbly to obey.I asked for health, that I might do greater things. I was given infirmity, that I might do better things. I asked for riches, that I might be happy. I was given poverty, that I might be wise. I asked for power, that I might have the praise of men. I was given weakness, that I might feel the need of God. I asked for all things, that I might enjoy life. I was given life, that I might enjoy all things. I got nothing that I asked for,, but everything I had hoped for .Almost despite myself, my unspoken prayers were answered.. I am among all men, most richly blessed!」
(Author unknown. This creed is hung on a wall at a waiting room of Institute of Rehabilitation Medicine, 400 East 34th Street NYC)

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