江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2006年5月14日説教(ヨハネ15:1-11、イエスとつながり続ける)

投稿日:2006年5月14日 更新日:

1.枝は幹につながってこそ生きる

・先週、私たちは、ヨハネ13章から、イエスが最後の晩餐の時、弟子たちの足を洗われた記事を読みました。イエスはその後で弟子たちに戒めの言葉を話されました。その言葉とは、「私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」というものです。私たちは、自分を愛することができますが、人を愛することは出来ない存在です。人を愛するように思えても、それは自分の利益にかなうから愛するのであり、その人が自分にとって重荷になったり、わずらわしくなれば捨ててしまう存在です。そのような私たちが、本当に人を愛することができる、その人の足を洗うことができるようになるのは、イエスが私たちの足を洗ってくださったことを知る時です。イエスにつながることによって、私たちは人を愛することができる存在になります。そして人を愛することの中にこそ、本当の喜びがあります。そのことをイエスが教えられたのが、今日学びますヨハネ15章です。
・イエスは言われます「私の愛にとどまりなさい」(15:9)、「とどまる」と言う言葉はメノウと言うギリシャ語が使われています。4節「私につながっていなさい」という時の「つながる」という言葉も同じメノウです。私につながりなさい、私にとどまりなさい、私の愛の内にいなさい、何故ならばあなた方は枝であり、枝は幹である私を離れては生きていくことが出来ないからだと言われています。木の生命は根であり、その根から幹が伸び、幹から枝が分かれます。枝は幹から栄養分や水分をもらうことによって、花を咲かせ、実を結ぶことが出来ます。幹から離れた枝は枯れるばかりです。イエスは言われます「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」(15:2)。
・イエスはぶどうの木を例えに、信仰のあり方を話されています。パレスチナではぶどうはオリーブと並ぶ代表的な果物です。ぶどうはイスラエル民族の象徴とされ、預言者たちはイスラエルを神のブドウ畑、あるいはぶどうの木と呼んでいます。同時に、ぶどうの栽培は手間暇がかかることでも良く知られています。ぶどうの枝は非常な勢いで繁茂するため、徹底的な剪定、刈り込みが必要とされます。ぶどうの若木は植えられてから3年間は実を結ぶことが許されず、刈り込まれることによって命を蓄え、良い実を結ぶように準備されます。ぶどうの木には、実のなる枝とならない枝があり、実のならない枝は木の力を浪費させないために、徹底的に刈り込まれ、切り落とされていきます。ぶどうはこのような刈り込みをしなければ豊かに実を結びません。
・私たちはぶどうの幹ではなく、枝であり、実を結ばない枝は捨てられます。故に幹であるイエスは言われます「私につながっていなさい。私は命の元である根=父につながっているからだ」。イエスを離れて人はその信仰を維持することはできず、信仰の実は枯れてしまいます。信仰の実が枯れるとは、私たちが救いから落ちることです。どうすればイエスにつながり続けることができるのか。現代にあっては、イエスからその宣教を委託されている教会につながることです。教会に留まっていなさい、教会につながっていなさい、たとえ、教会の中にいろいろな問題があり失望することがあろうとも、教会につながり続けなさい。教会から離れた人は信仰からも離れます。教会から離れた時、教会の頭であり、命の源であるキリストからも離れます。だからイエスは言われます「私につながっていなさい、つながっていなければ枝は枯れてしまう。枯れたら、もう実を結ぶことは出来ない」。

2.信仰の実、癒しと救い

・イエスにつながり続けるとき、何が起こるのか、それを示したのが、15章7節の言葉です「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」。イエスにつながり、祈り願うものは全てかなえられると約束されています。16章24節でもこの約束が繰り返されています「今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」。イエスにつながることを通して、私たちは喜びの生活に導かれると約束されています。
・その約束はどのようにして、実現するのでしょうか。多くの人が教会に癒しを求めてきます。教会の外には、弱肉強食の世界があり、競争に負けた者は生きていくことが難しい現実があります。その緊張した世界で6日間を過ごした私たちは、安らぎを求めて、日曜日に教会に来ます。癒しは教会の大事な業の一つです。ある人々は、もっと直接的な癒し、心や体の病からの治癒、あるいは困難な状況からの解放を求めて、教会を訪ねます。しかし、教会に来ても病気が治るわけではないし、生活上の困難が取り除かれるわけではありません。多くの人は、失望して教会を去っていきます。教会には、本当に癒しの力があるのか。私たちにとっては解決しなければならない、大事な問題です。
・今日の招詞として、〓コリント4:16−18を選びました。次のような言葉です「だから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの「外なる人」は衰えていくとしても、私たちの「内なる人」は日々新たにされていきます。私たちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。私たちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」。
・癒しは英語ではヒーリングといわれますが、聖書の言語であるギリシャ語では「セラピオー」という言葉が用いられます。ヒールとは「治す」という意味ですが、セラピオーは「仕える」と言う意味です。病気の人に「仕える」という意味から、「いやす」という意味が生じました。「治す」と言う意味では、ギリシャ語では「イアオマイ」という言葉が用いられています。聖書で言う癒しとは、「病気が治る」ことよりも、「病気の人に仕える」ことが中心の意味になります。「仕える」とは愛することです。癒すとは愛すること、癒されるとは愛されることです。人は愛されることを通して、癒されていくのです。マザーテレサは病気の治癒を行いませんでしたが、病にある人々を慰め、励ましました。このマザーの行為の中にこそ、聖書が言う癒しがあります。
・私たちが、置かれている外的状況に左右される人生を歩んでいるなら、私たちは救われていません。私たちの周りには、困難な状況が次から次に生じてきます。愛する人が亡くなったり、事業に失敗したり、不治の病にかかる人もいるでしょう。救いとは、この外的状況が変わることではありません。目の見えない人は目が見えるようになることを願います。しかし、目が見えるようになっても、その喜びは一時的であり、やがては見えるだけでは満足できなくなります。見えるだけでは人は幸福になれないからです。癌で苦しむ人の癌は治されても、その人は心臓の病で死ぬかもしれない。治癒は生きている間の一時的な出来事であり、救いではありません。だから、癒しはヒーリング=治しではなく、セラピオー=仕えなのです。大事なことは、病気が治るかどうか、生活上の困難が取り去られるかどうかではなく、病気と共に生きる力、困難の中にあっても喜んでいく勇気が与えられることなのです。その力は愛されることによって与えられます。
・それこそが、イエスがヨハネ15章11節で言われたことです「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」。この言葉が語られた背景を考えて見て下さい。最後の晩餐の時、十字架の前の日の言葉です。イスカリオテのユダはイエスを大祭司に告発するために、晩餐の席を離れています。ユダに連れられた兵士たちがイエスを捕らえるために、やがてここに来るでしょう。これから何がおこるかをイエスはご存知です。捕らえられ、裁判にかけられ、鞭打たれ、十字架で殺されるのです。それを知りながら、イエスは喜びにあふれて弟子たちに語られます「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」。何故、喜べるのでしょうか。外的状況はとても喜べるものではありません。それでもイエスは喜ばれます。父から愛されているという信仰があるからです。父なる神と共にあるから平安なのです。この平安があれば、十字架さえも喜びになる、この喜びをあなたも持ちなさいとイエスは、私たちに語っておられるのです。

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