1.イエスは神の国を宣教された
・先週から、私たちは受難節を迎えました。先週、私たちは、マルコ1章を通して、イエスのバプテスマと荒野の試練の記事を読みました。イエスはバプテスマを受けられ、聖霊に満たされ、御自分が神の子であり、使命をもってこの世に遣わされた事を自覚されました。神の子として何をしたら良いのか、それを聞くために、イエスは荒れ野に行かれ、40日間の祈りの時を持たれました。準備の時が終り、イエスは宣教活動を始められました。その最初の言葉は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)と言う言葉でした。神の国は来た、イエスはこの喜ばしい知らせを持って、がリラアの町々を、伝道して回られました。しかし、神の国が来たのに、人々は「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれて」(マタイ9:36)いました。イエスは彼らを憐れまれ、病気の人をいやし、悪霊を追い出されました。群集はイエスの業を見て「神が働かれている」と称賛し、エルサレムの宗教指導者たちは、イエスを非難しました。その問答を記したのが今日のマルコ3章の記事です。この記事を通して、神の国とは何かを共に聞いていきましょう。
・イエスは病に苦しむ人を憐れまれ、いやされました。その業を通して、イエスの評判は高まり、人々が押し寄せてきました。そこにイエスの家族も来ました。身内の者たちは「イエスは気が変になっている」との評判を聞いて、イエスを取り押さえるために来たとマルコは書きます。30歳になるまで、故郷のナザレで家業に従事されていたイエスは、バプテスマのヨハネの話を聞くためにユダヤに行かれ、そのまま家に帰らず巡回伝道者となられました。家族は「大事な長男が家を飛び出して帰ってこない。気が狂ってしまったに違いない」と考え、家に連れ帰るためにカペナウムに来たのでしょう。後に書かれたマタイ福音書やルカ福音書ではこの部分は削除されています。初代教会の指導者になって行ったのは、イエスの兄弟たちでした。彼らが生前のイエスを信じなかったばかりか、その宣教を妨害しようとしたことは書く事をはばかったのでしょう。しかし、事実はマルコの言う通りです。「預言者は郷里では受け入れられない」(マルコ6:4)。イエスは家族の無理解の中で宣教活動を続けられたのです。
・その場には、エルサレムから来た律法学者たちもいました。エルサレムの宗教指導者たちはイエスの言動にいらだっていました。正式な教育もないのに人々を教え、彼らが大事にする律法や儀式を軽視する男が、民衆の間で人気を博するのは、彼らには耐え難いことでした。無知な民衆はだまされるかもしれないが、我々はだまされない、彼らはイエスを非難して言いました「あの男はベルゼブルに取りつかれている」、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」のだと。ベルゼブルとはサタン=悪霊の頭の意味です。「イエスの力はサタンから来ている」と宗教指導者たちは攻撃したのです。
・イエスは反論されました「どうしてサタンがサタンを追い出せようか」。イエスの時代の人々は、サタンは神に反抗して一つの王国を支配し、その手下に多くの悪霊を従えていると信じていました。イエスが言われたのは「サタンがサタンを追い出しているのなら、それは内輪で争うことだ。それでは国がなり行かない。サタンがそんな愚かな事をするはずがないではないか」ということです。そして、彼らに強く警告されました「人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」(3:28-29)。人間であるイエスの悪口を言い、非難するのはかまわない。しかし神が行っておられる業をサタンの業とすることは赦されないと言われています。イエスは他のところでも言っておられます「もし、私が父の業を行っていないのであれば、私を信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、私を信じなくても、その業を信じなさい」(ヨハネ10:37-38)。「見えない人の目が開き、歩けない人の足がいやされている。苦しみの中にある人が苦しみから開放されている。どうしてその事を共に喜べないのか」、神の国が来て、苦しみからの解放が始まったのに、それを共に喜ぶことが出来ない、ここに世の問題があります。
2.神の国は来た
・今日の招詞に、マタイ12:28を選びました。次のような言葉です。「しかし、私が神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。イエスの時代、人々は世界は三段の階層から出来ていると考えていました。一番上は神の世界である天、次は私たち人間が住む地、一番下は悪霊の支配する地下、陰府の世界であり、中間にある人間の世界には下からの悪霊の勢力と上からの神の勢力が共に影響力を及ぼしていると考えられていました。従って、人間の病気や障害といった災いは、悪霊の支配によって起こるのであり、神の支配が及ぶことによって、人間は悪霊の支配から解放されて自由にされるのだと考えられていたのです。ですから、病がいやされ、障害が治されることこそが、悪霊が追い出され、神の支配される世界が広がっていくことです。だから、イエスは言われました「私が神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。神の国は来ている、あなたがたは神の国の到来を今、その眼で見ているのだとイエスは言われたわけです。
・現代の私たちは、病気や障害が悪霊の働きによるものだとは考えません。私たちは、医学の力により、結核やコレラを克服してきました。しかし、次から次に新しい感染病が生まれています。また、身体の病気以上に私たちを苦しめるものは心の病です。統合失調症やうつ病が何故起きるのか、どうすれば治せるのかは、今でも良くわかっていません。現代の私たちは、病気や障害が悪霊の業だとは考えませんが、しかしそれが何故あるのかはかはわかっていないのです。私たちの理解を超える大きな力がそこに働いていると思わざるを得ません。
・「神の国は来た」とイエスは言われました。しかし、人々の苦しみは相変わらず続いています。病気や障害で苦しんでいる人は相変わらずいます。イエスが来られても、人々はお互いを傷つけあい、自分勝手に生きています。そのエゴが家族や地域社会を壊し、人々を苦しめます。経済的に豊かになっても、自殺者は増えています。犯罪も減らず、戦争も終わりません。キリストが来られて何が変わったのだ、世は相変わらずサタンの支配下にあるのではないか。そう思わざるを得ない現実が私たちの周りにあります。そういう時、私たちキリスト者はどう考えたらよいのでしょうか。
・それを解くかぎがマルコ3:31以下にあるように思います。前に見ましたように、イエスの家族はイエスをナザレに連れ帰るためにカペナウムに来ましたが、群集が大勢いて家に入れなかったため、人に頼んでイエスを呼び出してもらいました。イエスはその人に言われました「私の母、私の兄弟とは誰か。・・・見なさい。ここに私の母、私の兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ」(3:34-35)。神の御心を行う人こそ、私の家族なのだ、このイエスの言葉は、十字架と復活を経て、現実のものとなって行きます。
・イエスの十字架と復活を通して、イエスこそ神の子と信じる群が起こされ、彼らは教会を形成して行きました。人々は共に住み、家族として一緒に暮らしました。その家族の中に、かつてはイエスを信ぜず迫害した兄弟たちも招かれています(使徒行伝1:14)。マタイやルカは、イエスの兄弟たちがイエスを信じなかった事を隠す必要はなかったのです。むしろ、マルコ3:21と使徒行伝1:14を共に読むことによって、十字架がかたくなだったイエスの兄弟たちの心を砕いて行った奇跡を見ることができます。この神の家族の形成こそ、神の国のしるしです。
・もちろん、地上の教会は不完全な群です。しかし、神の国を先取りしている希望の共同体です。そこでは「神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ」という御言葉が通用する共同体であり、罪を犯した者も招かれ、私たちのこの世の願望=サタンの業が打ち砕かれる所です。サタンの支配の及ばない場所が生まれ、その場所は世界中に広がっているのです。神の国は来たのです。神の国は教会として来ました。サタンがなお力を振るっているように見える世の中にあって、サタンに従う事を拒否する群が形成されています。私たちの教会もその枝の一つです。ここにおいては、他者の為に祈ることの出来る群が形成されています。私たちこそ神の家族であり、イエスが戦われた戦いを継承していく群である、受難節第二主日にその事を覚えたいと願います。