江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2006年3月5日説教(マルコ1:9-15、荒れ野の誘惑)

投稿日:2006年3月5日 更新日:

1.イエスの受けられた誘惑

・今週から、私たちは受難節に入りました。受難節は、3月1日の「灰の水曜日」から4月16日の復活日までの40日間(日曜日を除く)で、キリストの受難を思い起こす時です。期間が40日と定められたのは、キリストが荒れ野で40日間断食され、試みを受けられたからです。毎年、この時期はキリストの荒れ野の試みについて学んでいますが、今年はマルコ福音書を通して、キリストが受けられた試みについて、学んでみたいと思います。
・イエスは宣教の始めに、ヨルダン川でバプテスマを受けられました。その時、「天が裂けて霊が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった」とマルコは記します(1:10)。「霊が鳩のように降って来た」、バプテスマを受けられた時、神の霊が鳩のように御自分の中に降って来たとイエスはお感じになったのでしょう。そして声が聞こえたとあります「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」。イエスが内面でお聞きになった声です。この時、イエスは「自分が神の子として世に遣わされた」ことを自覚されたと思われます。イエスの召命体験がここにあります。召命を受けたものは何をすべきかを求めます。イエスも、神の子として、自分は何をすれば良いのか、それを聞くために荒れ野に向かわれました。マルコはその行為を「霊はイエスを荒れ野に送り出した」と表現します(1:12)。神がイエスを荒れ野に追いやられたのです。その荒れ野でイエスがどのような試みを受けられたのか、マルコはただ「イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた」と書くだけです(1:13)。他方、マタイやルカはこの誘惑の内容を詳しく記しています。
・マタイに依れば、イエスは荒れ野で三つの誘惑を受けられました。最初は「石をパンに変えよ」というものでした。イエスは断食して空腹です。目の前の石がパンに見えたのでしょう。イエスは神の子として、石をパンに変える力を与えられています。サタン=内面の声はささやきます。「多くの人が食べるものもなく、飢えている。彼らに食べ物を与えることこそ、神の子のなすべきことではないか」。次の試みは、「高い所から飛び降りてみよ」との誘いでした。内面の声はささやきます「神の子なら天使が守ってくれる。奇跡を起こせ、そうすれば人々はお前が神の子である事を認めるだろう」。三番目の誘いは「世の王になれ」というものでした。「今、民はローマの支配に苦しんでいる。お前がローマからの解放を唱えて立ち上がれば、民は従う。そうすればユダヤを独立国家に出来るではないか」。巧妙な誘いです。しかし、イエスはそのいずれをも拒否されたとマタイは書きます。石をパンに変えれば神の子か、高い所から飛び降りることが出来れば神の子か、出来なければ、神の子ではないのか。自分が神の子であることの証をどこに求めるのか。イエスは荒れ野で、それを探られました。
・イエスは生涯において、様々な試みを受けられました。イエスの母と兄弟たちは、巡回伝道をされるイエスに、家に戻って家業を継ぐように説得しました。ペテロは十字架で死ぬと預言されたイエスに「そんなことがあってはいけません」と諌めました。パリサイ派の人々は、神の子であればしるしを見せよと求めました。民衆はイエスがイスラエルを政治的独立を導いてくれると期待しました。これから起こるであろう様々な誘惑に備えるために、まず荒れ野へ行け、荒れ野で訓練を受けよというのが神のご意思だったと思われます。その試練を経て、イエスは伝道の業を開始されました。バプテスマ=召命の後に、試み=訓練が続き、伝道が開始されました。

2.私たちの受ける誘惑

・私たちも、信仰生活において、多くの誘惑を受けます。まず「石をパンに変えよ」との誘惑ですが、これを今日の教会の事例で言えば、「福音の説教ばかりして何になる。言葉は人々を救わない。行為せよ。苦しんでいる人々のために具体的な救済の業をしたらどうか」という誘いになるかもしれません。教会はこれまで多くの社会事業を行ってきました。事業そのものは良いものです。しかし、やがて事業が活動の中心になり、信仰と分離して行きます。ミッションスクールの多くがミッション=宣教の場から普通の学校になって行きました。教会の幼稚園も盛んになれば、いつの間にか幼稚園が主で教会が従になって行きます。社会事業を軸に教会形成をして行った時、教会が教会でなくなるのは、事実です。
・奇跡を用いて、人々を信仰に招けという誘いも大きな試みです。多くの教会が、病のいやしとカウンセリングを軸に、教会形成を目指しました。病人をいやし、悩む人を慰める、教会の大事な働きです。しかし、いやしやカウンセリングを中心にした教会は、一時的には多くの人を集めますが、やがて人々は離れていきます。いくら祈っても、治らないものは治らないからです。また、最後の試み、世の王になりなさいという試みも信仰を損なうものです。「世の富を手に入れて何が悪い。一生懸命に稼いで、一生懸命に献金する。これも教会の大事な業ではないか」。説得力を持つ考え方です。しかし、この世的に成功した人の足は自然と教会から離れます。神に頼らなくとも、幸福に生きていくことが出来るからです。世の富と決別しない限り、教会はサロン化し、伝道力を失って行きます。
・私たちの信仰の歩みには、戦いがあります。婦人にとっては、日曜日に夫や子どもたちを家に残して、教会に来ることは試練です。忙しいサラリーマンであれば、日曜日くらいはゆっくりしたいと思うでしょう。私たちが日曜日の朝、礼拝に集まる、このこともまた誘惑との戦いに勝ったからここに座っているのです。仕事が、家事が、勉強が、家族との交わりが、私たちを誘いましたが、私たちは礼拝する為に、今日ここに集って来ました。誘惑に勝ったからです。これは小さな戦いかもしれませんが、とても大切な戦いです。この戦いに敗れてしまえば、私たちは信仰の歩みを全うすることは決して出来ないからです。

3.誘惑に勝つ

・今日の招詞に、ヘブル書4:14-15を選びました。次のような言葉です。「さて、私たちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、私たちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、私たちと同様に試練に遭われたのです」。
・イエスはその生涯において、様々の誘惑を受けられましたが、最大の誘惑は十字架の直前に起こりました。「十字架に死んで何になるのか」という疑問にイエス御自身がとらえられたことです。マルコは次のように記します「一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに『私が祈っている間、ここに座っていなさい』と言われた。・・・イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。『私は死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい』。少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈られた」(14:32-35)。イエスは死を覚悟してエルサレムまで来られたはずです。そのイエスが、死を前にして、おののき怖れられたとマルコは書きます。
・何故、神の子がこのように苦しまれたでしょうか。イエスは当時30歳の男性でしたから、若い肉体が生きることを求めて死の恐怖と戦ったのも一つでしょう。しかし、それ以上に神の御心がわからない苦しみがありました。十字架で死ぬ事に意味があるのだろうか、それが人々を救うのか。その疑いの中でイエスは苦しまれたのです。イエスは私たちと同じ苦しみを苦しまれました。「試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」と聖書は証言します(ヘブル書2:18)。
・私たちも長い信仰生活の中で、誘惑に負けて信仰から離れることもあるでしょう。苦しい時に応えて下さらない神に絶望し、神はおられるのかと信仰が揺らぐこともあるでしょう。あるいは、教会につまずいて離れる事もあるかもしれません。しかし、イエスから離れることは出来ません。このお方は、十字架上で「わが神、わが神、何故私をお見捨てになったのですか」と叫ばれた人です。私たちの弱さ、苦しみを、自らが体験された故に、知って下さる方です。その方が、私たちに約束して下さいました。「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)。私たちの弱さを知っておられ、誘惑に勝たれた、そのお方が、共にいて下さる。荒れ野の出来事は私たちを力づける出来事なのです。

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