江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2006年12月10日説教資料(イザヤ55:1-7、来なさいと招かれる神)

投稿日:2006年12月10日 更新日:

1.クリスマスは和解の時

・私たちは今日、アドベント第二主日を迎えています。アドベント=待降節には、4本のろうそくをともし、光の子・キリストの誕生を待ちます。4本のろうそくには、それぞれの意味があると言われています。1本目のろうそくは赦しを、2本目のろうそくは平和を、3本目のろうそくは喜びを、そして最後のろうそくは愛を示すというのです。救い主が来られることにより神の赦しが与えられ、そのことによって私たちの心は平安になり、平安にさせられた者は喜び、喜んだ者はその喜びを他者に分かちます。クリスマスは、和解の福音が述べられる時なのです。そして旧約聖書を含めた聖書全体がこのクリスマスの喜びを伝えています。今日はイザヤ書をテキストにして、クリスマスの意味を学んでいきたいと思います。
・イザヤ書は66章から構成されますが、40章から新しい物語が語られています。物語の背景は紀元前6世紀のバビロンです。紀元前587年、イスラエルはバビロニヤに国を滅ぼされ、王を始め、主だった人々は首都バビロンに連れて行かれました。いわゆるバビロン捕囚です。エルサレムは焼け野原となり、信仰の中心であった神殿も破壊されました。国を亡くした民に、イスラエル本国ではエレミヤが、捕囚地バビロンではエゼキエルが預言者として立てられ、呼びかけました「これはあなたたちの不従順に対する神の審きだ。しかし、あなたたちが悔改めれば、神はあなたたちを赦され、再びエルサレムに帰ることが出来る」。それから50年の年月が流れました。隆盛を誇ったバビロニヤも国力が傾き、新しい支配者としてペルシャが現れて来ました。捕囚の民はバビロニヤの滅亡を見て、再び故郷に帰れるかもしれないと希望を持つようになります。その時、神の言葉が捕囚民の一人であった預言者に臨みました。それがイザヤ40~55章の第二イザヤと呼ばれる預言です。
*第二イザヤとはわかりにくい表現だと思います。第二イザヤと言う人物がいたわけではなく、イザヤ書40章以下の内容が39章までと明らかに時代背景を異にしますので、預言者イザヤと区別するために、便宜的に第二イザヤと呼ばれています。
・捕囚民として連れて来られた人々の大半は死に、生き残った者も高齢になり、主力は子どもたちになっています。もう、エルサレム帰還を約束したエレミヤやエゼキエルの預言を覚えている者もいません。そのような民に神が50年間の沈黙を破って語りかけられました「慰めよ、私の民を慰めよとあなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ。苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と」(イザヤ40:1-2)。服役の時、捕囚の時は終った、エルサレムに帰る時が来たと、神は赦しを宣言されたのです。第二イザヤは赦しの宣言からその預言が始まっています。
・赦しの宣言を聞いた民に神の祝福が臨みます。42章1節「見よ、私の僕、私が支える者を。私が選び、喜び迎える者を。彼の上に私の霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す」。イスラエルは神の僕、神が選び、喜び迎える者と呼ばれています。国を亡くし、希望を亡くし、50年間屈辱の中に沈んできたイスラエルに、「私はあなたを捨てていない、あなたは私のものだ」と神が言われています。捕囚は苦しい体験でした。詩篇137編は歌います「バビロンの流れのほとりに座り、シオンを思って、私たちは泣いた。竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。私たちを捕囚にした民が歌を歌えと言う。・・・どうして歌うことができようか、主のための歌を、異教の地で。・・・いかに幸いなことか、お前が私たちにした仕打ちをお前に仕返す者、お前の幼子を捕えて岩にたたきつける者は」。民にとって、捕囚の年月は、屈辱の日々でした。このような苦しみを過ごして来た民に神は言われます「彼の上に私の霊は置かれ彼は国々の裁きを導き出す」。諸国民が神を知るようになるためにあなたたちは選ばれ、真の民になるために試練を与えられた、それが国の滅びと捕囚であったと民は告げられ、これまでの苦労がねぎらわれます。第二イザヤの二番目の知らせは、捕囚の地にも神が共におられたことを知った平安です。
・神が共におられることを知った民に、帰還の喜びが与えられます。ペルシャ王キュロスが捕囚民の故国への帰還許可を出します。預言者は歌います「島々よ、私に聞け。遠い国々よ、耳を傾けよ。主は母の胎にある私を呼び、母の腹にある私の名を呼ばれた」(49:1)。主は私たちをご自分の民として選ばれた。その選びは国が滅びても変わらなかったことを私たちは知った。「主は母の胎にある私を呼び、母の腹にある私の名を呼ばれた」。私たちは小さな国だ、バビロニヤやエジプトという世界帝国の狭間の中で生きてきた。国が滅ぼされた時、私たちは「私たちの神がバビロニヤの神に打ち負かされたのではないか」と疑った。しかし、主はバビロニヤを滅ぼし、私たちを解放され、世界を支配される神であることを示された。今、新しい支配者ペルシャが立ち、強大な剣と矢で国々を制圧している。しかし、私たちにはそれに勝る武器、主の言葉が与えられている。私たちは主の言葉により頼んで国を再建するとイザヤは宣言します。イスラエルの民は50年間苦しみました。しかし、苦しむことを通して、他者の苦しみを知る者に変えられていきました。異国に捕らわれることを通して、救いが他の民族にも及ぶことを知らされました。今、イスラエルに使命が与えられます。「私はあなたを国々の光とし、私の救いを地の果てまでもたらす者とする」(49:6)。今イスラエルは喜んで故郷に帰ろうとしています。ろうそくの3本目まで灯されました。そして4本目のろうそくに当たるのが、今日のテキスト、イザヤ55章です。

2.招きに応えて

・イザヤ55章は第二イザヤの最後の言葉です。彼は歌います「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め、価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ」(55:1)。捕囚民は50年間過ごしたバビロンを捨て、エルサレムに向かおうとしています。彼らが向かう故郷は廃墟の中にあります。故国に帰って食べることが出来るだろうか、飲むことが出来るだろうかと懸念する民に、預言者は「水も穀物もぶどう酒も、主が豊かに与えて下さる」と呼びかけます。バビロンでは食べるものは満たされていました。水もぶどう酒も不自由しませんでした。しかし、囚人としての屈辱の日々を彼らは送ってきました。物質的に豊かになるだけでは人の心は満たされません。預言者は言います「なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労するのか」(55:2)。今日の世界で,飢餓と同じくらい人々の健康を蝕んでいるのは過食です。先進各国の人々の寿命は肥満により低下し始めています。必要なものは主が与えてくださるのに、何故空しいものを求めるのかと預言者は問います。預言は続きます「今、あなたは知らなかった国に呼びかける。あなたを知らなかった国はあなたのもとに馳せ参じるであろう」(55:5)。あなたは神の赦しを聞いた、そのことで心は平安になり、喜びで満たされた。これからあなたは主の証人になっていく。「主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。私たちの神に立ち帰るならば、豊かに赦して下さる」(55:7)ことを経験したではないか。第四のろうそくが灯されました。
・今日の招詞としてマタイ14:15−16を選びました。次のような言葉です「夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう」。イエスは言われた「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」。イエスが五つのパンと二匹の魚で五千人を養われた話は、四福音書すべてに記されていますが、マタイはパンの奇跡の前に、洗礼者ヨハネがヘロデにより殺されたと報告しています。マタイは書きます「イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた」(マタイ14:13)。洗礼者ヨハネはイエスにバプテスマを授けた師であり、また親族でもあります。イエスはヨハネの死を聞いて、悲しまれたでしょう。やがて自分もヨハネのように殺されていくだろうとおののかれたかも知れません。そのため、一人になりたい、人里離れた所で祈りたいと考えられたのでしょう。「人里離れた所に退かれた」、しかし「群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた」。イエスは一人になりたかったのに出来なかった、それでもイエスは、人々と関わることを放棄されませんでした。人と関わる事は疲れることです。しかし関わりを通して、そこに新しいものが生まれてきます。イエスはそれを大事にされました。
・弟子たちは「もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう」と進言しました。弟子たちの取った態度は間違っていません。人は自分の責任でそれぞれの食べ物を準備するべきで、私たちはそこまでお世話はできません。しかし、イエスは「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」と言われました。教会にはいろいろな人が訪ねてきます。「この二日間何も食べていません」、「今日泊まる所がありません」。私は答えます「教会は宿泊や食事を与える場所ではありません。私たちにはその準備が出来ていません」。昨日来た人は言いました「誰でも来なさいと教会の看板にあるではないですか」。私は下を向きます。今日のテキストにもあります「渇きを覚えている者は皆、水の所に来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ」。この言葉は単なる言葉、この招きはうそなのでしょうか。イエスは言われました「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」。彼らの中に、教会への訪問者は含まれるのでしょうか。
・ここにはパン五つと魚二匹しかありません。五千人以上の人がいます。全員に与えることができるはずはありません。しかし、イエスは言われます「それをここに持ってきなさい」。私たちは自分たちの能力の限界を考えます。ここまでは出来るが、これ以上は無理だ。聖書は私たちに教えます「無理な場合は神に頼みなさい」。神は私たちを通して恵みの行為をされます。パンを二つに割れば二人が食べられます。足らなくなれば神が下さいます。この単純な信仰が私たちに不足しているのではないか、四つのろうそくの光をいただきながら、四本目のろうそくは消えてしまったのではないか、と問われている気がします。今年の教会標語は「地域に福音を」でした。この標語の下に教会堂の改築をしました。ここに教会があることを示すためでした。「誰でも来なさい」、この招きの実現のために、私たちは何が出来るのか、何が出来ないのか、出来ることをするためにどうすれば良いのか。このクリスマスにいただいた宿題を来年3月の教会総会で具体化できればと願います。

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