1.妻は夫に、夫は妻に仕えなさい
・今日、私たちはパウロがローマの獄中からエペソ教会に送った手紙を読みます。パウロは何故獄中からエペソに手紙を書いたのでしょうか。書かざるをえない状況がエペソにあったからです。エペソ教会はパウロの伝道により立てられました。パウロは人々に教えました「バプテスマを受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ3:27-28)。しかし、教会の現実は違いました。ユダヤ人はユダヤ人同士で集まり、ギリシア人とは付き合いませんでした。奴隷とその主人は教会の中では平等でも、一歩教会の外に出れば、主人は主人、奴隷は奴隷でした。妻は教会の中で「キリストにあっては男も女もない」という教えを聞きましたが、現実の生活の中では、妻や子は夫に従属するものとして、何の法的権利も持ちませんでした。話が違うではないか、妻や子や奴隷は不満を抱きました。教会で語られている事と現実が違いすぎる、人々の不満が教会の中に混乱を引き起こすようになりました。
・だからパウロは手紙を書き、人と人の関係はどうあるべきか、特に教会を形成する基本単位である家族はどうあるべきかを述べました。それが今日お読みするエペソ5章21節以下です。ここでは、夫と妻、父と子、主人と奴隷の関係が記されています。具体的には「妻は夫に仕えなさい」、「子は親に従いなさい」、「奴隷は主人に従いなさい」と説かれています。ある人は言います「ここでは弱者の従属が説かれている。この規定のために、古代・中世は暗黒の時代だった。近代はこの従属から解放され、自由・平等・博愛の理想を求めた所から始まった」。ここで説かれている教えは古い教え、家父長的・封建的教えであり、現代では聞く価値がないことなのでしょうか。
・22−24節では、妻たちに対して「夫に仕えるように」命じられています。単に「夫に仕えなさい」と言われているのではなく、「教会がキリストに仕えるように、妻も夫に仕えなさい」と言われています。キリストが教会の頭であり、教会はその体であるように、夫は頭であり、妻はその体なのです。信仰の行為として夫に仕えなさいと言われています。また夫に対しても、自分の存在の一部として、「妻を愛しなさい」と勧められています。古代において「妻は夫に従いなさい」という教えはありましたが、「夫は妻を愛しなさい」という教えはありませんでした。妻は夫の隷属物であり、愛する存在ではなかったからです。
・しかもその愛が「キリストが教会を愛し、教会のためにご自分をお与えになったように」、「愛しなさい」と言われています。キリストは教会のために死なれました。「夫も妻のために死になさい」と言われているのです。もはや単なる道徳の教えではありません。これは信仰の行為として仕えることです。だからパウロは言います「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」(5:21)。パウロは続けます「私たちは、キリストの体の一部なのです。それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。この神秘は偉大です。私は、キリストと教会について述べているのです」(5:30-32)。
・この世では、男女がそれぞれふさわしいと思う相手を求めて結婚し、子が生まれて家族が形成されます。結婚したけれど、ふさわしくないと思えば離婚して、新しい相手を求めます。しかし、聖書はそれを否定します。聖書において結婚とはバプテスマや聖餐式に等しい信仰の行為、サクラメントなのです。ですから、夫が妻を変える行為、すなわち離婚や不貞は妻を傷つけるだけでなく、自分の信仰をも否定する行為なのです。現実の私たちはクリスチャンになっても、離婚したり、相手を裏切ったりします。肉の弱さを持つからです。それにもかかわらず、結婚とは信仰の決断であることを知る必要があります。このような結婚観に基づいて、「妻は夫に、夫は妻に仕えなさい」と言われています。妻が夫に従うだけでなく、互いに仕え合う、そういう相互依存の関係が結婚なのです。
2.積極的従属
・6章では子どもに対して「両親に従いなさい」と説かれています。古代において、子が親に従うことは当然でした。しかし、ここでは同時に父に対して、「子供を怒らせてはなりません」と説かれています。当時の子どもたちは何の権利も持ちませんでした。その子どもたちの人格を敬うようにと言われていいます。しかも「主がしつけ諭されるように育てなさい」と。子が親に従う、親が子を人格として敬うことが、信仰の行為として説かれています。これは今までになかったことです。
・6章5節からは、奴隷は「主人に従いなさい」と説かれています。当時は奴隷制社会でした。パウロは奴隷制を当然のこととして受け入れているのでしょうか。そうではないことが9節以下を読めばわかります。ここでは主人に対して「奴隷を敬いなさい」と言われています。当時の慣習では、奴隷は殺そうが、病気で死なせようが、主人の意のままでした。しかし、パウロは主人に言います「彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられるのです」。奴隷も主人も共に主のものだ、奴隷を虐待することは主の体を鞭打つ行為なのだと戒められています。
・パウロは何故、子どもや妻に従属を勧めるのでしょうか。それは従属する以外に、彼らの生きる道がなかったからです。子どもは親なしでは生きることは出来ず、妻の経済的自立のない時代において、妻は夫に従うしか生計を立てる方法はありませんでした。他に選択肢がない状況下であれば、それを主が与えて下さった道として積極的に選び取りなさいとパウロは勧めているのです。
・今日の招詞に〓ペテロ2:18−19を選びました。次のような言葉です。「召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです」。ここでは無慈悲な主人であっても従えと求められています。神がそのようにこの世を作られたのだから仕方がないという諦めではなく、もっと積極的な意味が込められています。
・キリストがののしられてもののしり返さず、苦しめられても報復されなかったように、あなた方も与えられた人生の中で最善を尽くしなさい。奴隷であることを逃れて新しい身分にあこがれるよりも、神があなたに奴隷の身分を与えて下さったのであれば、それを受け入れなさいとの信仰が迫られているのです。ペテロは妻にも同じことを言います「妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです」(〓ペテロ3:1-2)。夫が未信者であることを歎くより、信仰に基づいた従属を通して、夫に信仰とは何であるかを示しなさい。あなたを通して夫が信仰に入るために未信者の夫が与えられた、そのために最善を尽くせと言われています。
3.私たちの選択
・パウロやペテロが述べているのは、諦めの教えではありません。奴隷の身分から解放される機会があればその機会を生かしなさい、しかし奴隷であることを不当として逃走し、一生を逃げ隠れすることが神の御心ではない事を知りなさいと言われています。婦人に対しては、どのような夫であれ従いなさい、しかし夫が死ねば再婚しても良いと言われています。無慈悲な主人、不信仰の夫、かたくなな父、このような現実から目をそむけるな、あらぬ夢を見るな、現実に立ち向かえ、現実を導きとして積極的に従って行きなさい。これこそがキリストが為されたことであり、あなた方が従う道なのだと言われています。
・ここにおいて、私たちの主体的選択による従属の意味があります。現在の境遇は神が与えてくれたものです。それに不満を述べ、一時逃れの行為をしても、そこからは何も良いものは生まれません。むしろ、与えられた夫、与えられた父、与えられた主人を敬い、従うことを通して、道が開かれて来るのです。ここに支配と従属に代わる新しい掟、僕として仕えていく積極的従属の意味があります。パウロは教会の人々に言います「与えられた境遇の中で、何が神の御心であるかを求めていくのが、足が地に付いたキリスト者の生き方ではないか」。
・人は言うかもしれません「奴隷制はなくなった。婦人の経済的自立も進んだ。子どもの人格も尊重される時代だ。2000年前とは違う」。でもそうでしょうか。奴隷主はいなくなりましたが、それに代わる企業や団体が雇用主として働く人を縛っています。現代の過労死と古代の虐待死は同じです。婦人の職業進出は進んだかもしれませんが、多くの既婚婦人は配偶者控除の要件を満たす103万円以下の労働を行っています。これでは自立は不可能です。子どもたちには厳格な父親の代わりに、試験で能力判定をされ、高校や大学を中退した者には職業選択の自由はありません。基本的状況は何も変わっていないのです。今日でもパウロの言葉は私たちに進むべき道を示しているのです。
・このパウロの言葉を現代に翻訳した人が、アメリカの神学者ラインホルド・ニーバーではないかと思います。神学校の授業で彼の「平静についての祈り」を教えられた時、目が覚めるような驚きを感じたことを覚えています。次のような祈りです「神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ」。現実を見つめる知恵、出来ることを行っていく忍耐、出来ないことを断念していく勇気、この知恵と忍耐と勇気こそが、主が私たちに与えられた信仰の武器であり、私たちはこの武器を持ってこの世を歩んでいくのです。