江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2006年5月7日説教(ヨハネ13:31−35、新しい戒め)

投稿日:2006年5月7日 更新日:

1.私が愛したように愛し合いなさい

・先週、私たちは、ヨハネ10章の「良い羊飼いのたとえ話」を礼拝で聞きました。イエスは言われました「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは、羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:11)。私たちは、羊飼いであるイエスが群れのために死なれたことを通して教会という共同体が形成されたこと、私たちはこの囲いに守られることによって平安をいただくことを学びました。それに続くイエスの言葉「私にはこの囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない」(10:16)に励まされて、私たちも、この地域の「囲いの外にいる羊を探しに行く」ことを、この1年の目標にすることを決めました。イエスによって立てられたこの共同体、教会を形成する原理は愛です。ここに言う愛は家族や友人を愛する愛とは異なる、アガペーと呼ばれるものです。教会を基礎付ける愛とは何かを、今日はヨハネ13章を手がかりに、ご一緒に学びたいと思います。
・イエスは捕らえられる前の晩、弟子たちと一緒に食事の席につかれました。「最後の晩餐」として、有名な箇所です。ユダヤでは食事の前に、召使が来て客の足を洗い、清めてから、食事をするのが慣わしでした。しかし、その日は誰も足を洗ってくれませんでした。どうしよう、弟子たちは困りました。自分が同僚の足を洗うのはしたくない、足を洗うのは召使の仕事であって自分の仕事ではない、弟子たちは皆そう思っていました。その時イエスが立ち上り、たらいに水を汲んで、弟子たちの足を洗い始められました。弟子たちは、びっくりし、恐縮します。その弟子たちにイエスは言われました「師である私があなた方の足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」(13:14)。ルカは、最後の晩餐の時、弟子たちの間で、誰が一番偉いのかをめぐって論争があったと記しています(22:24)。イエスはその弟子たちに「神の国ではほかの人の足を洗う人が一番偉い」ことを、身をもって示されたのです。
・そしてイエスは弟子たちに言われました「私があなた方を愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(13:34)。この言葉の力点は「私があなた方を愛したように」というところにあります。イエスは、愛するとは仕えることであることを示すために、自ら弟子たちの足を洗われました。「私があなたがたの足を洗ったように、あなた方もお互いの足を洗い合いなさい」とイエスは言われています。イエスが弟子たちの足を洗われたとき、その弟子の中にはイスカリオテのユダもいました。既にイエスを裏切ることを決めていたユダの足をも、イエスは彼の悔い改めを祈りつつ洗われます。自分に背こうとする者の足をも洗うのが神の愛です。
・マザーテレサが1984年に日本に来た時、広島の原爆資料館を訪れ、そこに色紙を残しました。今でも展示されているそうですが、そこには今日の聖書箇所、ヨハネ13:34の言葉を引用して次のようなに書かれています。「神が私たち一人一人を愛されたように、私たちも互いに愛し合いましょう。そうすれば、広島に悲惨をもたらした、このようなおぞましい悪は二度と起こらなくなるでしょう。神の愛の働きを忘れず、平和の働きのために祈りましょう」。私たちは何故戦争を起こすのか、何故戦争を止めることが出来ないのか、それは相手が神から愛されている尊い存在であることを知らないから、憎みあい、殺しあうのだ。神は私たちを造り、生かし、愛しておられる。神は私を愛すると同時に、私の敵をも、イスカリオテのユダさえも愛しておられる。そのことを知ることによって、私たちは人を愛することが出来る、その時私たちは戦争を止めることが出来る、マザーテレサはそのように訴えています。

2.愛された人だけが愛することが出来る

・イエスが言われていること、マザーテレサが言っていることは、神と人との関係が正されるとき、人と人との関係も正されるということです。この神との関係なしに「愛し合いなさい」といくら叫んでも、愛は生まれてきません。神が人を愛されたからこそ、人は人を愛することが出来る。神が人を赦されたからこそ、人は人を赦すことが出来る。神の愛が先行する、あなた方はその愛を受けなさいと聖書は教えます。これは心理学でも実証された真実です。心理学では神の代わりに、親という概念を用います。「親に愛された子供は、他者を愛することが出来る。親に赦された子供は、他者を赦すことが出来る」。逆に言えば、親の愛を十分に受けていない者は、他者を愛することが難しいのです。
・「アダルト・チルドレン」という言葉があります。もともとは、アルコール依存症患者の子供として育ち、現在は成人に達した人々のことを言います。大人になった子供たちという意味です。ブラックという精神科医が、多くのアルコール依存症患者の子供たちを調査したところ、これらの子供たちは、成人後に感情と行動の障害を起こしやすいことを発見しました。そして、同様の障害は、他の機能不全家庭の子供たちにも起こることがわかってきました。具体的には、親が子供を虐待したり、家庭内が不和であったり、子供への無関心、あるいは過重な期待があったりした時に、その子供たちが大人になってから、さまざまな精神的・身体的障害を起こしやすいという現象が見られます。このような機能不全家庭では、子供の情緒的欲求は満たされず、子供たちは、慢性的な「見捨て」を体験します。これは子供にとって心の外傷(トラウマ)となり、健全な心の発育が妨げられ、見捨てられる不安や恥辱感が心の奥深くに根を張ります。真の自己は姿を消し、空虚感がつのり、やり切れない空しさを埋めようとして、仮面をかぶって生きるか、物質や人、嗜癖的行動に依存するようになります。上記のような特徴をもつアダルト・チルドレンは、アルコール・薬物依存症、摂食障害、人格障害になることが多いと報告されています。緊張した家庭で、子供たちが安心感を持てないまま育った時、成長に深刻な悪影響が出るわけです。
・私たちは、今日の招詞として、〓ヨハネ3:11を選びました。次のような言葉です「私たちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです」。アダルト・チルドレンの例が示しますように、愛の不足は人の性格をゆがんだものにします。愛ほど、大切なものはないのです。愛は命の問題でもあります。この愛とは、親が子を愛するような愛です。親は子が生まれると、食物を与え、身の回りの世話をします。雨の日でも晴れの日でも、子の世話をします。そうしないと、生まれたばかりの子は生きていけないからです。たとえ子がそむいても親の愛は変わりません。このような愛をいただいて、私たちは大人になります。そして、大人になった今もこの愛を必要としています。聖書は神がこのような愛で、私たちを愛されていると告げます。この愛こそが、私たちに必要な霊の糧なのです。この霊の糧をいただくから生きていけるのです。
・私たちの愛の本質は自己愛であり、相手からむさぼる愛です。愛されたいから愛する、相手が自分に価値があるから愛するのです。従って、相手が愛してくれない時、あるいは相手が裏切った時、私たちはもうその人を愛することはできません。世に離婚がこれほど多いのは、世の愛=ギブアンドテイクの愛がいかにもろいのかを示しています。このような愛では、私たちは生きていくことが出来ません。人に裏切られるたびに人生が閉ざされていく、アダルト・チルドレンの生き方になります。イエスが教えてくださった愛は、このような愛とは根本的に異なります。それは、相手の足を洗う愛、自分に背くものさえも愛していく愛です。私たちもイエスにつながり続ける時、そのような存在に変えられていきます。「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(ヨハネ15:5)。その実が愛です。イエスの愛に留まっていれば、私たちも豊かに実を結ぶ者となると約束されています。
・イエスの愛に留まるとは、教会に留まることです。教会に留まって、毎日曜日にイエスの言葉を聞くことです。日曜日の礼拝に参加するとは、読まれる聖書の言葉を通して、一週間の自分の生活を振り返ることです。神がどんなにこの一週間、自分の行動に我慢され、それでも見捨てられずに、また礼拝に来ることを赦された、その恵みを思うことです。こうして私たちは、キリストの弟子として成熟していきます。そして、ある時、人の足を洗う者に変えられていく。そのような約束がイエスから与えられていることを、今日は覚えたいと思います。

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