江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2006年4月23日説教(ヨハネ20:19−29、この囲いにいない友のために)

投稿日:2006年4月23日 更新日:

1.イエスの弟子たちへの顕現

・先週の日曜日、私たちはイースター礼拝を持ちました。その中で、キリストの十字架と復活が、私たち自身の生死を決定する大事な出来事であることを共に学びました。キリストの十字架と復活がどのようにして、自分たちの出来事になっていくのか、その具体的な例を、私たちは復活を目撃した弟子たちの体験を通して、今日学びます。テキストはヨハネ20章です。
・ヨハネは、週の初めの日の夕方、イエスが復活されたまさにその日、弟子たちは戸を閉じて家にこもっていたと記しています。イエスが十字架で殺されたことは、弟子たちを絶望と恐怖の中に陥れました。救い主と信じて従ってきた人が十字架で殺された絶望、自分たちはその人を捨てて逃げたという罪の意識、自分たちも捕えられるかも知れないという恐怖、その中で、彼等は震えていました。イエスはその日の朝早く復活され、マグダラのマリアに会われ、弟子たちはマリアからイエスの復活の報告を聞いています。ペテロは墓に急いで、墓が空であることを自分の目で見ています。生前のイエスからも「私は十字架で死ぬがよみがえる」と聞かされていました。それにもかかわらず、彼らはイエスの復活を信じることはできず、恐れて「部屋に閉じこもっていた」のです。
・その彼等の只中に復活のイエスが現れました(20:19)。そして彼等に「あなたがたに平和があるように」と言われました。この「平和」という言葉はギリシャ語エイレネー=ヘブル語シャロームの訳語です。「平和」というより「平安」という言葉がふさわしいでしょう。イエスは弟子たちに「あなたがたはなぜ信じないのか」とも、「あなたがたはなぜ逃げたのか」とも言われず、ただ「あなたがたに平安があるように」と祝福されました。弟子たちは「主をみて喜んだ」(20節)とヨハネは記します。復活の主に出会って喜んだことは当然ですが、主を裏切った自分たちを赦して下さったイエスの愛に彼らは震えました。恐怖に震えて戸を閉ざし、世との関係を遮断していた弟子たちが、復活のイエスに出会い、変えられました。彼らは外に出て「イエスは復活された。イエスは神の子だった。私たちはその証人だ」と宣教を始めます。イエスの復活は死んでいた弟子たちをよみがえらせたのです。

2.イエスはトマスのために再び、顕現された。

・復活のイエスが弟子たちに現れられた時、12弟子の一人、トマスは一緒にはいませんでした。他の弟子たちが「私たちは主を見た」(25節)といってもトマスは信じません。彼は言います「私は、その手に釘あとを見、私の指をその釘あとにさし入れ、また、私の手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」(25節)。トマスは観察し、実験し、実証されうるものでなければ決して信じません。これは私たちも同じです。復活は理性で信じることはできない出来事なのです。
・ヨハネはそのトマスのために、トマスのためだけにイエスが再度現れられたと記します。8日の後、つまり次の主日、イエスが再び現れ、トマスに対して「あなたの指をここにつけて、私の手を見なさい。手を伸ばして私の脇に刺し入れてみなさい」(27節)と言われました。トマスにイエスは言われます「おまえは見ずに信じることは出来なかった。おまえが信じるために必要なら私は再度十字架につく。この釘跡と槍の跡に触れても良い。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。トマスはイエスの言葉に圧倒され、跪き、言います「我が主、我が神」。教会の信仰告白の核心が最も弱い弟子において語られました。
・このトマスはヨハネ福音書に3度登場します。最初は11:16です。危険なエルサレムにあえて行こうとされるイエスに感動し、弟子たちに呼びかけます「私たちも行って、先生と一緒に死のうではないか」。二回目は14:5で、最後の晩餐の席上で、イエスが死んで天の父の元に行くと言明された時、「主よ、どこへおいでになるのか、私たちにはわかりません」と言っています。トマスは理解できないことは信じません。そして3度目がこの場面、ヨハネ20章です。トマスは、最初はイエスのために死のうと思っていました。しかし、イエスが捕らえられたとき、彼は怖くなって逃げました。復活のイエスが現われたとき、トマスはそこにいませんでした。なぜいなかったのでしょうか。おそらく、人一倍イエスを愛し、期待していたトマスは、それだけ十字架の絶望も大きく、弟子たちの群れから離れていたのでしょう。そのため、最初のときはイエスにお会いすることができませんでした。しかし、その彼のためにイエスが再度現れ、「釘の跡、槍の跡に触れてみよ」と言われたとき、トマスはイエスの赦しに感動します。彼はもうイエスの手やわき腹に触ろうとしません。ただ、イエスの前に跪きます。イエスの復活は不信仰なトマスさえも、死からよみがえらせたのです。

3.この囲いにいない友のために

・今日、私たちは招詞としてヨハネ10:16を選びました。次のような言葉です。「私には、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊も私の声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」。
・トマスは最初にイエスが来られた時には、群れから離れていました。そのため、復活のイエスに会うことが出来ず、イエスの復活を信じることが出来ませんでした。しかし、他の弟子たちはトマスを探し出し、「私たちは主に出会った」と伝えています。このことにより、トマスは再び弟子の群れに加わり、復活の主に出会うことができました。トマスが復活の主にお会いできたのは、トマスを忘れなかった弟子たちの働きがあります。
・私たちの教会は、今日、総会を迎えます。総会のたびに心痛むのは、他行会員の方たちの数の多さです。私たちの教会には101名の在籍会員がおられますが、そのうち77名の方は他行会員です。他行会員とは、1年間、教会の礼拝に出席せず、あるいは月約献金をされなかった人、つまり教会と連絡が取れなかった人を指します。他の教会の会員になられた方は、送籍依頼状が来て教会籍を除きますので、他行会員の人たちの多くは、どこの教会にも行っておられないと思われます。かつては私たちの群れに加わって共に賛美した人が、今は群れを離れ、教会の外におられるわけです。教会の外には復活のイエスは来られません。イエスは言われています「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」(マタイ18:20)。イエスは信じるものの群れに中に来られるのです。死んでいた弟子たちが復活のイエスにあって生き返りました。不信仰のトマスもイエスとの出会いを通じてよみがえりました。再生、再び生きていくためには、イエスとの出会いが不可欠です。
・絶望して、群れから離れていたトマスを、弟子たちは探し出して群れに戻しました。イエスは「この囲いにいない羊のために、私は彼らを探し出して導く」と言われました。私たちのなすべきことは明らかです。この囲いにいない羊を探しに行くことです。今年、私たちは「地域に福音を」という言葉を、教会標語として掲げる計画を持っています。「この町には私の民が大勢いる」と主はパウロに言われました(使徒18:10)。篠崎の地には、主の民が大勢おられます。かつては共に主の宮に集まり、共に賛美したのに、いまでは主の言葉から離れてしまわれた人々も大勢おられます。私たちは、そのかたがたを訪ね、「主は復活された。主は赦して下さった。そのことによって私たちは生き返った」との喜ばしい知らせを伝える義務があるのです。そのことを今日は覚えたいと思います。

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