1.空の墓
・今日、私たちはイースターをお祝いするために、この教会に集まりました。イースターは教会にとって、一番大事な日です。イエスは金曜日に亡くなられました。弟子たちは「もう駄目だ、何の望みもない」と絶望しました。そのイエスが三日目によみがえり、弟子たちの前に現れました。弟子たちは復活を信じることが出来ませんでしたが、イエスの声を聞き、体に触れることによって復活を信じるようになり、イエスを神の子として礼拝するようになります。こうして、教会が生まれ、教会はイエスが復活された日曜日を主の日と呼んで、毎日曜日に礼拝を持つようになります。私たちの行う礼拝は全て、復活をお祝いする礼拝であり、その中心にあるのが今日私たちが執り行う復活日礼拝です。
・イエスは金曜日の朝9時に十字架にかけられ、午後3時に亡くなられたとマルコは記します。弟子たちは逃げていなくなっており、婦人たちだけが十字架の下にいました。金曜日の日没と共に、聖日=安息日が始まります。その安息日を汚さないために、遺体はあわただしく葬られました。婦人たちは何も出来ず、ただ遺体が納められた墓だけを見つめていました。安息日が終わった土曜日の夜、婦人たちは遺体に油を塗るための香料を買い整え、翌日曜日の早朝、香料を持って、墓に向かいます。取り急ぎ葬られたイエスの体にせめて香油を塗って、ふさわしく葬りたいと願ったからです。しかし、墓の入り口には大きな石のふたが置かれ、どうすれば石を取り除くことが出来るか、婦人たちはわかりません。それでも婦人たちは墓へ急ぎました。
・墓に行くと、石は既に転がしてありました。ユダヤの墓は岩をくりぬいて作る横穴式の墓です。婦人たちが中に入りますと、右側に天使が座っているのを見て、婦人たちは驚き、怖れます。婦人たちは天使の声を聞きます「あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。」(16:6-7)。婦人たちは墓から逃げ去りました。信じることが出来ない出来事に直面し、怖ろしかったからです。マルコ福音書はここで突然に終わります。9節以下は、後代の付加と考えられています。「イエスの遺体が納められていた墓が空であった」、それだけでマルコは復活の出来事を示すのに、十分だと思ったのでしょう。
2.復活をいかに理解するか
・イエスの十字架については、四福音書はほぼ同じ事を伝えます。しかし、復活についての記述はばらばらです。ただ、復活を信じることがいかに困難であったかについては、各福音書とも共通して伝えています。マルコはイエスの復活を告げ知らされた婦人たちが「震え上がり、正気を失った」と書き(マルコ16:8)、ルカは、婦人たちの報告を聞いた弟子たちが「たわごとのように思われたので信じなかった」(ルカ24:21)と記します。マタイでは、復活のイエスに出会った弟子たちが「疑った」(マタイ28:17)とあり、ヨハネでは、報告を受けたペテロが遺体がなくなっている事を確認するために墓に急ぎますが、イエスの復活を信じなかったとあります(ヨハネ20:10)。復活はその出来事を直接目撃した人でさえ、信じることが難しい出来事だったのです。
・しかし、私たちは、復活は実際に起こった出来事と信じます。イエスの十字架の時、弟子たちは逃げていませんでした。復活の朝、弟子たちは「家の戸に鍵をかけて閉じこもっていた」とヨハネは書いています。弟子たちはイエスを捕え、処刑したユダヤ当局が、自分たちも捕えるのではないかと怖れていたのです。その弟子たちが、数週間後には、神殿の広場で「あなたたちが十字架で殺したイエスは復活された。私たちがその証人だ」と宣教を始め、逮捕され、拷問を受けてもその主張を変えませんでした。弟子たちの人生を一変させる何かが起こったのです。それが復活の出来事であったと私たちは理解します。
・今日の招詞に1コリント15:3−5を選びました。次のような言葉です「最も大切なこととして私があなた方に伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおり私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」。パウロは「キリストが死んだこと、葬られたこと、三日目によみがえったこと、復活されたキリストが弟子たちに現れた」ことを「最も大切なこととして受け、あなたがたに伝えます」と証言しています。この証言から言えることは、復活には多くの目撃者がいたということです。私たちは、復活を歴史的事実として証明することは出来ません。しかし、弟子たちが復活信仰を持ち、死を持って脅かされてもその信仰を捨てなかった事、復活信仰が中核になって教会が生まれていった事は歴史的事実です。
3.私たちと復活
・キリストの復活を信じるかどうかは、私たちが現在をどう生きていくかを決定します。復活を信じることが出来ない時、人生は死で終わります。死で終わりますから、現在を楽しむことに関心は集中します。「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身だから」と言う生き方になります。しかし、その楽しみもやがて終わります。人はすべて死ぬからです。復活を信じることが出来ない時、その生涯は、終身刑を言い渡された囚人の人生のようです。死で全ての望みが砕かれますから、そこには希望はありません。
・キリストの復活を信じる時、人生の意味は変わってきます。死が終わりではなく、死を超えた人生が開けるからです。キリストは十字架で殺されました。十字架は命を奪うための道具であり、人間が人間に対して犯す罪の最大のものです。しかし、同時に十字架は、罪が為しうる最後の手段であり、それ以上のものはないことをも示します。権力者は自分に逆らう者を殺すことは出来ますが、それ以上のことは出来ません。イエスが復活されたと言うことは、「人が倒した者を神が起こされた」事を意味します。神は悪をそのままには放置されない、例えどのような悪があろうとも、神は「悪を変えて善と為す」力をお持ちであることを、私たちは復活を通して知ります。現実にどのような悪があろうとも、その悪は終わることを信じますから、私たちは悪に飲み込まれません。どのような困難があっても、「悪を変えて善と為す」神がおられるから、私たちは絶望しません。私たちが復活を信じるということは、この世界が究極的には、「神の支配される良き世界」であることを信じることです。その信仰が希望をもたらします。
・初代教会はイースター礼拝を土曜日の夜から始めました。土曜日の夜に人々は教会に集まり、徹夜で祈ります。今は闇であっても必ず光の朝が来ることを信じて祈ります。夜明け前、一番暗い時に、イエスをキリストと信じた入信者にバプテスマを施します。そして夜明けと共に、新しく兄弟姉妹となった人々と共に、主の晩餐=愛餐の食事を祝います。今日、私たちは猿渡兄のバプテスマ式と林兄の転入会式を執り行います。バプテスマはまさに十字架と復活を象徴する儀式です。全身を水に浸して古い自分に死に、全身を水から引き上げて新しい誕生を祝います。新しくキリストを信じた兄弟が私たちの教会に与えられたこと、また他の教会で信仰を与えられた兄弟が私たちと共に信仰生活を続けたいと表明して下さることは、神が生きて働いておられるしるしです。まさに、イースターにふさわしい行事です。今年もまた、このような喜ばしい行事で、主の復活を祝うことが出来ることを感謝します。
・最後に水野源三さんの詩を読みましょう。脳性まひで寝たきりの生涯を送り、唯一、自由に動かせるまぶたの瞬きで詩を書き続けた信仰者の詩です。「空には夜明けとともに雲雀が鳴きだし、野辺にはつゆに濡れてすみれが咲き匂う。こんな美しい朝に、こんな美しい朝に、主イエス様は墓の中から出てこられたのだろう」。「こんな美しい朝に、主イエスは墓の中から出てこられた」。私のこの動かない身体も、復活の朝には健やかな身体にしていただける、その日を待ち望もう。復活の信仰は希望の信仰です。この信仰がある限り、どのような苦しみの中にあっても、人は現在を喜ぶことが出来るのです。ユダヤでは、一日は日没で始まります。夜の後に朝が来ます。「夕があり、朝があった」、「闇があり、光があった」、「十字架があり、復活があった」。イースターは「こんな美しい朝が来た」ことを喜ぶときです。