江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2006年2月5日説教(マルコ4:1-9,26-32、福音の種)

投稿日:2006年2月5日 更新日:

1.蒔かれた種のたとえ

・マルコ4章には、イエスが語られた三つのたとえ話が載せられている。いずれも「種」をめぐる話だ。「神の国はこのようなものだ」との前置きで語られているから、種はイエスが伝えられた福音の種であることは間違いない。福音の種がまかれたとき、その種はどのような働きをするのか、それが三つの視点で語られている。今日は、この種のたとえを元に、福音はどのように広がっていくのか、そこで私たちは何をすべきかを共に考えたい。
・最初に語られたのは「種を蒔く人のたとえ」だ。こういう話だ。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった」(マルコ4:3-7)。
・パレスチナでは11月から12月にかけて、大麦や小麦の種をまく。最初に手で畑一杯に種をまき、その後で耕して種に土をかぶせるのが一般的だ。手で蒔くから、種はいろいろなところに落ちる。ある種は道端に落ちた。道端は人が通って踏み固められているから、種は根を下ろすことが出来ず、やがて鳥が来て食べてしまう。別な種は土が浅い岩地の上に落ちた。土が浅いため、暖められてすぐに芽を出すが、根を張っていないため、すぐに枯れた。別な種は茨の間に落ちた。種は発芽し、芽は伸びていくが、やがて茨にふさがれて、実を結べなかった。
・この種は福音=神の言葉だ。神の言葉が宣教された。道端にまかれた種とは、閉ざされた心に語られた言葉である。人が自分の経験や考えを絶対のものと思うとき、他者の言葉を受け入れない。日本では「宗教は弱い人のものであり、自分には関係が無い」と思う人が男性中心に多い。妻が教会に行くことには反対しないが、自分は行かない、そのような人にイエスの言葉が伝えられても、種は発芽しない。岩地に落ちた種とは、イエスの言葉や行いを見て、信じるようになるが、すぐに冷めてしまう人たちのことだ。日本では毎年数千人がバプテスマを受けるが、多くの人は何年かすると教会から離れる。バプテスマを受けても病気はなおらないし、困難な状況が解決されるわけではないから、失望して教会を去る。茨の間に落ちた種とは、生活の忙しさの中で神の事柄を締め出してしまう人々のことだ。バプテスマを受けクリスチャンになっても、現実には学生として、職業人として、あるいは家庭の主婦として生きる。仕事が忙しい、家族が反対する、やがて礼拝が義務的になり喜びがなくなる。そして何時の間にか信仰から離れてしまう。
・このたとえはイエスご自身の伝道体験から語られたものであろう。御言葉が語られても、ほとんどの人は聞こうとしないし、ある時は熱心に聴いた人も、やがて去ってしまう。しかし、種=神の言葉は力を持つ事を知っておられる故に、イエスは落胆されない。イエスは言われる「他の種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった」(4:8)。種に命がある、その命は成長し、多くの実を結ぶ、父なる神はそう約束された。それを信じて、やるべき事をやっていこう。そのお気持ちが、次のたとえにつながっていく。「成長する種のたとえ」である。

2.成長する種とからし種のたとえ

・イエスは蒔かれた種には命があり、種はそのものの力で成長していくと言われる。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土がひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる」(マルコ4:26-28)。
・農夫が種を蒔く、その種がどうして成長するのか、彼は知らない。しかし、種が蒔かれ、土がかぶせられ、雨が降り、太陽がさすうちに、種は発芽し、茎が伸び、穂が出て、やがて豊かな実をつける。一粒の種が、30倍、60倍の実になっていく。福音の種も同じだ。御言葉が人の心に蒔かれると、それは信仰として芽生え、成長する。どうしてそうなるのか、伝道者自身も知らない。しかし、そうなることを知る故に、彼は伝道する。種には、命がある。からし種のような小さい種も、やがては鳥が止まるほどの大きな存在となる。イエスはたとえを続けられる。
・「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る」(4:30-32)。からし種、マスタード・シードだ。大きさは1ミリに満たない、種の中で最も小さいものだ。その最も小さい種でさえ、成長すると高さ3メートルほどの大きさになる。イエスは「神の国は来た」と繰り返し言われた。誰もそれを認めようとしない。種が小さすぎて目に入らないからだ。しかし、それはやがて大きな木になる。今、イエスの目の前には、少数の弟子たちと大勢の群集がいる。群衆はイエスが病気の人を癒し、悪霊を追い出される限り、自分たちに利益を与えてくれる限り、イエスと共にいる。しかし、権力者がイエスを捕らえ、十字架にかけようとすると、群集は一転してイエスにつばを吐きかけるだろう。弟子たちはイエスに従った。しかし、イエスが捕らえられると、彼らも逃げた。イエスの伝道の業はからし種のようだ。あるかないかわからない。それはイエスが生きておられた時には実を結ばなかった。イエスが十字架で死なれた時、誰もそれを大変な出来事だとは思わなかった。しかし、その十字架から、多くの芽が発芽した。

3.一粒の種として死ぬ

・今日の招詞として、ヨハネ12:24を選んだ。次のような言葉だ「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。イエスはガリラヤ伝道を終えられると、エルサレムに向けて歩かれた。エルサレムに入城された時、民衆はイエスを熱狂的に迎えた。人々はイエスが不思議な力を持ち、その力で支配者ローマを追い出し、イスラエルに神の王国を建設してくれるのではないかと期待した。しかし、イエスは、民衆の心を知っておられた。解放者としてイエスを歓呼する群集が、やがてイエスがそうでないことがわかれば、一転して「十字架につけろ」と憎悪する群集に変わる。イエスは言われた「人の子が栄光を受ける時が来た。・・・一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12:23-24)。人の子が栄光を受ける、民衆はイエスが王として立つことを期待した。しかし、イエスは力でローマを倒しても、そこに何も生まれない事を知っておられた。イエスは地上の王になることを拒否され、十字架の道を選ばれた。イエスは自らを種として死ぬ道を選ばれた。
・「一粒の麦が死ななければ」、麦を種として地に蒔けば、その種は地の中で、壊され、形を無くして行く。そのことによって芽が生え、育ち、やがて多くの実を結ぶ。麦を蒔かずに食べれば、それは一時の食糧にはなるが、食べればなくなり、後には何も残さない。イエスが王として立っても、それは一時的なものに終わる。しかし、十字架で死ぬことによって、種となることによって、そこから多くの命が生まれていく。
・私たちは麦として生きるのか、種として生きるのか、どちらを選ぶのかがここで問われている。麦として生きるとは、人生の完成を目指して、自己実現のために生きることだ。多くの人がその道を選ぶだろう。しかし、その人生は死んだ後に何も残さない。もう一つの人生は、麦として死に、種として生きる人生だ。不人気な選択だ。私たちは、世間的には人気のない、この道を選択する。そこに真理があるからだ。イエスは言われる「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」(ヨハネ12:25)。自分の幸福だけを求め続けても人は幸せになれない。私たちもある時、自分だけのために生きる人生の虚しさに気づいた。本当の幸せ、人生の喜びは他者との交わりの中から生まれる。他者との交わりに生きるとは自己を捨てることだ。種が自らを無くし、その事を通して多くの命を生んで行く、そのような生き方だ。イエスが来られた、イエスの言葉が語られた。種は蒔かれた。その種は、成長して、多くの実を結んだ。私たちも、その実の一つだ。私たちが、実のままでいれば、それは一つのままだ。しかし、私たちが実である事を放棄し、種になれば、それは30倍、60倍の新しい実を生む。種として生きる、それは具体的には何かを自分の生活の中で考えるように、私たちは今日、招かれている。

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