江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2006年2月26日説教(マルコ4:35-41、嵐の中の舟)

投稿日:2006年2月26日 更新日:

1.嵐の中で慌てふためく

・私たちは聖書日課に従って、マルコ福音書を少しずつ読んでいます。今日の箇所は、イエスが弟子たちと舟に乗って向こう岸に行こうとされた時に、嵐になり、舟が沈みそうになりましたが、イエスが風と波をお叱りになると、嵐は静まったという不思議な話です。詳しく、物語を見て行きましょう。
・イエスはガリラヤ湖のほとりで人々を教えておられましたが、夕刻になりましたので、人々を解散させ、弟子たちに「向こう岸に渡ろう」と言われました。弟子たちは舟を漕ぎ出し始めました。イエスは疲れのためか、すぐに深い眠りに落ちられました。舟を漕ぎ出してまもなく、突然強い風が吹き始め、波が激しくなりました。ガリラヤ湖は海面下200メートルの低地にある、周囲を山に囲まれた湖です。天気の良い日には暖められた空気が上昇して希薄になり、そこに山から突風が吹き下ろしてきます。あたりは全くの暗闇です。風が強まり、波が荒れ、舟は木の葉のように舞い、沈みそうになります。ペテロやアンデレはガリラヤの漁師でしたので、最初は自分たちで何とか出来ると思い、努力したことでしょう。しかし、このたびの嵐は彼らの手に負えないほどのものでした。舟はまさに沈みそうです。しかし、イエスは寝ておられます。弟子たちはイエスを揺り動かし、訴えます「先生、起きてください。私たちが溺れてもかまわないのですか」。イエスは起き上がり、風を叱り、湖に黙れと言われました。すると、風も波もおさまり、静かになりました。イエスは弟子たちを叱られました「何故怖がるのか、まだ信じないのか」。
・イエスは弟子たちを叱られました。それは、イエスが共におられたのに、彼らが恐れおののき、慌てふためいたためです。「どうして怖がるのか、まだ信仰がないのか」。私と毎日共にいて、神の不思議な業を見、話を聞きながら、なぜ嵐になると、あたかも神がおられないかのように慌てふためくのか。イエスは嵐の中で熟睡されておられました。神に対する信頼の故です。イエスは言われました「一羽の雀さえ、父のお許しがなければ、地に落ちることはない」(マタイ10:29)。川も海も山も、父なる神の御手の中にある。雀さえも神の許しなしには死ぬことはない、ましてやあなたがたは神の子とされているではないか、それなのに何故怖れるのかとイエスは言われています。赤子はどのような嵐の中にあっても母親が抱いていれば安眠する、あなたがたもそのように安心して父に全てを委ねればよいのだと言われているのです。

2.嵐を静めるキリスト

・しかし、私たちは、自分の安全を神に委ねきることは出来ません。私たちは、順調な時には、神が共にいてくださるという事実を、感謝をもって承認します。しかし、危急存亡の時には慌てふためきます。神がおられるといいう事実が何の意味もないように思えます。主は眠っておられるからです。人生には必ず嵐があります。勤め先の人員整理で職を失う人もいます。健康診断で癌が宣告され、恐怖に震える時もあります。愛する人が亡くなることもあるし、離婚を余儀なくされる場合もあるかもしれません。誰かにいつでも起きている出来事が自分に起こる時、私たちは絶望のふちに追い込まれます。その時、いくら祈っても新しい職は与えられず、病もいやされないかもしれない。離婚はお互いが長い時間を苦しめられる問題です。私たちは救いを求めて叫びます。しかし、目に見える助けがすぐに来ない時、私たちは信仰を保てるのか、叫んでも応答がない神に委ね続けることが出来るのか。そのことが今日、問われています。
・このマルコの物語は、信仰が揺らいだ時にはイエスが起きられるまで、叫び続けよと教えます。イエスは眠っておられる、しかし、求めれば起きて下さり、「黙れ、静まれ」と嵐を静めて下さる。その後で、私たちは叱られるかもしれない。しかし、その叱りを通して、私たちは成長していきます。人は順調な時には自分の欠けているところや足らないものが見えません。イエスの弟子たちも、主に従う者として、信仰と信頼にあふれて舟に乗り込みましたが、一旦嵐にあうと、今まで信じていたものはどこかに飛び去り、慌てふためきます。彼らがイエスに言った言葉を思い起こして見ましょう。「先生、私たちが溺れてもかまわないのですか」。平行箇所のマタイは、この言葉が「主よ、助けてください。溺れそうです」(マタイ8:25)に変えられています。ルカでは「先生、先生、溺れそうです」(ルカ8:24)になっています。マタイとルカはマルコのあからさまな表現を和らげています。マルコの言葉が真実に近いと思われます。弟子たちは「自分たちは死にそうになっているのに、あなたは私たちをほったらかしして平気なのですか」とイエスを責めているのです。そうです、それが人間なのです。苦難に会うと人は信仰をなくしてしまう存在なのです。今この時、神の国の喜ばしい知らせなどは弟子たちの頭からすっかり消えうせています。彼らの頭にあるのは溺れる、死ぬ、その恐怖だけです。
・福音は聞いただけでは人を変える力を持ちません。福音を生きるようになって、人は変わり始めます。福音を生きる、信仰を持つことの第一歩は、自分が無信仰である事を知ることから始まります。私たちは苦難を通して、自分の真実の姿を示され、自分に頼る事が出来ない事を知らされ、神を求め始めます。その時始めて、神は応えて下さいます。病気、苦難、天災、その他全ての不幸には意味があります。神はそれぞれの苦難を通して、私たちを導かれます。「神は苦しむ者をその苦しみによって救い、彼らの耳を逆境によって開かれる」(ヨブ記36:15)。苦難こそ、祝福への道なのです。

3.この方に信頼して生きる

今日の招詞に〓コリント1:10を選びました。次のような言葉です「神は、これほど大きな死の危険から私たちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、私たちは神に希望をかけています」。
・パウロはアジア州で死ぬような目にあったといっています。重い病気にかかって、生死をさまよったのかもしれません。牢獄にとらえられ、死刑を覚悟したのかもしれません。余りの苦しさに生きる望みを失い、心中密かに死を覚悟したのでしょう。しかし、神はその苦難からパウロを救って下さった。この事を通して、パウロは問題を自力で解決しようとしていた誤りがわかったと言っています。今日の招詞の前に彼は書きます。「兄弟たち、アジア州で私たちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。私たちは耐えられないほどひどく圧迫されて・・・死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました」。
・信仰は生きた生活体験の中から生まれてきます。もう駄目だという時に、神が救って下さった、このような体験をした者は、今後も来るであろう苦難の中にあっても、神を信頼して生きていくことが出来ます。イエスは信じる者は病気をしないとか、愛する者を奪われることはないとか、苦難は臨まないとかは約束されませんでした。私たちも病気にかかり、愛するものが死に、苦難は臨むであろうと言われています。舟が沈むこともありうるのです。ただ、イエスは約束されました「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(ヨハネ11:25-26)。
・私たちの人生は海を航海する舟のようです。海の上を航海しますから、常に不安定です。戸板一枚の下には、底知れない闇があります。嵐が来れば、木の葉のように翻弄されます。しかし、私たちの舟にはイエスが乗っておられる。眠っておられるかもしれないが、起こせば起きて下さり、嵐を静めて下さる。「風と波を叱り、静める力をお持ちの方が、私たちと共におられる」、その事を私たちは信じることが許されている、これが福音です。「神は、これほど大きな死の危険から私たちを救ってくださった・・・これからも救ってくださるにちがいないと、私たちは神に希望をかけています」、こう言える人こそ、人生における宝物を獲得した人なのです。

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