江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2006年12月17日説教(詩篇85:2-14、救いの待望)

投稿日:2006年12月17日 更新日:

1.期待を裏切られた人々へ

・アドベント第三主日を迎えています。アドベントはキリスト降臨を待ち望む時、救いの完成を待望する時です。アドベントに入って、私たちは旧約聖書から御言葉をいただいています。最初にエレミヤ書33章を読みました。イスラエルは神に背くという罪を犯したため、裁きを受け、エルサレムはバビロニヤの大軍に取り囲まれています。やがてエルサレムは陥落しますが、まさにその時、エレミヤは「新しい契約」の預言を受けます。「エルサレムは滅ぶが、その滅びの中から、新しい契約をイスラエルと結ぶ。償いが終われば、再びあなたたちを立てる」との回復の約束です。先週はイザヤ55章を読みました。イスラエルが国を滅ぼされ、バビロンの地に捕囚となって50年が経過しました。もう誰もエルサレムに帰る夢をあきらめた時、「あなたたちの苦役の時は終わった。罪は償われた。エルサレムに帰る時が来た」との解放の知らせを受け、イスラエルは帰国の喜びで満たされます。今日、私たちは、帰国したイスラエルの祈りを聞きます。それが詩篇85編です。
・詩篇85編はバビロンからの帰還がなされた紀元前520年頃を背景としています。詩人は歌います「主よ、あなたは御自分の地をお望みになり、ヤコブの捕われ人を連れ帰って下さいました。御自分の民の罪を赦し、彼らの咎をすべて覆って下さいました」(85:2-3)。イスラエルは国を滅ぼされ、人々はバビロンに捕囚として連れ行かれ、苦しい50年を過ごしました。そして、解放の時が来て、喜び勇んでエルサレムに戻りました。救いが為されたのです。その喜びが詩篇126編にもあります「主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて、私たちは夢を見ている人のようになった・・・涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌を歌いながら帰ってくる」。50年の労苦が報いられた、主は私たちに大きな喜びを下さった、民は感謝しました。
・しかし、喜び勇んで帰った捕囚の民を待っていたのは、期待を裏切る現実でした。神の都と言われたエルサレムは見る影もなく荒れ果て、自分たちの住まいには異邦人が住んでいました。畑も他人のものになっています。50年間も彼らは故郷を離れていましたから、今、彼らのいるべき場所はありません。それが現実でした。それでも彼らは勇気を奮い起こし、畑を買戻して鍬を入れ、神殿の再建に取り掛かかります。しかし、神殿を再建しようにも、材料もお金もありません。神殿の土台石は築かれましたが、やがて工事は中断し、再開のめどは立たなくなりました。そこに激しい飢饉が襲い掛かり、人々は飢餓に直面します。せっかく国に帰ったのに、現実は期待を裏切り、明日に希望が持てません。喜びはさめ、つぶやき始めます。そのつぶやきが6−7節にあります「あなたはとこしえに私たちを怒り、その怒りを代々に及ぼされるのですか。再び私たちに命を得させ、あなたの民があなたによって、喜び祝うようにして下さらないのですか」。まだあなたの怒りは続いているのですか。これが救いなのですかと民は訴えます。期待と現実は往々にして違います。希望を持って新しい学校に入学しても、いじめが待っていることもあります。心をときめかせて結婚したのに、現実の生活は期待を裏切ることばかりということもあります。期待が裏切られた時、私たちはどうするのか、それが今日問われていることです。
・この詩人は第三イザヤと呼ばれた預言者ではないかと言われています。イザヤ書56~66章が第三イザヤと呼ばれる預言書で、帰国後のイスラエルに語られた言葉です。彼は民のうめきを聞きます「主の手が短くて、私たちを救えないのではないか。主の耳が鈍くて、私たちの声が聞こえないのではないか」(イザヤ59:1)。主は本当におられるのだろうかと民は疑い始めています。期待は裏切られ、現実の生活は厳しい。それに対して、第三イザヤは言います「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させお前たちに耳を傾けられるのを妨げている」(59:1-2)。あなたたちはうまく行かないとすべてを神のせいにする。しかし、悪いのはあなたたちではないのか。それを悔いることなく、神が悪い、社会が悪い、不平ばかりをつぶやく。あなたたちは捕囚からの解放と言う恵みを忘れ、現実の苦しみだけを述べているとイザヤは言います。まさにそうです。私たちは物事がうまくいかないとすぐ人のせいにしますが、そのようなつぶやきからは何も生まれません。私たちが人間の現実だけを見る時、そこに救いはありません。聖書は「神の現実を見よ、神が何をして下さったかを考えよ」と語ります。「バビロンから救い出して下さった方は、あなたを憐れむと約束されているではないか」、その信仰が85編9節以下に語られます「私は神が宣言なさるのを聞きます。主は平和を宣言されます。御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に、彼らが愚かなふるまいに戻らないように。主を畏れる人に救いは近く、栄光は私たちの地にとどまるでしょう」。

2.愚かな振る舞いに戻るな

・詩人は歌います「愚かなふるまいに戻るな」と。詩人は解放の出来事を思い起こして、イスラエルを赦された神を歌います。バビロン捕囚は、神に背いたイスラエルの罪が招いたものでした。バビロニヤの強大な軍隊の前にエルサレムは破壊され、知識人や技術者たちは捕囚となって異邦の地へ連行されました。捕囚の民は、国の滅亡を裁きとして受け止め、悔い改めました。敗戦を神の裁きと受け止めたイスラエルにとって、捕囚からの解放は罪の赦しを意味しました。イスラエルは敗戦を手がかりに、神の赦しの中で、信仰に基づく新しい社会を建設し始めました。そうした歴史の中で詩編85編を読む時、「愚かなふるまいに戻るな」とは、かつて国を破滅に導いた偶像崇拝に戻るなと言う意味であることがわかってきます。
・偶像崇拝とは、木や金で出来た像を拝むことではありません。神を自分たちの利益のために用いようとする一切の行動を指します。病気をいやして欲しい、苦しみから助けて欲しい、自分と家族が健康に暮らせるように守って欲しい。いやしてくれれば讃美し、助けてくれれば礼拝する、そうでなければ拝まない。偶像とは自分のための神です。神がイスラエルに求められていたのは、隣人を愛することでした。しかし人々は自己の利益だけを追い求めました。その結果、裁かれました。
・人間の愚かさが招いた戦争という悲惨は、人々の心に深く刻まれて、神の怒りに結び付きます。しかし、神はイスラエルを赦して下さり、汚れた土地を再び受け入れて下さった。「愚かなふるまいに戻るな」、赦されたのだから、もう神から離れてはならないと詩人は歌います。現実が期待と異なる時に私たちはつぶやきます。自分の欲するものを与えられなければ文句を言います。それが偶像崇拝なのです。信仰とは、この偶像崇拝を超えることです。どのような現実であれ、それから逃げない。それを神の与えたもう試練として受け入れていく。そのとき、現実が変えられていく。「主は必ず良いものをお与えになり、私たちの地は実りをもたらされる」(85:13)。荒れ果てた地に、再び豊かな作物の実りが与えられる日が来ると預言者は希望を歌います。信仰者も満たされない時はつぶやきますが、そのつぶやきはやがて讃美に変わって行きます。将来の救いを待望するからです。

3.救いの待望

・今日の招詞にルカ4:18−19を選びました。次のような言葉です「主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである。主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」。イエスが引用されたのはイザヤ61章、第三イザヤの言葉です。前に見たように、第三イザヤの時代は、前途に希望がありませんでした。社会に希望がない時、人々の考えることは自分の事だけです。自分だけは生き残り,良い暮らしをしたい。だから、富める者、力のある者は、その富や力を使ってむさぼり、孤児ややもめは虐げられています。神の支配など、どこにも感じられません。その中で、イザヤは神が直接行動されるとの言葉を聞きました。神がメシヤを遣わし、この世を改めて下さるとの幻を見ました。その幻がイザヤ61章の預言です。その幻をナザレで育ったイエスも見られました。自分がメシヤとして聖別され、世に遣わされたことを確信されたイエスは、宣教の始めに故郷ナザレの会堂でイザヤ書を読まれ、言われました「この言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と(ルカ4:21)。
・イエスの時代もまた、前途に希望の持てない時代でした。ユダヤはローマの植民地であり、ローマと、ローマの任命する領主の双方に税金を納めなければなりませんでした。税金を払えない人は妻や子供たちを売り、それでも払えなければ投獄されました。人々は小作人として働き、収穫の半分以上は地主に取られ、飢饉の時には餓死者が出ました。豊作の時でさえ食べるのがやっとで、病気に罹れば治療を受けることなく死んでいきました。人々は約束されたメシヤが来て、生活が良くなることを待望していました。その人々にイエスは言われました。「私がそのメシヤだ。あなた方の救いは、今日私の言葉を耳にした時に成就した」と。
・神が行為されました。救い主が来られました。それがクリスマスです。世の中は根底から変わりました。しかし、人々は言います「何も変わっていない。私たちはイザヤと同じ状況にいるではないか。イエスの時代と何が違うのか」。現代の日本を見よ。政治家は自らの利益のために国政をゆがめ、役人は権益保護のために必要のない道路や施設を作り、財政負担を減らすために医療や年金の保険料は上がり、生活は苦しくなっている。学校に適応できない子供たちは不登校になり、就職できない若者は家に閉じこもり、未来に希望をもてない者は自殺していく。イエスが来られたのに、世の中は何も変わっていないではないか。人々はつぶやきます「主の手が短くて、私たちを救えないのではないか。主の耳が鈍くて、私たちの声が聞こえないのではないか」。
・この現実にもかかわらず、イエスが来られて、世界は根本から変わりました。イエスの後に従う者が出てきたのです。「捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げる」ために、自分はここに生かされていると考える人々が生まれてきたのです。ゲルト・タイセンと言う聖書学者はこの人々を「キリストにある愚者」と呼びます。キリストにある愚者とは、「世の中が悪い、社会が悪いと不平を言うのではなく、自分には何が出来るのか、どうすればキリストが来られた恵みに応えることが出来るのか」を考える人たちです。つまり私たちです。私たちこそ、キリストにある愚者として、教会に集められているのです。そして私たちは詩篇85編を生活の中で証ししていくのです「主は必ず良いものをお与えになり、私たちの地は実りをもたらします。正義は御前を行き、主の進まれる道を備えます」(詩篇85:13-14)。この救いの約束を生き、宣べ伝える者となるのです。過去に神の救いの恵みを体験したゆえに、現在の状況がいかに厳しくとも、将来の救いを待望することの出来る民が形成されました。希望を失わない民が生まれました。それがクリスマスの出来事です。

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